てれてれ
↑ 読み物TOP
← サイトTOP
シーンが切り替わって画面が暗転すると、29インチのフラットテレビには並んで腰を下ろす二人のパジャマ姿が照り返った。
衛は体育座りで、花穂は女の子座り。花穂は食い入るように画面を見つめ、傍らのお菓子ポットへ手を突っ込んでごそごそしている。
――これ、いつになったら終わるんだろう?
衛は抱えたクッションの中へ赤く火照った顔を半分埋めた。
その隙間からテレビを恐る恐る覗き見ると、ベッドに横たわったブロンドの美女に若い男性が覆い被さっていた。もろ脱ぎの上半身は細身ながらも筋骨逞しい。これで髪の毛が銀色でなければ兄によく似ている。もっとも、ここまで立派に腹筋は割れていないし、彫りもこんなに深くない。
男は何事かをぼそぼそと囁きながら女の唇を奪う。画面脇のスピーカーからぴちゃぴちゃという水音が響いた。それがひとしきり終わると二人は顔を離し、とろんとした目で女が何かを呟く。字幕はクッションに隠れて見えなかった。
男が短く返事をすると再びキスが始まった。唇を蠢かしながら擦りつけ、互いに互いを吸い込もうとしているかのよう。
衛は視線のやり場をなくし、傍らに置いたビデオのケースをちらりと横目に見た。
ジャケットには半人半狼となった例の男が満月を背後にポーズをつけ、こちらを睨み返している。衛は画面に目を戻しながらため息をついた。
クッションで逃げ場を失った息が、口の周りでじんわりと熱く湿る。
そもそもの発端はクラスメイトから押し付けられたビデオだった。
転入してまだ日の浅い衛だったが、ボーイッシュで活発な性格に加えて中性的な外見とくれば、クラスの一部女子たちが放っておくはずもない。異性相手の恋愛に乗り出せない少女たちにとって、衛は格好のスパーリング相手だった。
その日の放課後も、引き止められるままに彼女らと話し込んでいた衛だったが、
「ねえ、衛くんって――って映画、知ってる?」
彼女らの中でも代表格の真理子が、悪戯めいた表情でそう切り出した。その背後では何人かがしきりに顔を見合わせている。
衛は何となくバツの悪い感じになり、戸惑いながら答えた。
「ええと、ボク、映画とかあんまり見ないから」
「ふぅん、そうなんだ。じゃあ、ちょうどよかったかも」
と真理子は、手提げ鞄の中からビデオケースを取り出した。
「これ、衛くんに貸してあげるね」
「えっ? でも――」
「この映画って主人公が狼男に変身して戦うんだけど、そのときのアクションがすごくカッコいいの。衛くんって、そういうのアクションものって好きでしょ? それにほら」
真理子はケースを裏返して主人公を指差す。
「この人の顔って、衛くんのお兄ちゃんにそっくりじゃない? 髪を黒くしたら、だけど」
「んー、そう言われれば、そうかもしれない……けど……」
腕組みをして考え込む衛に「じゃあね」と真理子が声を掛ける。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
衛は慌てて、遠ざかる彼女らを呼び止めた。
「見終わったら感想聞かせてね。それ、すっごくおもしろいんだから」
「そうそう、後できっと役に立つと思うよ」
「あ、バラしてどうするのよ。見なくなっちゃうじゃない」
「そんなの平気よ。だって衛くんって……ねぇ?」
そこで彼女らは声を潜め、再び意味ありげに視線を交わす。
「んー、それもそうよね。そこでわかっちゃったら衛くんじゃないもの。でしょ?」
真理子がそう言い切ると、追従交じりの笑いがくすくすと沸いた。
「それ、どういう意味さ?」
さしもの衛もこれには声を荒げた。
「ごめんごめん。悪気はないの、許してね。ま・も・る・くん?」
真理子が投げキッスを飛ばすと、それでまた賑やかな声が起こった。
果たして彼女の言葉に嘘はなかった。
