螺旋の誘い
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Epilogue
起き抜けに小鳥の囀りがわんわんと耳に響く。
奥さまがこんな奥まった部屋をわざわざ使われたのも何となくわかる。本来は物置だったのか梁は剥き出しで、天井は切妻の三角形がそのままに見えている。
ここへ越して来てから一ヶ月は経つのに、この天井にはまだ馴染めない。
ふっと目を開けると、天井の奥の奥に黒々とした闇が潜んでいるのだ。どんなに日が昇っても決して消えることのない闇が。
あの方は何を思ってこの闇を見たのだろうか。
この部屋に置かれてあった奥さまの物はほとんどが処分され、唯一残っているのは部屋の隅に据えられた紫檀の鏡台だけ。それもずっとここにあったものではなく、千影ちゃん――この家ではそう呼ばなくてはならない――が持ち出していたのを元に戻しただけなのだ。
鏡台の前に座り、じっと自分の顔を眺める。
ほのかな朝日に照らされた中、目尻に小じわが浮き出て見えた。急に物悲しくなった。
わが身の老いが悲しいのではない。時間の流れというものが、ふと身につまされたのだ。
奥さまがこうしてこの鏡を覗き見ていたころ、あの方はまだ二十代の半ばだった。当時の私は中学生、遠くフランスで母とふたりきりの暮らし。私も奥さまも幸せの只中にあった。
あれから十数年が過ぎ、私は三十になってしまった。
あと何年かすれば、私は奥さまの年齢を超えてしまう。あの方は本当に若いままで逝ってしまわれた。その美しい後姿を私たち姉妹に遺して。
死者は年を取らない。ただそれだけのことだとわかっているのに、こんなにも感傷的になってしまうのはどうしてだろうか。やはりそれは、今まで別れ別れだった姉妹が再び集ったことと関係があるのだろうか。
私は苦笑いし、かぶりを振ってとりとめのない思考を追い出した。あまりのんびりはできない。妹たちの朝食を用意するのは姉としての、そして、メイドとしての役目だ。
弾みをつけて立ち上がると床板が軋み、かたんと鏡台が鳴った。以前に折れた脚の修理が不完全なせいだ。
メイドという役目柄、腕のいい家具工房はいくつも知っている。彼らの手に掛かればすぐにでも元通りになるだろう。奥さまが使われていたあの頃の姿に。
にも関わらず、修理に出す気は起きなかった。
それはきっと、今の環境に満足しているからなのだろう。
一度完全になってしまっては、後は綻びてゆくしかない。山の頂上からその先にあるのは下り道だけだ。
どこかが欠けていれば、それを補わない限り完全にはならない。まだ上へと続く道がある。
私はこの幸せを失いたくはない。たとえひとつたりとも、この手から逃がしたくはない。抱えたこの腕から、あの子たちを離したくはない。
物思いに耽る私の耳に、どすんという鈍い音が壁を伝わり聞こえてきた。
*
包丁がまな板を叩く音に混じり、ぺたぺた歩く音が近づいてくる。
「おはよう、姉や」
「あら、おはよう。亞里亞ちゃん」
包丁を止め、私は振り返る。そこには濃緑のセーラー服に身を包んだ亞里亞さま――ではなくて、亞里亞ちゃんの姿があった。ゆるやかにウェーブの掛かった髪が真っ直ぐに下り、ほんの少しの動きにもふわふわと弾んでいる。
「今朝はずいぶんと早いのね。千影ちゃんはどうしたの?」
「ちぃ姉やはまだおねむです。ベッドから落ちたままで、ウサギさんのぬいぐるみも一緒です」
「あらそう、またなの。今日は早起きしなくていいのかしら」
「わたし、ちぃ姉や起こしてきます」
と言うなり、亞里亞ちゃんはぺたぺたと駆け出してゆく。
その背中を目で追いながら、朝食の支度を進める。とはいってもトーストにサラダというごくシンプルなものなのだが。家事全般は一通りこなせるといっても、料理の腕を振るう機会はほぼ皆無だったのだ。その分は多少割引いてもらわねば。
私たち姉妹――そして主従――が千影ちゃんの家へ越すにあたって、シェフと家政婦の老夫妻には以前と同様に住み込んでもらっている。家宰の役割をも担っている私が同居するにあたってのネックは、誰が館の管理を勤めるのかという点だった。
ところが、それを耳にした老夫婦はその役割を即座に引き受けてくれたのだ。執務はおふたりが学校へ通われている間に戻ってこなせばいい、と言い添えて。
結局は夫婦の好意に甘えることにし、姉妹三人での新しい暮らしが始まった。
そして私は『じいや』から『姉や』になり、『姉や』は『小さな姉や』、『ちぃ姉や』になった。
