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 降り注ぐセミの鳴き声はまるでシャワーのよう。
 容赦なく照りつける夏の日差しがアスファルトを焼き、衛の身体を両面から焦がしてゆく。
 正午を回ったばかりの太陽はほとんど真上で、街並みから日陰を奪い去っている。人影がほとんど見えないのは、今日が今年一番の暑さになるせいだろうか。今朝の出掛けには兄や姉たちから何度も注意された。日射病には気をつけるようにと。
 しかし、兄から被らされた帽子は、今はバッグの中にある。
 力強くペダルを漕いでMTBを加速させると、生乾きの髪から水気が飛んで行くのがわかった。
「衛ちゃん、冷たーい」
 ごうごうと風を切る音に混ざっているのは花穂の歓声だ。衛の両肩に手を置いて、立ち乗りしている。
「でも、涼しくて気持ちいいでしょ」
 肩へ置かれた手に重みが加わったと思うと、頭の上に何かが乗り掛かった。花穂の声が上から聞こえてくる。
「うん。だから、もっと早く走ってね」
「いくら花穂ちゃんでも、二人乗りでこれ以上は無理。それに、合宿から帰ってきたのって昨日なんだよ」
「えー、だったらもっと早く走れるよね。いっぱい練習したんでしょ?」
「チアとは違うよ」
 口ではそう反論しながらも、衛は妹のリクエストに応えてさらにスピードを速める。が、それもほんの十秒足らずのことで、すぐにピッチが遅くなる。
 住宅地を貫くこの道はゆるやかな上りになっていて、一人で普通に走っていても少しキツい。二人になれば結構キツい。無理をしたツケが即座に太ももへ跳ね返る。おまけにスピードが落ちて風が弱まり、熱く湿った空気がべたべたとまとわりつく。なんだか息苦しい。
 酸素を求めて大きく息を吸うと、絶妙のタイミングで大きくお腹が鳴った。
「あー、もう限界。ボク、お腹ぺこぺこだよー」
「うん、花穂も。だって今朝は、いっぱいチアの練習していっぱい泳いだもんね」
「そうかなぁ? 花穂ちゃんって、シャワー浴びてただけじゃないの」
「そっ、そんなことないもん! 花穂、ちゃんと泳いでたよ。ホントだよ?」
 ビート板だけどね、という言葉を飲み込み、衛はふらつき始めた自転車を立て直すことに専念した。疲れがどんどん溜まっていくのがわかる。正直、一息入れたいところだ。
 二人は学校のプールで泳いだ帰りだった。
 ただし、二人が通っているのは私立の小学校。行き帰りだけでもそれなりに時間が掛かってしまう。何しろ、いつもはトラムとバスを乗り継いで登校しているのだ。
 しかし、今は夏休み。授業があるわけではないので、自転車を使っても怒られることはない。時間はバスとそんなに変わらないが、まどろっこしくないだけでも衛にはありがたかった。
 行きは一人で快調に飛ばして三十分と掛からなかったが、帰りはそうもいかない。プールでたっぷり泳いだ疲れに加え、花穂と合流したおかげで負担はかなり大きい。そして、体力を着実に奪う真昼の太陽。このペースだと、予定をかなりオーバーしそうだ。
「ねぇ、衛ちゃん。車のアクセルって、どっちだっけ?」
「ア、アクセル? えっと……右、だったかな」
「ふぅん、そうなんだ……」
 気のなさそうな返事に、衛は首のあたりがむずむずするのを感じた。こういう時は、花穂が何か変なことをすると決まっている。
 花穂とはおむつを穿いていた頃からの付き合いだが、その突拍子のなさにはいつも困惑させられっぱなしだ。
 肩越しに花穂の様子を窺う衛だが、今のところはこれといった素振りは見られない。
 ほっと一安心してスピードを緩めた途端、
「えいっ!」
 不意に衛の右の耳たぶが引っ張られた。
「ひゃん!」
 冷ややかな指先に驚き、衛は思わず首をすくめた。その反動でMTBが思いっきり蛇行を始める。
「ちょっ、ちょっと、何するの? いくら花穂ちゃんでも、やっていいことと悪いことがあるよ」
 衛はそれでもペダルを漕ぎながら、抗議の声を上げた。体勢はどうにか立て直せたが、おかげで余計な力を使ってしまった。
「ご、ごめんね、衛ちゃん」
 一応あやまってはいるが、あまり真剣さは感じられない。むしろ、どうしてそんなに怒るのかと戸惑っているかのようだ。
「花穂ね、衛ちゃんにもっと早く走ってもらいたかったから」
「でも、だからってアクセルはないよ。ボクは、人間なんだからさ」
 息を切らせながら、ひたすら足を動かす衛。スピードはどんどん落ちて、今やジョギングと変わらないぐらいだ。降りて歩いたほうが早そうな気もするが、こういった坂道では一度足が止まると致命的だ。
「衛ちゃん、大丈夫? 花穂、降りたほうがいいのかな?」
「んー」
 ふと顔を上げた衛は、少し先で坂道が途切れているのを見た。
「ごめん、もうちょっとガマンしてて」
「いいけど、どうしたの?」
 気づいていないらしい様子に、衛は思わずほくそ笑んだ。これなら文句は言わせないし、きっと喜んでくれるはず。
「ねぇ、花穂ちゃん。ボクのカウントダウンに合わせて、右の耳を引っ張って」
「えっ? でも、さっきはダメだって」
「いいからちゃんとやってよ。ほら……3、2、1!」
 花穂が耳を引いたのと、坂道の頂上に達したのが同時だった。とどめとばかりに両足でアスファルトを蹴ると、身体が少しずつ前にのめってゆく。眼下に広がる住宅街は、瓦屋根が白く照り返ってひどくまぶしい。
「あれっ、こんなところに坂道があるの?」
 花穂が、前へ乗り出す格好で衛の首筋につかまった。重心が前へ動き、弾みで加速が始まる。
「花穂ちゃん、しっかりつかまっててね。そーれ、いっくよーっ!」
 一台の自転車と二人の歓声とが一体になって、長い坂を駆け下りて行った。


 長い石塀沿いに走り、壊れて半開きになったままの門をスラロームで抜けると、そこがゴールだった。
 三階建ての古い洋館。玄関のある前庭は北向きで、重厚な石造りと相まっていつもはひんやりと涼しい日陰を生み出している。が、さすがに今は申し訳程度の影しかない。