人狼に変身しての派手なアクションには興奮させられたし、何よりジャケットで見る以上に兄と顔が似ていた。特に、顔を俯かせてうっすらと微笑む場面では、あまりに似ていたので思わず声を上げたぐらいだ。そんな銀髪の兄が所狭しと駆け回り、群がる怪物どもをばったばったとなぎ倒すのだ。これで面白くないわけがない。
しかし、こんなシーンがあるなんて全く聞いていない。
白熱電球がオレンジ色に点る中、白いシーツの下で二人の裸体が絡み合い、ほどけたかと思うと、また繋がって……。女性の胸に乗った二つの白い半球がふるふると震え、その映像に喘ぎ声が重なる。衛は咄嗟にクッションへ顔を隠した。切なげな表情が焼きつき、暗闇の中にくっきりと浮かび上がっている。
初心(うぶ)で奥手な衛とはいえ、この行為の示すところはおぼろげにわかっていた。――子供じゃない、大人の男と女が、好き同士でする、とても、いやらしいこと。
見てはいけないと思いつつも、しかし、心の中では興味深々で、衛はそろそろと顔を持ち上げた。二人の行為はまだ続いている。
何しろ、映画の彼は兄によく似ている。
自分が大人になって、そのときに好き同士だったら――あんなことをしてくれるのだろうか。それとも、他のだれかにあんなことをするのだろうか。もしかしたら、もう他の誰かにしているのかも――
衛はクッションに顔を埋めたまま頭を振り、とりとめのない妄想を追い払った。そして、真理子らがなぜ自分にこれを見せたがったのかをようやく理解した。
今思えば、あのとき姉たちが見せた異様な反応で悟るべきだったのだ。
この家のテレビはリビングに据え付けた一台きりで、独占して使う場合には皆に断る必要があった。大抵の場合は咲耶に話をつければ皆に行き届く。
夕食後のまったりとした時間を狙って話を持ち出し、すんなりと約束を取り付けたのだが、
「ちょっ……今、何て言ったの?」
衛がタイトルを告げると、ひどくうろたえた様子で咲耶が問い返した。
「だから、これなんだけど」
と、衛はビデオのケースを見せた。咲耶はまじまじとそれを見つめていたが、やがてひどく難しげな表情で何度も頷いた。
「そっか、自分で見つけちゃったのか。衛ちゃんもそういう時期なのね」
「咲耶ちゃん、それってどういう意味? ボク、クラスの真理子ちゃんから借りただけなんだけど」
「真理子ちゃん? そう、真理子ちゃんって言うの。きっと、私とは話が合いそうね」
言葉の上ではあくまでおだやかな咲耶だが、しなやかな指をぽきぽき鳴らしながらとなると話はまた違ってくる。素直に表現すると『怖い』の一言に尽きる。
「何が何だかぜんぜんわからないよ、ボク……」
衛はそう呟きながら、あのとき見せた投げキッスは誰かに似ているなとふと思った。
「――咲耶くんのその顔。さしずめ、嫁をいびり倒す小姑といったところだな。それもかなり手慣れた」
抑揚のない声でうっそりと歩み寄る千影。露骨に嫌な顔をする咲耶に一瞥をくれると、
「何の話かは知らないが、衛くん。嫌なことは嫌だとハッキリ言ったほうが――」
涼やかな表情が一変した。
「まさか、どうして衛くんがそれを」
わななく視線の先にはやはりビデオのジャケット。
二人の顔色を覗う衛を尻目に、姉たちは顔を見合わせ、しばらく無言で会話した。
「姉や、どうしたの?」
千影の顔色がさっと変わる。
「き、来てはいけない!」
振り向きざまの千影らしくない大声が亞里亞の歩みを止めた。亞里亞は怒鳴られた驚きのあまり、くすん、と一度しゃくりあげる。
「姉やぁ……」
くすん、くすん、くすん。リビング中に、何とも言えない気まずい空気が広がった。
「あ、その……そうだ! お、お風呂に入ろう。そうしよう、うん。それがいい。姉やといっしょにお風呂に入るんだ」
千影は猫なで声を出しながら亞里亞に近づき、やんわりと抱き寄せた。
「千影、ヒナちゃんもお願い」
「わかった、任せてくれ」
名前を呼ばれてきょとんとする雛子を抱えるように立たせ、千影は半ば強引に連れ去る格好でリビングを出た。可憐がその後を追って出たが、すぐに戻ってくると姉妹の間に耳打ちして回る。すると、たちまち額を寄せ合っての相談が始まった。