私はふたつお揃いのマグカップを取り出す。黒ウサギの描かれたカップにはコーヒーをそのまま入れ、白ウサギのカップには一度注いだ後で飲み干す。カップの口をぬぐうと、そこへ冷たいミルクを並々と注ぎ入れる。ほんのりと香ばしい匂いの漂う、限りなくミルクに近いカフェオレは下の妹のための飲み物だ。
あらかた用意し終わった頃、廊下にふたり分の足音が響く。
「おはよう、姉さん」
目をこすりながら椅子に座る千影ちゃんはまだ眠たげで、手にした朝刊を食卓へ鷹揚に広げる。それに目を向けたままで、コーヒーを注がれたばかりカップを手繰り寄せる彼女の姿はサラリーマンさながらだ。ブラウスの胸元から鎖骨の窪みが見える。
その姿を眩しそうに見つめていた亞里亞ちゃんが、カップを手にしたままでふと首を傾げる。
「ちぃ姉や、新聞が反対です」
その指摘に慌ててひっくり返した千影ちゃんは、取り繕うように何度も咳払いする。
「うん、いや、その、反対からでも読めるようになると、何かと便利じゃないか。それの訓練さ」
今度は彼女が隣の様子を窺う番だ。わざとらしい沈黙が続いたかと思うと、やがてどちらからともなく笑い出した。
「ウソはついちゃダメです、ちぃ姉や」
「ああ、そうだったね。すまない、亞里亞ちゃん」
緩む頬と頬をすり合わせる姉妹。そんなふたりの間へ割り込むように、サラダが山盛りになったボールを食卓へ置く。
「ほらほら、そんなことをしているとすぐ時間になってしまいますよ」
そうたしなめると、ふたりは渋々と身体を引き剥がした。
「さぁ、今朝はどちらになさいますか」
千影ちゃんが亞里亞ちゃんにひとつ頷いてみせ、返事を促した。少し考え込むようにして天井を眺めたか亞里亞ちゃんは、
「ちぃ姉やがいい」
と言うなり、姉の首にすがりつく。
ふたつのため息が同時に漏れ出た。ひとつは呆れながらも嬉しさを隠し切れずに、もうひとつは表面的には安堵しつつもその中に残念さを忍び込ませて。
「これはまいったね。今朝もまた私なのかい」
「それなら、代わりましょうか?」
「いや、それはいいよ。せっかくのご指名だからね」
彼女の返事は早かった。毎朝のように同じ問答を繰り返しているのだから、ほとんど型紙のようなものだ。
千影ちゃんは手馴れた仕草で襟足をずらし、白いうなじを露わにした。亞里亞ちゃんが膝の上へよじ登る。
そして、あくびでもするかのように亞里亞ちゃんが大きくゆっくりと口を開け、おもむろに姉の首筋へ顔を埋めた。千影ちゃんの顔が疼痛でわずかに歪み、その直後、襲い来る快感に頬が薄桃に染まった。
しんと静まり返った食卓に、椅子の軋みと喉を鳴らす音だけが大きく響く。
それが私たちの出した結論だった。
吸血という性癖を無闇に押さえ込むのではなく、ラミア(蛇女)としての彼女をあるがままに受け入れることにしたのだ。夜がふければ眠くなるように、朝が来れば目覚めるように、吸血という行為を日常の一部として。
今はもう、ある程度コントロールできるようになっている。あのときのように勝手に変身してしまうこともないし、力をみだりに振るうこともない。吸血を除いては、まったく普通の女の子として日々を過ごしている。
それでも、人を超えた力は人の姿を取っている今でもわずかに垣間見えている。たとえば今がそうだ。血を奪う代償として快感を神経系に訴え掛け、牙が肉を深く抉るにも関わらず傷口は一切残らない。他にも数え上げれば切りがないのだが、思えばそれらは変事の前から現れていたのだ。魂を揺さぶられるような歌声もメリュジーヌとしての片鱗だったのだろうか。
千影ちゃんが、両腕に抱えた銀髪をゆるゆるとなでている。調和の取れたそのふたりの姿は、まるで宗教画のようにも見えた。
私はふと、自分の幸せについて考えてみた。いや、考えるまでもなかった。それはまさに、今このときなのだから。
だが、この幸せがいつまで続くのかはわからない。螺旋の縛めが三人を結びつけたのだとしても、いつかは解き放たれてしまうのだろう。エリナス王がプレッシーナを連れ出したように、レイモン伯がメリュジーヌを連れ出したように、いつか誰かがあの子を連れ出すのだろう。木々に囲まれたこの小さな館から。
それは、本当に見ず知らずの誰かなのだ。私でも、千影ちゃんでも、兄やさまでもない。あの子に永遠の愛を誓うことのできる誰かが現れない限り、私たちはここに留まり続ける。
そして私は願う。
この幸せの終わりを。そして、新たな幸せの始まりを。
銀色の髪が揺らいだかと思うと、けふっ、とかわいらしいげっぷが響いた。