 屋敷の壁にはビニールプールが裏向きで立て掛けられている。お昼を食べて、もう少し日が伸びてからがこれの出番だ。もっとも、泳げないプールは衛にとって何の意味もないのだが。
「やっと到着ー」
 花穂が礼も言わずに飛び降りたと思うと、二人の荷物を背負ったままで屈伸を始めた。
「どうしたの?」
 花穂はうなずきながら、今度はうーんと背伸びをする。
「花穂、ずっと立ちっぱなしだったでしょ? だから」
「あ、そっか……」
 そういえば、花穂はずっと立ち乗りのままだった。おまけに衛の荷物も背負っていたのだから、かなり疲れたはず。急かすのも無理はないというものだ。
「ごめんね、花穂ちゃん。ボク、もっと急げばよかったね」
「ううん、そんなことないよ。いつも学校に行く道と違ってたから、花穂はすごく楽しかったよ。あの長ーい坂道とか」
 オーバーなアクションを交えながらにっこり微笑まれると、衛もまんざら悪い気はしない。というより逆らえない。わざとやっているわけではないから、長年の付き合いでおおよそのことは許してしまう。
「そ、そうかなぁ」
「だから、また今度もいい?」
「うん、いいよ。何回も走って慣れれば、もっと早くなると思うし」
「よかったぁ。じゃあ、早く行こ? 花穂、もうお腹ぺこぺこだよ」
 よほどに待ちきれないのか、花穂は衛の返事も待たずにさっさと中へ入る。衛は慌ててMTBから下りた。
「あ、ちょっと待ってよ」
 壁際に動かそうとサドルに触れると、表面は汗と湿気でべたべただった。試しに自分のお尻へ手を当ててみると、スパッツがじゅくっと嫌な音を立てた。おまけにひどく熱い。まるでお漏らしでもしたようだ。
 ほとんどをスパッツ穿きで過ごしているのでこういうのには慣れているが、さすがに今日のはひどい。夏の暑さに加え、水泳帰りで生乾きの身体、お尻はサドルに密着していて、その上から花穂の体重が乗っていたのだ。
 スパッツと肌の間に指を差し込んでみると、触れてわかるほどに境目が凹んでいる。無意識になぞっているうち、だんだんと痒くなってきた。
「うぅ、脱いじゃおっかなぁ」
 短パン穿きなら中を覗き見られる心配もない。スパッツなしでもいいはずだが、長年の習性がそれを拒んでいた。元々は、制服のスカートに抵抗をなくすための苦肉の策だったが、今や、もう一枚の皮膚と化していた。例えるなら、亞里亞の被り物と同じだろうか。いつだったか、お気に入りのヘッドドレスが見つからず、代わりに千影のブラジャーを被って出てきたことがあった。
 衛は、その時の一騒動を思い出しながら玄関をくぐる。
 入るなり、生ぬるい風が衛の頬をなでた。昨日に比べてかなり暑い。正面の大階段のステンドグラスがぎらぎらと光っている。
 そんな暑さのせいか花穂はいつも以上に不器用で、額に汗しながら靴紐と格闘している。衛はその隣に座り、スニーカーを脱ぎ始める。
「今日のお昼、何かなぁ。花穂は冷たいのがいいな」
「でも、それだとそうめんかざるそばになっちゃうよ。嫌いじゃないけど、麺類ってあんまり食べた気がしないし」
「じゃあ、冷やし中華は?」
「それもちょっとパス。ボクはやっぱりカレーかな。でも、何の匂いもしてこないから、絶対違うんだろうけど」
「そういえばぜんぜん静かだよね。ただいまって言っても、返事がないし。誰もいないのかな?」
 言いながら花穂が首を伸ばし、左右に伸びる廊下を見渡す。
「あ、ミカエル」
 花穂が目を向けた先には、リビングからのっそりと出てくるミカエルの姿があった。舌と尻尾をだらんと垂れ下げ、吐く息は走り終えた直後のように荒い。金色に光る毛皮とあいまって、いかにも暑そうだ。
 ミカエルは衛たちを見て一瞬びくっとしたが、部屋の中を振り返り見ると、まるで観念したように歩み寄ってきた。
「ねぇ、ミカエル。花穂たちのほかって、誰かいないの?」
 言いながら花穂が伸ばした手をすり抜け、ミカエルは石貼りの土間へ下りる。そしてそのまま、どさりと横になった。
「ミカエル、どうしたのかな?」
 花穂が心配そうな声と顔で衛を見つめる。
「やっぱり、暑いんじゃないの? だって、ボクたちみたいに着替えられないから」
「あ、そっか」
 相槌を打つように、ミカエルの尻尾が一度だけ揺れる。つられるように、花穂の身体がぐらっと揺れた。
「でも、石の上ってひんやりして気持ちよさそう。今日だって、プールサイドの陰になってるところとか――」
「後にしようよ。ミカエルの邪魔しちゃ悪いから」
 花穂が今にも寝そべりそうに背中を丸めたので、衛は慌てて腕を引いた。
「とりあえず、先にお昼食べよう」
「うん、そうだね」
 花穂はあっさりとうなずき、靴を脱ぎ散らかしたままで立ち上がった。
「ほら、早く行こっ」
「もう、調子いいんだから」
 衛は差し出された手を軽く取り、身体のばねを使って一息に跳ね起きる。
 花穂の先導で、裸足の二人はぺたぺたと歩き出した。
 そういえば、花穂といっしょの時はいつも手を引かれているような気がする。
 兄と二人の時はその逆だ。衛が手を引いて、兄を誘導している。衛に限らず、兄はいつも手を引かれる側だ。さらに言えば、手を引かれるのは年上と決まっている。
 普通は逆じゃないだろうか、と衛は時々思う。何かあった時すぐ守れるように――例えるなら、助け出した姫の手を騎士が取るように――前へ出るのが本当のような気がする。もっとも、この家ではそんなに危険なことは起こらないし、悪い魔法使いもいない。見た目では占いの得意な千影だが、どちらかといえば白雪のほうが魔法使いっぽい。何しろ、白雪の生み出す料理やお菓子の数々といったら。一日たりとも同じメニューを見たことがないのだ。
「うわぁ、あっつーい」
 リビングに入るなり、どっと汗が吹き出てくる。窓が開けっ放しにも関わらず、南向きということもあってほとんどサウナ状態だった。
「衛ちゃん、扇風機つける?」
「んー、やめとこう。こんなのじゃ、もっと暑くなるだけだよ」
 衛は花穂に首を振ってみせた。