すっかり蚊帳の外に置かれた兄は自分がお呼びでないと気づいたらしく、新聞を片手にそそくさと部屋を出ていった。
「咲耶ちゃん、これって何の冗談?」
呆気に取られながら呟く衛だが、咲耶は腕組みをしたまま黙り込み、返事をしない。
花穂が何度も振り返りながら歩いてきたのはそのときだった。
「咲耶ちゃん、これって何の相談? みんな、花穂にぜんぜんわからないお話してるの」
咲耶がハッと頭を上げ、花穂の顔をじっと見つめた。何かを話そうとしているようだが、口をもごもごさせるばかり。いつになく優柔不断な姉の姿に首を傾げる花穂だったが、
「あっ! この人の顔って、お兄ちゃまに似てるよね。衛ちゃんもそう思うでしょ?」
「……花穂ちゃん。この映画って、見たことある?」
ようやく切り出した咲耶だが、その声色はどこか空々しい。姉の異様な雰囲気に、花穂が「ふぇ?」と素っ頓狂な声を出した。
「う、ううん。花穂、見たことないけど……それがどうかしたの?」
「そっか、見たことないのね。うん、まあ、それが普通なのよね」
咲耶はため息を深くつき、残りの姉妹らを顧みる。鞠絵が一同を代表して親指と人差し指で丸を作ると、咲耶が自分の膝をぱぁんと叩き、それでお開きになった。
夜もとっぷりと更けたリビングは衛と花穂の二人きりで、ビデオを回してからというものミカエル一匹通り掛からない。
映画の二人は一段と乱れ、喘ぎを通り越した唸り声はウーハーで低音を強化されて部屋中に轟く。咲耶たちの気遣いも当然というものだ。これを皆で見ていたら、恥ずかしいを通り越して頭が沸騰していたに違いない。いっしょにいるのが花穂でよかったと、衛は心から思った。
その花穂はといえば相変わらずの集中ぶりで、目を画面から外そうとしない。休みなく動く口はハッピーターンをぼりぼり噛み砕き、色とりどりの包装紙が山のように積まれている。口やかましい姉たちがいないのをいいことに食べたい放題だ。
――こんな時間におやつを食べるから太っちゃうのに。
そう言おうかと思ったが、ちらりと考えてからやめた。もしかしたら花穂なりの照れ隠しかもしれない。その証拠に、花穂の顔も耳まで赤い。その割には平然として見えるが、こういうのに見慣れているのだろうか。
表面上は平静さを保つ姉妹とは対照的に、ブラウン管を隔てて存在する男女はもはや獣も同然だ。兄によく似た顔が豊かな胸に顔を埋め、恍惚に打ち震えている。
衛はこんな表情を浮かべた兄を見たことがなかった。
空いたほうの手が我知らず自分の胸をまさぐっていた。
ほとんど抵抗がない。
本格的にスポーツへ打ち込もうと思えば、抵抗がないに越したはない。
走れば質量が邪魔になり、泳げば体積が邪魔になる。中等部や高等部の先輩を見ていると、こんな身体でよかったと思うことがそれこそしょっちゅう。
姉たちを見てもそうだ。肩が凝るだのブラがどうのだと言い交わしているのを耳にすると、羨ましいという気持ちは一向に湧いてこない。むしろ、兄に近いままでいられるのだから、これは喜ぶべきことなのだ。ただし、姉たちはそう思っていないようだが。
しかし、喜色を露わに半球を鷲掴みする兄――によく似た男を見ると、衛の胸の奥がちくちくと痛み出す。なぜか、リビングをそそくさと出て行く兄の後ろ姿が頭に浮かんだ。
もしも、兄とそういう関係になったとして、自分のこの身体であんな表情をしてくれるのだろうか。こんなに抵抗のない胸で、兄を捕まえておくことができるだろうか。つるつると滑って、どこか違うところに引っかかってしまわないだろうか。
衛はふと、隣に座る妹を見た。
最近の花穂は、衛が驚くほどに身体の線がやわらかくなってきた。毎日いっしょにお風呂へ入っていても、その変貌ぶりはハッキリとわかる。あと一年もすれば、可憐や白雪ともいい勝負ができるに違いない。
だが、そのときの自分はどうなっているのだろうか。身長だけが伸びている? それとも、今よりも少しふくらんでいる?