 もちろんクーラーはあるが、リビングもダイニングもそれぞれ教室ほどの大きさがあるので、全員が揃いでもしないと電源が入らない。家計を預かる咲耶曰く「電気代がバカにならない」とか。
「やっぱり誰もいないね。みんなでいっしょにお出かけしちゃったのかなぁ」
「そんなことないよ。ボクが出るときは千影ちゃんと亞里亞ちゃんといっしょだったし。あ、鈴凛ちゃんは図書館に行くって言ってたかな」
「でも、あんなところによく自分から行くよね。ボク、ちょっと尊敬しちゃうよ」
 いくら快適に過ごせるといっても、動くことが何よりも好きな衛にとっては退屈極まりない場所だ。じっと座り続けることを考えると、今日のような天気でも歩き回っていた方がまだマシだ。
「うん、花穂もかな。図書館って静かだから、すぐに眠くなっちゃう」
「けど、寝てる人って意外と多いよね。前に行った時はどこかのおじさんが大いびきで寝てたし」
「あ、それ、覚えてるよ。確か、花穂といっしょの時だったよね」
 花穂がくすくす笑いながら何気ない動作で額の汗をぬぐう。帰ってきてから数分と経ってないのに、顔じゅうがもう汗だらけだった。
「亞里亞ちゃんも、千影ちゃんの膝まくらで居眠りしてそう。夏休みに入って急に暑くなったから、全然寝れてないみたい」
「ボクたちと違ってフランス生まれだもんね、亞里亞ちゃんって」
 最近の亞里亞は、可憐のお下がりを着ていることが多い。夏用の涼しげなピンク色のワンピースだが、フリルでかわいらしいデザインはいかにも可憐っぽい。亞里亞に言わせると「亞里亞の青か、姉やの黒がいい」らしいが、やはり背に腹は変えられないのだろう。フランスから送られて来たサマードレスはいかにも野暮ったくて、蒸し暑い日本の夏を過ごすには向いてなさそうだ。
「やっぱり、こっちと向こうってお天気が違うのかなぁ。四葉ちゃんも春歌ちゃんもずっと調子悪そうだから」
「四葉ちゃん、梅雨の頃は元気だったのにね。『ロンドンは霧の街デス』とか前に言ってたし」
「それよりも春歌ちゃんだよ。最近はお料理当番も白雪ちゃんに代わってもらってること多いしさ」
 春歌と白雪の二人といえば食卓を巡っての宿敵同士。最大のライバルにチャンスを譲るということは、日本の蒸し暑さがよっぽど辛いのだろう。他にもお稽古事を抱えているので当然といえなくもない。
 春歌の他にも調子を崩した姉妹は多い。鈴凛は「汗が鬱陶しくて全然作業にならない」と不機嫌で、可憐は「汗で鍵盤がべたべたして気持ち悪いです」とこちらも不機嫌そのものだ。
 相変わらず元気なのは衛や花穂、それに白雪ぐらいなものだ。むしろ、リタイアした春歌の分までフォローしようと燃えに燃えている。
 白雪の料理を思い浮かべた途端、衛の腹の虫が急に騒ぎ出す。どうやらそれは花穂も同じらしく、ステレオでお腹が鳴った。
「えへへへ、衛ちゃんのマネ」
「お腹ぺこぺこだね」
「うん」
 二人は顔を見合わせ、互いに苦笑いする。
「合宿所の食事ってご飯ばっかり山盛りで、おかずは全然さっぱりだったし。やっぱり、白雪ちゃんの方がずっといいよ。あ、もちろん春歌ちゃんのもだけど」
「白雪ちゃん、花穂たちに何を用意したのかなぁ。亞里亞ちゃんたちのお弁当はホットサンドだから、その残りだったりして」
「あれ、何で知ってるの?」
 衛は思わず首を傾げた。
「今日の朝練に持って行ったのって、確かおにぎりじゃなかったっけ」
 真夏のこの時期になると、暑さを避けるためにもチア部の朝練は時間帯が繰り上がる。六時半には集合し、準備運動を兼ねたラジオ体操をしてから練習を始めるとか。
 普通は練習を終えてから朝食にするものだが、それまで我慢できないのが花穂だ。前に一度空腹で倒れてから、白雪に頼んだお弁当をバスやトラムの中で食べているらしい。
「えっ? あ、その、えっとね、白雪ちゃんに聞いたの。昨日の夜にだけど」
 答える花穂は妙にそわそわしている。
「ふぅん、そうなんだ」
「あ、そうだ。お昼が何か、花穂が見てくるねっ」
 まるで逃げるように衛の手を振り切ると、花穂は一目散にキッチンへ駆け出した。
「あっ、ちょっと待ってよ」
 走ったら転んじゃうよと言おうとしたが、それよりも早く、
「ま、衛ちゃん!」
 ほとんど悲鳴に近い声がキッチンカウンターの向こうから聞こえてきた。衛の身体は、条件反射で跳ね動いていた。
「花穂ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「ううん、花穂は平気だけど、四葉ちゃんが」
「四葉ちゃん?」
 意外な名前を耳にしたのと、カウンターを回り込んだのがほぼ同時だった。涙目の花穂がうろたえる足元には、ビニールの床タイルにうつ伏せで横たわる四葉の姿があった。ユニオンジャック柄のTシャツにキュロットパンツ。ルーペは持っていない。四葉が本物の探偵なら誰かに襲われた可能性もあるが、今まで一度たりとも事件解決に至っていないのだ。どうせまた、いつもの自作自演だろう。
 心配そうに見つめてくる花穂にうなずき返すと、衛は四葉の枕元に膝をついた。
「四葉ちゃん、どうしたの? また、いつもの怪盗クローバーにやられたの?」
 だが、声を掛けても肩を揺さぶっても、四葉は目を閉じたままで返事がない。
 そういえば、顔がひどく赤い。不審に思って額へ手を当てた衛は、その熱さに慌てて手を引っ込めた。
「まさか、熱射病?」
 衛はぎょっとして、喉を鳴らした。
 熱中症の恐ろしさは衛も己の身をもって体験している。ほんの少しの無理が引き金となって起こる上、油断するとあっという間に症状が進行するのだ。かくいう衛も、いいところを見せようとした兄の前で倒れたことがある。お姫さま抱っこされた兄の腕が、見た目よりずっと逞しかったのを衛を覚えている。筋肉に篭った熱さや、汗の匂いも。
「――じゃなくて、えっと、こういうときは」
 頭を振って甘い思い出を退けると、衛は記憶の奥底から対処法を引っ張り出す。
 いつもなら姉たち――応急処置なら主に鞠絵――に頼っているところだが、花穂が相手ではそういうわけにもいかない。今は自分だけが頼りだ。
 合宿でもこういう場面に遭遇したので、すぐに思い出せた。
「花穂ちゃん、お水。コップにくんで。あと、濡れたタオルもお願い」
「う、うん」
 立ちっぱなしの花穂が弾かれたように駆け出す。その傍ら、衛は四葉の身体を仰向けにひっくり返して、キュロットパンツのベルトに手を掛けた。水分補給もさることながら、衣服を緩めて身体を冷やすことも重要だ。
「ま、衛ちゃん、何してるの?」
 影が差したと思ったたら、花穂が衛たちを見下ろしていた。コップが震えているのは気のせいだろうか。
「だから、熱射病の」
「それと四葉ちゃんのパンツがどういう関係なの?」
 下げたジッパーの間からは、水色のストライプ柄のショーツが覗いている。
「えっと、だから、体温を下げなきゃいけないから、こうやって」
「じゃあ、パンツも脱がせてあげるの?」
「別にそこまでしないって」
 言いながら衛が手を伸ばすと、花穂が渋々といった感じでプラスチックのコップを持たせてくれた。
「四葉ちゃん、大丈夫? 起きてる? ほら、お水。飲まなきゃダメだよ」
 しかし、軽く頬を叩いてもつねっても、四葉は目を覚まそうとしない。口元がうわ言らしいものでもぞもぞ動いているので、違う意味で心配になってくる。
「花穂ちゃん、濡れタオル。早く持って来て」
 もしかして、予想よりずっと酷いのかもしれない。そう思うと、迷ってはいられなかった。
 衛はコップの水を一口含み、四葉の顔にそっと近づけた。と、思ったら、
「衛ちゃんっ!」
 二人の間に花穂の手が割り込んだと思うと、力づくで無理やり引き離された。コップを落として慌てる衛を、ふくれっ面の花穂がじとっと見つめる。
「ねぇ、さっきから何してるの? 衛ちゃん、すごく変だよ」
 自分の行為を棚上げした言葉に、衛の言葉も自ずと鋭くなる。含んだ水を飲み込み、
「変って、それは花穂ちゃんの方でしょ。四葉ちゃんが熱射病で、このままだと死んじゃうかもしれないんだから。花穂ちゃんはそれでもいいの?」
「死ぬって、そんなの大げさだよ。だって四葉ちゃんだもん」
「花穂ちゃん!」
 積もりに積もった衛の感情が爆発した。
「ふざけてる場合じゃないんだよ。ボクだけならまだいいけど、今は四葉ちゃんの命が掛かってるの。ホントにわかってる?」
「うん、でも、四葉ちゃんだから、きっとふざけてるって思って……」
 衛に叱られたのがよっぽどショックだったのか、答える花穂の声はぶるぶると震えている。
「それぐらい、見てわかるでしょ。四葉ちゃん、全然目を覚まさないんだから。それより、早くお水持ってきて」
 厳しい声に押されるように、花穂はしょんぼりと踵を返した。
 四葉は相変わらず目覚めない。うわ言の代わりに、今は規則正しい寝息がすうすうと聞こえてくる。
「寝言、って……」
 一瞬浮かんだ疑いを裏付けるように、四葉が大きなあくびをする。
 もしかして、ボクはすごい早とちりをしたのかも。
 顔が赤いのもきっと色素が薄いからだ。ハーフということもあって、四葉は姉妹の中でも色白の方だ。千影や亞里亞のように露出を避けるでもなく、少し陽に当たると茹でダコのように赤く染まる。
「四葉ちゃん。ねぇ、四葉ちゃんてば。こんなところで寝てないでさ、早く目を覚ましてよ」
 腹いせ混じりに首元を掴んで揺さぶると、四葉の手がぴくっと反応した。衛の中で熱射病説はたちどころに消え、今は自分の勘違いをどうやってフォローするかが頭を支配していた。
「ん……あ、衛ちゃん……?」
 薄く開いた瞼から青い瞳がちらりと見える。
 と、次の瞬間、頭上から降り注いだ大量の水が衛と四葉の頭をずぶ濡れにした。
 衛はびっくりしてその場に固まり、仰向けの四葉は逃げるように飛び起き、鼻から入ったらしい水で盛大にむせた。
「ごっ、ごめんね? 花穂、ドジだから……」
 見ると、一抱えもあるボールを手に立ち尽くす花穂がいた。気まずそうに頬を掻き、その顔はあらぬ方を向いている。お世辞にも反省しているようにはちょっと見えない。
「い、いいけどさ。いつものことだから」
 口ではそう言いながらも、びしょびしょの前髪を掻き上げると嫌でも腹が立ってくる。頭だけを濡らしていた水は、染み渡るうちに下半身まで回り込んでいた。身じろぎするだけでぐちゅぐちゅと気持ち悪い。
「でも、何だってそんな変なもので持ってくるの? 一気飲みじゃないんだから」
「だって、衛ちゃんがお水って言うから。それに、急いでたし、コップが見つからなかったし」
 そっぽを向いたままの花穂は、衛の様子を観察するようにちらちらと目を動かす。そんな花穂の態度に、衛はまた少しへそを曲げた。一体、誰のおかげで
「でも、他にあったんじゃないの? お茶碗とかさ。飲ませるってわかってるはずなのに」
「けど、身体を冷やすって衛ちゃん言ってたもん。ほら、ちゃんと冷えてから、四葉ちゃんは平気だったでしょ?」
「冷えたっていうか、目を覚ましたっていうか」
「ほらぁ。だから、花穂は間違ってないの」
「それはそうだけど、でも、ボクに水を掛けたのはどうなるの」
 口論を続ける二人をよそに、四葉は自らの身体を呆然と見回していた。
 そして、お腹をさすった手をわななかせながら見て、こう叫んだ。
「なっ、なんじゃこりゃあぁっ!」
「う、うわぁっ!」
 突然の大声に驚き、衛と花穂は飛び退った。ついでに四葉も飛び下がり、そこには水たまりだけが残った。
「どっ、どうして四葉がびしょ濡れになってマスか? 四葉はこんなに汗かかないのに、これはちょっとしたミステリー……って、ああっ! 何でショーツが丸見え?」
 衛と花穂を交互に睨みつけながら、四葉はキュロットパンツをたくし上げる。
「二人して、四葉のことをテゴメにする気だったデスね? この名探偵四葉ちゃんにはチェキっとお見通しデス! そうやってヒレツにもバージンを奪われた四葉は兄チャマから見捨てられて、あとは鈴凛ちゃんしかいなくなるの。それなのに今朝の鈴凛ちゃん、四葉のこと置いて図書館に行っちゃって……四葉、これからどうすればいいデスか……?」