「――ねえ、衛ちゃん?」
「なっ、何?」
衛は自分の胸元から慌てて手を抜き、へどもどと答えた。目線だけ動かしてそっと様子をうかがうと、花穂の顔は相変わらずテレビに向かったまま。感づいた様子はない。
「花穂ね、前から不思議に思ってたんだけど」
「う、うん」
花穂はそこで、くるりと衛に向き直った。
「ハッピーターンって、同じ袋の中に甘いのとしょっぱいのってあるよね」
「はぁ?」
笑顔の花穂に対し、怪訝な表情を浮かべてまごつく衛。
「ええと、あの、それがどうかしたの?」
「ううん、それだけなんだけど――」
花穂は語尾をごにょごにょとごまかし、座ったまま膝を滑らせて衛へにじり寄った。
「今、花穂が食べたのって……どっちだと思う?」
うっとりと目を細めて呟く花穂を前に、衛は体育座りのままでじたばたと後ずさる。
「どっ、どっちって、そんなのボクにわかるわけないよ!」
動揺が大声になって現れ出た。花穂の肩がびくっと一度引きつり、やがて、ゆっくりと俯いた。
言い方がキツかったかなと思った衛は、恐る恐る妹の顔色を覗き見る。どこか虚ろにも見える表情をしているが、特に変わった様子もない。
だが、衛がほっとしたのもつかの間、今度は肩を小刻みに揺すりながら花穂がくすくすと笑い出した。
「花穂ちゃん、大丈夫?」
「――うん、そうだよねぇ。衛ちゃんにわかるわけないよね。ほんと、花穂ってドジっ子なんだぁ」
衛の声が耳に入っているのかいないのか、花穂はなおもけらけらと笑い続ける。
さすがの衛もそろそろ気味が悪くなってきた。物心つく前からの仲とはいえ、こんな花穂を見るのは初めてだ……と思ったが、前にも見たことがあるような気がしてきた。
ただ、どちらにしても悪い予感しかしない。となれば、取るべき道はひとつ。
衛はいそいそと立ち上がりながら、
「ボ、ボク、もう眠いから寝るね。じゃ、あとは――」
「あっ! 花穂、いいこと思いついちゃった!」
中腰で無防備な衛に花穂のタックルが決まり、二人はもんどりうって床に倒れ込んだ。衛の目の前に星が飛び散る。
「いっ、たぁ……」
衛は頭を振り振り上体を起こした。
「もう、何するの? いくら花穂ちゃんでも、やっていいことと悪いことが……って、大丈夫?」
花穂は衛の足の間にうつ伏せで倒れたまま動こうとしない。衛が脇の下へ手を入れて抱き起こすと、ようやく意識を取り戻した。
「――あ、衛ちゃん?」
衛を見つめる花穂の目はとろんとしていていかにも危ない。
「ホントに大丈夫? ……ねえ、今日はもうこんな時間だし、このまま寝ようよ。自分で立てる?」
衛の言葉に首を傾げながらまばたきしていた花穂だったが、やがてにっこりと大きく笑う。
「キスすれば、わかるよ?」
ぺろりと自分の唇を舐め回す花穂。その妖しげな仕草に、衛の背筋へ寒いものが走る。
「なっ、なっ、何言ってるのさ!」
「だからぁ、衛ちゃんが花穂にキスすれば、甘いかしょっぱいかわかるでしょ?」
パジャマを掴み、身体を這い登ってくる花穂の手を気にしながら衛は答える。
「そ、それはそうだけど、でも、別にキスじゃなくったって」
「衛ちゃんは、花穂とじゃ……イヤ?」
「イヤっていうか、あの、そういう意味のイヤじゃないけど、でもやっぱりキスはちょっと困る、っていうか、普通はその……す、好き同士の男の人と女の人がすることだと思うから、だから――」