 一人で勝手に盛り上がった四葉はたちまち一人で盛り下がり、濡れた髪もそのままにめそめそと鼻をすする。
「四葉ちゃん、それ誤解だよ。真っ赤な顔で倒れてるから、ボク熱射病だって勘違いしちゃって。ね、そうだよね、花穂ちゃん?」
「だから、花穂は違うって言ったのに」
 花穂は頬を膨らませ、やはり衛の方を見ようとしない。
 心当たりのない衛は戸惑うばかり。
「花穂ちゃん、どうしてそんなこと言うの。ボク、何か悪いことした?」
「別に、何でもないよ」
「何でもなくないよ。だって、さっきからボクの邪魔ばかりしてたじゃない」
「邪魔してたのは四葉ちゃんだもん!」
「もうっ、それは四葉の台詞なのに!」
 四葉が苛立ちまかせに床を叩くと、積んであったボールが盛大になだれを起こして三人に襲い掛かった。
 甲高い悲鳴と金属音がキッチンじゅうに木霊する。


 板張りの廊下はそれなりに風通しがいい。
 時折そよぐ風が額へにじむ汗を運び去ってゆく。
「なぁんだ、そういうことだったのデスね」
 対面に女の子座りした四葉が、手にした小鉢のそうめんをフォークでくるくると巻き取る。
 今日のお昼はそうめんだった。
 衛にしてみれば期待外れもいいところだが、大皿にてんこ盛りの薬味を用意しておいたあたり、白雪的にはちゃんと準備したつもりらしい。そうめんと同じぐらいの量はあるだろうか。
 三人は今、廊下でお昼を食べている。ちゃぶ台も持って来ず、そうめんを盛った大鉢からデザートのスイカまで全部床に直置き。あまり褒められたものではないが、ダイニングはサウナ状態で食事どころではない。春歌が見れば目を吊り上げて怒りそうな光景だ。咲耶なら笑って許してくれるかもしれないが。
「四葉が熱射病に見えたって、すぐ教えてくれればよかったのに」
「ボク、ちゃんと言ったつもりなんだけどな。それに、あんなところで寝てるなんて普通は思わないよ」
 衛がちらっと見た隣には、そうめんと錦糸卵を交互にパクつく花穂がいた。
 花穂はまだ、あまり機嫌がよくないらしい。自分の隣に座っているということは、本格的に嫌われたわけではなさそうだ。だが、その割には衛の問い掛けに対して生返事しか返さない。
「さぁさぁ、じゃんじゃん食べ……ややっ、衛ちゃんはあまり食べてないデスね。そんな食欲不振さんにはこれをチェキするデス」
 四葉のフォークが動いたと思うと、衛の小鉢につるっとしたピンク色の直方体が投げ込まれる。パッと見、ハムか何かのようだ。
「何これ」
「四葉のフェイバリッド・フード。すっごくおいしいデスよ」
「そうなの?」
 ユニオンジャックのTシャツといい、四葉の趣味はあまりよくないのだが、両肘をついた格好で期待の眼差しを向けられては逃げようもない。衛は観念して、めんつゆに浮かんだそれを口の中に放り込んだ。
「ど、どうデスか?」
 四葉の目がきらりと輝く。
「んー」
 ハムを期待して噛むと、あまりの歯ごたえの無さに拍子抜けしてしまう。でろでろとした食触のおかげで、せっかくの肉っぽい味がすごく不自然に感じられてしまう。それに何と言っても――
「すごくしょっぱいよ、これ。お肉みたいだけど、柔らかすぎて噛んでても気持ち悪いし。それに全然おいしくない。こんなおいしくないお肉、ボク初めてだよ」
「……うーん、これはおかしいデスね。スパムは四葉の大好物なのに、みんな口を揃えておいしくないって言いマス」
 ぶつぶつと呟きながら、四葉がスパム片を突き刺して口に運ぶ。見ている衛の口にも独特のまずさが蘇り、麦茶を一気飲みして洗い流す。
「うん、やっぱりいつものスパム。この感触、この舌触りこそがキング・オブ・ランチョンミートなのデス。このおいしさがわからないなんて、みんな本当に不幸デスね」
「じゃあ、ボクは不幸せでいいよ。何ていうか、ただしょっぱいだけだもん」
「そうデスか? 四葉はこのしょっぱさが大好きなのに」
「ハムやベーコンならボクも好きだけどね。うまく言えないけど、とにかく、その、スパムだっけ? 全然おいしくないから。もっとハッキリ言えばマズい」
「で、でも、味のしないそうめんにはマッチしてグッド!」
「しつこいよ、四葉ちゃん」
 衛は話をさえぎるように音を立ててそうめんをすすった。途端に四葉が嫌そうな顔をする。
「それに、そうめんにはハムと卵とキュウリだよ。あと、刻んだシソとショウガもあればバッチリ」
「じゃあ、ハムの代わりにスパムとか」
 四葉のフォークが再び忍び寄ってくるが、衛が一睨みするとたちまち尻尾を巻いて逃げ出してしまう。
 年上に対しては基本的に従順な衛も、こと四葉が相手となると話は別だ。年上という感じがしないので、つい気楽に相手をしてしまう。身長で四葉を追い越していることも原因の一つかもしれない。
「もう、何でそんなにこだわるのかな。スパムは四葉ちゃんだけでやってよ。別に邪魔しないからさ」
「そうは言っても……うーん、おかしいデスね。このスパムは白雪ちゃんが欲しがったから、特別に分けてあげたのに」
「白雪ちゃんが? でも、何でこんなのを」
「それがミステリーなのデス。白雪ちゃんもスパムが好きじゃないって言ってたのに、今朝いきなり『塩辛いのが必要ですの』とか言って――」
 その途端、花穂の方向から、ぶほっ、と異様な音がした。見ると、両手で口をふさいだ花穂が激しく咳き込んでいる。
「花穂ちゃん、大丈夫?」
 背中をさすってあげると、花穂はこくこくと何度も頷く。しばらくなで続けるうちに、ようやく花穂の呼吸が落ち着いてきた。
「ありがと、衛ちゃん」
 伏せ気味の涙目でそう言われると、さっきからのわだかまりもすぐに解けてしまう。
「もう何ともない? でも、びっくりしたよ。いきなりむせるんだもん」
「ごめんね。二人のお話聞いてたら、何だか急に」
「そうなんだ。じゃあ、きっとスパムのせい」
「もう、何でそうなるデスか?」