「そっかぁ。うん、そうだよね。やっぱり、花穂がドジばっかりしてるからだよね。衛ちゃんに嫌われちゃっても……しかたないよね……」
と、花穂はぐずぐずとすすり泣きを始めた。衛はばたばたと手を振って慌てる。
「そっ、そうじゃないってば。好きとか嫌いとかそういうのじゃなくて、だからその、普通は女の子同士でしないと思うし」
「じゃあ……今だけ、衛くん」
「――えっ?」
シャンプーの甘い匂いがふわりと迫ったかと思うと、次の瞬間、唇にやわらかなものが押し当てられた。
ざらついたものが唇の隙間から押し入り、それは舌の上で溶けてたちまちしょっぱくなった。
すぐ目の前で花穂の瞳がうるんでいる。その中にテレビが――何度目かのキスをする二人が小さく映っていた。
やがて、どちらからともなく唇が離れる。
花穂が笑顔で見つめている。それがとてもまぶしくて、衛は顔を伏せた。
枕なしで寝て起きたときのように、頭の奥がぼんやりとしている。
「ねえ、どっちだった?」
「――しょっぱかった」
衛がぼそぼそと答えると、花穂は再び自分の唇を舐め取り、不意に悲しそうな顔を見せた。
「ごめんね、衛ちゃん。キスは甘くなくっちゃいけないのに……」
その言葉で花穂とキスをしたのだとようやく理解した衛は、燃え上がりそうなほどに全身が火照るのを感じた。思わずぷいっと顔を背け、哀れみの混じった視線から逃れる。
「か、花穂ちゃんが悪いんだからね」
「うん、わかってる……」
そう答える花穂の声は今にも消え入りそうで、問い詰めた衛のほうが罪の意識を感じる羽目になった。
怒っていないといえば嘘になる。男と女の間でするものと思い込んでいた衛にしてみれば、例え相手が妹だったとしても到底許すわけにはいかない。あわよくば兄にこの唇を、とも考えていたのだ。
だが、その一方で花穂のキスに安心している自分がいた。どれだけ想いを募らせたとしても、兄妹は所詮兄妹でしかない。いつかはお互いに恋人ができるのだろう。そして、やがて来るべき日が来たとして、そのときまで取っておいたとしたら――赤の他人に奪われるぐらいなら、花穂へ捧げたほうがきっといいはず。
「――だから、今度は甘いの、あげるね」
不意にパリパリという包装紙の音が響き、衛はハッと顔を戻した。
そこには、一口チョコ――体温ですぐに溶けるタイプ――へ薬指を押し当てる花穂の姿があった。溶けてゆるんだチョコを指へ絡ませると、恍惚の表情を浮かべた花穂は、たどたどしい手つきで自分の唇に塗りつける。そう、まるで口紅を差すように。
衛が小さく喉を鳴らすと、花穂は初めて衛の存在に気づいたかのようにうっすらと微笑んでみせた。
「ごめんね、衛ちゃん。もうちょっと待っててね」
いつもと変わらない、舌足らず気味な花穂の声。そのアンバランスさに、衛はただ、頷き返すことしかできなかった。
気がついたときには花穂の顔が目の前にあった。
今度はひたっと吸いつくような感触。甘みに混じったかすかな苦さが、唇をちりちりと痺れさせる。
「――ねえ、今度はどう?」
膝立ちになって身を離した花穂が感想を求める。
「あ、甘かったよ」
「よかったぁ。やっぱり、キスは甘くないとダメだよね」
花穂はくすくすと笑い、上半身をよじって背後のお菓子ポットへ手を伸ばす。