 身を乗り出した四葉がぶんぶんとフォークを振って抗議した。
「イイカゲンなこと言わないでクダサイ。スパムはただちょっとクセのある子なだけで、あとは全然普通なの。花穂ちゃんもそう思うでしょ?」
 矛先を突然向けられ、花穂の顔に動揺が走る。
「えっ、か、花穂?」
 もじもじと口ごもりながら、ちらちらと衛を見つめてくる。
「ボクの顔に何かついてる?」
「う、ううん、そんなことないよ」
「じゃあ、どうしたの?」
 しかし、花穂は頬を赤く染めるだけで、あとは首を振るばかり。
 衛は心の中でため息をついた。プールから帰って来てからというもの、どうにも花穂の行動が読めない。
 仕方がないので、四葉を見習って八つ当たりすることにした。
「とにかく、そのスパムとかいうやつのせいだからね。それが嫌なら四葉ちゃんのせい」
「ええっ、何でそうなるデスか?」
 眉間に皺を寄せた四葉が、ちゅるんっ、とそうめんをすする。
「衛ちゃんと花穂ちゃんはいつもそうやってくっついてて、四葉はつまらないデス」
「それは四葉ちゃんもでしょ。鈴凛ちゃんにいつもべったりでさ」
「でも、四葉にはちゃんとした理由がありマス」
「ふぅん。で、どんなの?」
「それはもちろん、マ――」
 四葉の口が開き掛けて止まったと思うと、キッと衛を睨みつける。
「衛ちゃん、どうしてそんなこと訊くデスか? さては怪盗クローバーの回し者デスね!」
「またそれ? ボク、もう飽きちゃったよ」
 と、四葉の突きつけたフォークを箸で捌く衛。もちろん、それぐらいで諦める四葉ではない。
「飽きるとか飽きないとかそういう話じゃなくて、これは四葉にとってのシジョウメイダイなの」
「そうは思えないんだけどなぁ」
「じゃあ、そういう衛ちゃんは? どうしていつも花穂ちゃんとべったりぴったりしっぽりとくっついてるデスか?」
「そ、それは……」
 衛は思わず言葉を詰まらせた。
 そういえば、どうしてこんなにくっついているのだろう。幼い頃からの付き合いということもあるが、それだけの理由でいつも一緒にいたがるほど子供ではないはず。
 しかし、現実は違う。花穂がいなければ寂しいし、冷たくされれば悲しい。互いに陸上とチアを始めて共に過ごす時間は減ったが、できる限りその埋め合わせはしている。最早、いっしょにいるのが当たり前なのだ。
 兄妹みんなで暮らすという話が持ち上がった時も、最も乗り気だったのは衛と花穂だった。姉たちが現実的な問題――子供だけで暮らすことや両親のこと――の話に終始している中、いっしょに暮らせるという未来予想図だけが目の前に広がっていた。
 二人はずっといっしょにいられると、何の疑いもなく信じていた。
 それが揺らぎ始めたのはいつのことだったろうか。
 幼なじみなのに姉妹という、その不自然さに気づいた時か。姉妹なのにママが違うという、その奇妙さに気づいた時か。
 ふと隣を見ると、妹の花穂は黙々と箸を動かしている。彼女は気づいているのだろうか。自分たちの関係が、ひどくあやふやなことに。
「あ、ミカエル」
 四葉の声に顔を上げると、俯き加減のミカエルが玄関の方から歩いて来るところだった。
 ミカエルは四葉を見るなりギクッと足を止めるが、『仕方がない』とでも言うように、頭を振り振りゆっくりと近づいて来た。
「もう、どこ行ってたデスか? 勝手にいなくなったら鞠絵ちゃんに怒られてしまいマスよ」
「ミカエルなら、さっきからずっと玄関にいたと思うけど」
 ちらっと花穂に目をやると、口をもごもごさせながら頷くのが見えた。
「むぅ、それは盲点デシタ。まさか、そんなところにいたなんて」
 腕組みしてうなり声を上げる四葉の脇をすり抜け、キッチンに潜り込むミカエル。しばらくして、ぴちゃぴちゃと水を舐め取る音が聞こえてきた。
「でも、何でミカエルの場所が気になるの? ミカエルだって子供じゃないんだし、放っておいてもちゃんと帰ってくると思うけど」
「甘い、甘いデスよ衛ちゃん。亞里亞ちゃんのミルクティーよりも甘いデス」
 再び突きつけられたフォークを、今度は手首を掴んでねじ伏せた。
「じゃあ、何?」
「クフフゥ、よくぞ聞いてくれました。ここだけの話、ミカエルの居場所には重大な秘密が隠されているのデス」
「へぇー、どんなの?」
 自然と身を乗り出す衛に合わせ、四葉も座ったままでにじり寄る。
「実はデスね、暑いって思ったミカエルは、必ず涼しいところにいるのデス」
 いまいち飲み込めない衛は、思いっきり怪訝そうな顔をする。
「でも、四葉ちゃん。それって当たり前の話じゃない?」
「もう、何言ってるデスか。それはつまり、ミカエルの後を尾行すれば涼しいところに行けるということデスよ? おかげで、午前中のキッチンの床がとても涼しいことがわかりマシタ。さすが、鞠絵ちゃんのお話は役に立ちマスね」
「それ、全然ここだけの話じゃない気がするけどなぁ」
 衛は半分呆れ顔で首を振った。
「そんなこと気にしてたら、生きウサギの目を抜くようなセケンを――あ、ミカエル! どこ行くデスか?」
 四葉の視線の先には、尻尾を元気なく垂れ下げた後姿が見えた。
 立ち上がる四葉の音に反応して、四本足が次第に早まる。
「あぁん、四葉を置いていかないでクダサイ! ミカエルがいないと暑くて死んじゃうデスよ」
 四葉が追い始めるのと、ミカエルが逃げ出すのとがほとんど同時だった。
 騒音が廊下の向こうへ消えた後には、衛と花穂だけが残された。
「あれじゃ、ミカエルの方が熱射病になっちゃうよ。ね、そう思わない?」
 しかし、花穂は返事をしない。しない代わりに、今度はスイカへかぶりつく。
 何が気に食わないのかはわからないが、とにかくヘソを曲げたままのようだ。
「やんなっちゃうなぁ、もう」
 誰に言うとでもなく愚痴をこぼすと、花穂の肩がぴくんと動いた。
 さりげなく様子をうかがうと、花穂の方もこっちの様子を探っているらしい。その証拠に皮だけのスイカをいつまでもかじり続けている。もしかすると、どう切り出せばいいのか迷っているのかもしれない。
 だが、それは衛も似たようなものだった。鈴凛と四葉のように徹底的に罵り合うでもなく、千影と亞里亞のように静かに囁き合うでもない。中途半端に、なあなあで済ませてきたのが衛と花穂だった。
 気まずい沈黙が続く。
 いよいよ居心地の悪くなってきた衛は、時間稼ぎも兼ねてスイカに手を伸ばす。
「あっ」
 互いの手が触れ、どちらからともなく声が出た。思わず顔を見合わせるが、何となく視線を外してしまう。
「別にいいよ。花穂ちゃんにあげるから」
「ううん、花穂のほうこそいいの。衛ちゃんが食べて」
「でも、花穂ちゃんの方が早かったと思うし。やっぱり花穂ちゃんだよ」
「そんなことないの。さっきから花穂が食べてばっかりだし、それに……」
 花穂が急に口を閉ざしたので、覗き込むように顔を寄せた。
「それに?」
 だが、花穂は無言のままでかぶりを振る。なかなかはっきりしない態度に、衛の首もひとりでに動いていた。
「ねぇ、一体どうしたの? さっきからの花穂ちゃん、やっぱり変だよ」
 しばらくして、花穂の頭がこくんと縦に振れた。わかってたならどうして? と言いそうになるのを飲み込み、衛は静かに問い質す。
「じゃあ、ボクが何かしたとか、そういうこと?」
「だって衛ちゃん、四葉ちゃんにばっかり構ってたもん」
 ふて腐れ気味に花穂がぽつんと言った。
「花穂、衛ちゃんが合宿から帰ってくるの、すっごく楽しみにしてたんだよ? だから、今日は衛ちゃんとずっといっしょにいようって思って、それで、お昼には誰もいなくなって衛ちゃんと二人きりになれるはずだったのに」
「何それ? 二人きりになれるはずって」
「四葉ちゃんが残ってるなんて、花穂聞いてないもん。四葉ちゃんは鈴凛ちゃんが連れていかなきゃダメなのに。それに、仮病で花穂の邪魔して」
「で、でも、それは仕方ないでしょ。あんな風に倒れてたら助けなきゃって、普通は思うよ」
「本当は寝てただけだったのに」
「見てすぐにわかったらお医者さんなんていらないよ」
「じゃあ、花穂があんな風に倒れてたら同じことした?」
「そんなの当たり前だって」
 衛がそう言い切ると、会話が途切れて一瞬静かになった。
「衛ちゃんは、四葉ちゃんのことどう思ってるの?」
「へっ?」
 花穂の目がじっと衛を見上げている。
「ど、どうって、どういうこと?」
「だから、四葉ちゃんのこと、す……きとか、嫌いとか」
「んー、一応はお姉ちゃんだから、そりゃ好きに決まってるよ。まあ、あんまりお姉ちゃんっぽくないんだけどね」
「キスしようとしても……平気なぐらい?」
 その一言で衛は思わず飛び退った。いつぞやの夜更けを思い出し、握りこぶしの内側に汗がにじみ出る。
 あの時はウィスキーボンボンで酔っ払っていたが、今はもちろんそんなことはない。要するにまったく普通の状態だ。
「キスって、なんでそんなこと」
「今は花穂のほうが聞いてるの。ねぇ、衛ちゃんは四葉ちゃんにキスしても平気なの?」
「だから、何でそんなことボクに――」
「答えて!」
 花穂の声が廊下じゅうに響いた。
 不意に風がそよぎ、どこか遠くで風鈴が鳴った。
「だって、四葉ちゃんには鈴凛ちゃんがいて、亞里亞ちゃんには千影ちゃんがいて、花穂には衛ちゃんなんだよ。それなのに衛ちゃん、しばらくいなかったから、花穂、すっごく寂しくて」
「ちょっと大げさだよ、花穂ちゃん。小さい頃は離れ離れが当たり前だったのに、あれから大きくなってそんなのって」
「でも、今はいっしょが当たり前だもん」
 花穂の手が伸び、衛の腕をしっかと掴んだ。花穂の手はバトンだこで凸凹していて、衛の腕は引き締まって硬い。昔はそのどちらもやわらかかったのに。
 今こそひとつ屋根の下で暮らしているが、互いに部活動が忙しくなって共に過ごす時間は次第に減っている。進級して進学する度に、二人を隔てる壁はどんどん高くなっていくのだろう。
 花穂といるのは楽しい。気心は知れているし、変に気を遣う必要もない。姉たちを前にした時のように、女らしさにコンプレックスを抱くこともない。
 でも、ずっとこのままではいられない。今はまだ簡単に飛び越せる壁も、やがては二人の前に大きく立ちはだかるのだろう。
 衛は「そうだね」とだけ答えた。
「だから……だから、衛ちゃん……」
 衛を見据える瞳が急にうるみだす。小さく開いた口から覗く舌先を見て、ひとりでに衛の喉が鳴った。花穂の顔は汗まみれで、目尻から伝わり下りる水滴は汗か涙かわからない。
 と、その顔が急に歪んだ。
「花穂、お腹痛い……」
「え、ええっ?」
 狼狽している間にも、花穂は身体を折り曲げながらうめき声をあげる。
「どうしたの? どこが痛いの?」
「何か、ぐるぐるっていってるの」
「それ、多分食べ過ぎだよ」
 衛は内心でほっとため息をついた。キスを迫られることに比べれば、こっちの方がずっと対処が楽だ。
「お薬飲めばすぐに治ると思うから」
 そう言い置いて立ち上がろうとするが、がっちり掴んだ花穂の手はそれを許さない。
「ダメ、行かないで」
「でも、お薬取ってこなきゃお腹痛いままだよ」
「うん。だから、衛ちゃんが治して」
「はぁっ?」
 素っ頓狂に問い返すのは今日これで何度目だろうか。
「治すって、そんな……ボク、看護婦さんじゃないし、鞠絵ちゃんでもないし」
「あのね、ママから聞いたことがあるの。お腹を壊したときは、お腹をあたためるのよって」
 額に脂汗を浮かべながら、花穂が言葉を搾り出す。
「う、うん、わかった。お腹をあっためればいいんだね」
 また再び立ち上がろうとする衛だが、
「だから、衛ちゃんがあったかくするの」
 とすがりつく花穂に、音を立てて尻もちをつく。さっきまで座っていた場所は、スパッツの蒸れでくっきりと変色していた。
「ボクがあっためるって、そんなのどうやって」
「手で、なでるとか」
「こう?」
 衛は花穂の脇に手を入れて上半身を抱き起こし、もう片方の手をブラウスの上からそっと押し当てた。花穂の言葉通り、ぐるぐる、ごろごろと鳴っている。