「だから、今度は衛ちゃんが花穂にキスする番だよ」
「へっ?」
逃げる暇もなかった。唇に先とは違う形のチョコが乗せられ、その上から花穂の唇が覆い被さった。両の頬には花穂の手が添えられていて身動きが取れない。そうこうしている間に、二人の熱い唇がチョコレートから形を失わせてゆく。
甘苦い液体が口の中へ流れ込むにつれて、唇を花穂へ押しつける衛。キスへの嫌悪感はチョコレートもろとも喉の奥へ消えた。
衛の鼻が異様な匂いを察知したのはそのときだった。唇の上にとろっとした液体があふれ、顎を伝わり落ちてパジャマに水玉を作る。刺激臭が容赦なく鼻を突いた。
衛は、ここぞとばかりに身体を預けてくる花穂を無理やり引き剥がした。溶け掛かったチョコが床に落ちる。
「これって……」
チョコレートの中には空洞があった。まだ液体が残っている。
「もしかして、ウイスキーボンボン?」
念のためにと、衛は自分の唇を指でぬぐって舐め取った。その途端、舌先がびりびりと痺れ、ブランデーの匂いが頭を突き刺す。口の中から全身へ向かって熱が放射される。
そこで衛はハッと思い出した。忘れようにも忘れられない、悪夢のようなひな祭りを。
あれは小学校へ上がる前のことだったろうか。幼い頃から衛と花穂は仲良しで、その日も二人はいっしょだった。
当時は二人の役割が今と正反対で、引っ込み思案な衛を花穂が積極的にリードするといった感じ。大人たちの間を駆け回って愛嬌を振り撒く花穂に対し、和室いっぱいに広がった七段飾りを前にじっと座り込んだ衛は、毛氈(もうせん)の鮮やかな赤に見惚れるばかりだった。
そして、事件は起きた。
「まもちゃーん」
呼ばれて振り返った衛は、驚きのあまりに固まった。
着物をものともせずに猛然と駆け寄る花穂。その顔色は毛氈よりも赤い。背後に見え隠れしているのは、おっとり刀で花穂を追い掛ける大人たち。
何が何だかわからなかったが、とにかく逃げなければと思った。
しかし、ずっと座っていたおかげで足が痺れて思うように動けない。加えて、当時の衛は鈍くさかった――今の花穂以上に。
おろおろしている間にも花穂が迫る。花穂は衛の名前を呼んでいるようだが、ほとんどろれつが回っていない。
そして次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
その後はあまりよく覚えていないが、とにかくわんわんと泣いていたのだけは確かだ。花穂の突進に巻き込まれてひな壇へ叩きつけられた痛みよりも、綺麗な人形たちがめちゃくちゃに壊れてしまったことへの悲しみのほうが強かった。首のもげたお内裏さま、一人だけ生き残った三人官女、ぺったんこのステーキになった牛車。
甘酒が原因だと知ったのは、翌年の質素なひな祭りの日だった。
ママが言うには、面白半分で『ほんの一口だけ』飲ませたというが、当の花穂は何も覚えていないらしい。だが、粕汁に口をつけただけでべろべろになったり、ラムレーズン入りのパウンドケーキで目を回したりする彼女を見ていると、どうやらママの言うことに間違いはなさそうだ。衛もかなり弱いほうだが、ここまでひどくはない。もっとも、白雪お手製のワインゼリーで酔っ払ったのは衛と花穂の二人だけなのだが。
今にして思えば、あのひな祭りが花穂のドジの始まりだったかもしれない。何せそれまでは、転んだ衛を花穂が引っ張り上げるという構図だったのだ。