「あったかくなった?」
「……あんまり」
 花穂がふるふるとかぶりを振った。
「どうしよう。手だけ熱くできるわけなんてないし」
「……スパッツ」
「へっ?」
 蚊の鳴くような声に、思わず聞き返した。
「だから、スパッツ」
「スパッツって、ボクの穿いてるスパッツ?」
「すごく、熱いから……」
 言われて、花穂の指先がスパッツに触れていることに気づいた。
「それで、花穂……熱くして」
「ぬ、脱げっていうの?」
 花穂は返事の代わりにため息を吐き出し、苦悶に歪んだ顔をがくがくと縦に振る。言葉を出すのも辛いといった感じだ。
「わかった。ちょ、ちょっと待っててね」
 花穂を床に横たえさせると、腰に手を当ててスパッツを一気に引き下ろす。恥ずかしいとか変な要求だとか、この際そういった感情は後回しだ。
 すぐにシンプルなボクサーショーツが露わになった。明るかったはずのグレーは、汗に濡れて黒っぽく変色している。
 裾を巻かれてしわくちゃになったスパッツもほとんど汗まみれだ。これをお腹に当てるのかと思うと、例え自分のものであってもやはり気が引けてしまう。
「ねぇ、ホントにこんなので――」
 言い終えるよりも早く花穂の手が伸び、あっという間にスパッツを奪い去った。たくしあげたブラウスの中に仕込むと、見る間に花穂の顔が緩む。
「衛ちゃん、あったかい……」
 呟く表情はまるでランナーズハイのよう。辛さと気持ちよさが混ざった感覚は、衛にもおなじみのものだ。苦しいことに変わりないが、とりあえずは山を越したということだろうか。
「よかった。もう大丈夫だね」
「ううん、もっと……」
 衛は怪訝そうに首を傾げる。
「もっとって、今度は何?」
 花穂がふらっと身を起こし、膝で立った。ぐらついている上体も危なっかしいが、それよりも花穂の浮かべている表情が少し怖い。笑って見えるのは気のせいだろうか。嫌な予感がする。
「えっと、あの、ボク、替えのスパッツ――」
「もっと、衛ちゃん……っ!」
 叫ぶように言って、花穂は衛目掛けて倒れ込んだ。
 嫌な予感が的中しても、リアクションを起こせなければ意味がない。かろうじて受け止めたものの、二人はそのままもつれ合うようにして床へ転がった。
 鈍い音がして、衛の目の前に一瞬火花が散る。
 しかし衛には、苦痛のうめき声を上げるだけの余裕すらもなかった。花穂の片膝が太ももを割り開いたと思うと、何の迷いもなく足に足を絡めつかせた。
「ちょっ、ちょっと花穂ちゃん? お腹痛いのはどうしたの?」
「だから、衛ちゃんにぎゅーってしてもらうの」
 今度は二本の腕が衛をやさしく、そして確実に締め上げる。脇の下へ押し当てられたやわらかな感触を意識し、衛の顔は花穂に負けないぐらいに赤面した。
「いや、だからって、こんな恥ずかしい格好で」
「だって花穂、寂しかったんだもん。二学期になってすぐ大会があるからって先輩すっごく厳しくって、それでいつも叱られてて……」
「じゃ、じゃあ、いつもみたいに頭なでてあげ……って、あれ?」
 ハッと気がつくと、肩と肘も極められた衛は全く身動きが取れなくなっていた。
「ねぇ、ちょっと花穂ちゃん。いくら何でもこれ、抱きつき過ぎっていうか」
 しかし、花穂は返事をしなかった。
 正確には『返事ができなくなっていた』。
「ね、寝てる……」


 *


「へくちゅっ!」
 突然のくしゃみごときでデジカムを落とさない。それが名探偵クオリティ。
 足元は水を張ったビニールプール。万が一にも落とそうものなら鈴凛の大目玉が待っている。
「うぅっ、これは誰かが四葉のウワサをしている何よりの証拠デスね。四葉と鈴凛ちゃんの間を裂く何者かの仕業……おおっと、そんなことよりこっちをチェキ」
 四葉はファインダーを覗いたまま、窓から顔を突っ込もうとした。が、窓の高さに比べて身長が足りないので、ビニールプールの縁を足場にして外壁へ足を掛ける。壁貼りの石が切り替わっているわずかな段差につま先を置くと、ようやく姿勢が安定した。
「クフフゥ、衛ちゃんと花穂ちゃんを二人きりにすると、必ず面白いことが起きマスからね。鈴凛ちゃんに置いていかれた分、ここでしっかりチェキしないとつまらないデスから」
 過度の独り言は探偵クオリティに反しないらしい。四葉の言い分としては「言葉に出すことによってアイディアをまとめたり、新たなインスピレーションを得られる」のだが、それはほとんど尾行を捨てたに等しい。もっとも、四葉の尾行は見つけてくれと言わんばかりのドタバタ珍道中がほとんどだ。
 ぶつぶつと呟きながらフォーカスすると、折り重なるように横たわった花穂と衛の姿が大写しになる。二人とも死んだように動かない。
「うぅむ、これはダニー・リンチもサプライズなグゥレイトサブミッション。花穂ちゃんは、チアよりもレスリングをやったほうがいいのかもしれマセン」
 不意に衛の手がピクリと動く。自由を求めるかのように弱々しく前へ伸びるが、花穂が少し身体を揺らすと、一度大きく痙攣してパタッと落ちた。
「でも、あの技って鈴凛ちゃんに効くのかなぁ。効くんだったら、これはゼッタイ花穂ちゃんに弟子入りしなきゃいけないデスね。そしてベッドの上で……」
 一人ほくそ笑む四葉の背後でミカエルが大あくびをした。
 ビニールプールの縁に顎を乗せてぷかぷかと浮かぶ彼は、我関せずとばかりに涼んでいる。
 水辺での狩猟犬たるゴールデンレトリバーにとってこのひとときはたまらない。鬱陶しい夏の暑さも、水遊びがあればこそ耐えられる。
 それ以上に鬱陶しいのは四葉だが、バカと何とかは使いようというやつで、ビニールプールにちょんと手を掛ければすぐに準備してくれる。身体の弱いご主人には恐れ多くて、とてもそんな真似はできない。この際、面倒な追いかけっこぐらいは我慢せねば。
「あ、花穂ちゃんの手が衛ちゃんのパ……も、もうちょっと近寄って、って、わ、わわっ!」
 窓枠を乗り越えて墜落した四葉を尻目に、ミカエルはまた大きくあくびした。






 Fin.