おままごとセットは花穂のお尻で、動物のお人形の家は花穂の足で、着せ替え人形は花穂の背中で。気がついたときには、衛のおもちゃは全部ゴミ箱に入っていた。
衛が外へ逃げ出したのは必然だった。
外には衛の持ちものがなかった。自転車だけが唯一あったが、花穂にぶつかられても壊れないと知ったそのときは本当に嬉しかった。自分にはこれしかないとさえ思ったのだ。今の活発な衛があるのは、全て花穂のおかげといっても過言ではないだろう。
「――なっ、何してるの花穂ちゃん!」
ふと花穂を見ると、スナック菓子でも食べるような気安さで、次々にウイスキーボンボンを口の中へ放り込んでいた。
「お酒に弱いんだから、そんなに食べちゃダメだってば」
「えー、どうして? 甘くてとってもおいしいよ。ほら、衛ちゃんも」
花穂はふらふらと頼りない手で一つを摘み上げるが、衛は素早く叩き落す。
「だから、ダメだってば。花穂ちゃん、もう酔っ払ってるんだよ」
「聞こえなーい。花穂、ぜんぜん聞こえないもーん」
けらけら笑いながら花穂は首を横に振る。完全に目が据わっている。
これで納得できた。
映画を見る花穂の顔が赤かったのは照れでも何でもなく、とっくの昔に酔っ払っていたせいなのだ。
「えへへー。まもちゃーん、花穂にチューしてー」
唇を突き出した花穂が迫る。衛は腕を突き出して花穂の侵攻を食い止める。
「なっ、何でそうなるの?」
「何でって、花穂はまもちゃんに二回チューってして、でもね、まもちゃんは花穂に一回しかチューしてないの。そんなのって不公平でしょ?」
「えっと、それはそうだけど、でも、今はそういうこと言ってる場合じゃなくって……」
それを承諾のサインと受け取ったのか、花穂の顔がパッとほころんだ。
「まもちゃん、大好きぃ」
花穂はそう言うなりおもむろに立ち上がり、そのまま衛へ向かってばったりと倒れ込む。衛は受け止めるのが精一杯だった。
微妙にアルコール臭い息を吐き掛けながら、花穂はチョコレートで光る唇を押しつけた。
唇がやわらかい。全身で触れる花穂の身体がやわらかい。沈んでしまいそうな感覚に、衛は思わず目を閉じた。
真っ暗な中に胸の鼓動だけが響く。左からは自分の胸が、そして右からは花穂の胸がパジャマ越しに。
単調なリズムと酔いに身を任せるうち、意識がすうっと遠のく。
「――えっと、こうかな?」
「雛子ちゃん、重いです……」
か細い声に続いて、くすん、と鼻をすする音。
衛は目を見開き、声のしたほうへ顔を向けた。
そこには、横たわった亞里亞へ覆い被さる雛子の姿があった。
「なっ、何してるの雛子ちゃん?」
「えっとね、衛ちゃんと花穂ちゃんのまね。下の子が上の子の上にのって……ありり? それで、このあとどうするの?」
「雛子ちゃん、重いです……」
血相を変えた咲耶と千影が、地響きと共に駆け寄ってきたのはそのときだった。呆気に取られている雛子と亞里亞をそれぞれ抱え、足早に連れ去って行く。
花穂は衛の首に手を回したまま、すうすうと寝息を立てている。
派手な音楽にふとテレビを見やると、映画はもうクライマックスを迎えようとしていた。拳を振るう狼男に寄り添うのは、金色の毛皮を纏った狼女。
花穂の下敷きになりながら、あれが今のボクなんだと、衛は何となくそう思った。
Fin.