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 〜 鈴凛の場合 〜


 鈴凛は思わず耳を疑った。身体を預けた背もたれが、ぐぐっ、と唸り声を上げる。
 多分、ものすごく変な顔をしているのだろう。フローリングに片膝を付いた兄が、様子を窺うように鈴凛の顔を覗き込んでいる。雰囲気が鞠絵の心配をするミカエルにそっくりだ。にやけそうになる顔を奥歯を噛み締めて保ち、鈴凛は一度咳払いした。
「ごめん、アニキ。よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれる?」口を開き掛ける兄を手で制し、さらに付け加える。「わかりやすく、順番に一つずつ、ね」
 すると、兄は眉を上げて頬をぽりぽりと掻いた。
「いいけど、そんなに聞き取りにくかった?」
「あー。うん、まあ、何ていうかさ……」
 素で言っているとしたら花穂並みだ。計算づくだとしたらよく訓練された花穂並みだ。わからなかったのはあくまで言葉の意味なのに。
 鈴凛のため息には全く気付くことなく、兄は宙を眺めながら口を開く。
「ええと、まずは資金援助」
 胸ポケットから四つ折りの五千円札を取り出し、将棋の駒を指すように床へ置く。
「これはわかるね」
「もっちろん。それをアタシにくれるんだよね?」
 頷き返した兄は「その代わりに」と続け、鈴凛を見上げた。
「鈴凛の足を舐めさせて」
「…………」
 鈴凛は無言で首を捻った。おかしい。何度聞き返しても「足を舐めさせて」としか聞こえない。今日はエイプリルフールでもないし、三夜連続の徹夜明けでもない。白雪のマッシュルーム料理とも千影のマッシュルーム体験とも無縁だ。少なくともここ一ヶ月は。要するに、今の自分は全くの正気のはず、だ。
「えっと。悪いんだけど、もうちょっと詳しく説明してくれないかな」
「だから、鈴凛の足を舐めさせてほしいんだけど」
「足っていうのは、アタシの?」
「うん、つま先。膝とか出さなくていいよ。本当に足の先だけでいいから」
「で、舐めるのはアニキじゃなくて、もちろんミカエルだよね?」
 ね? のタイミングでびしっと指を向けた。もしかして、千影あたりに一服盛られたのかもしれない。これで夢から覚めるとは思えないが、とにかく再確認させておく必要があった。アニキがアタシの足を舐めたいなんてそんなバカな話、あるわけないじゃない。
 しかし、鈴凛の期待はいともあっさり裏切られた。
「そんなまさか。ミカエルが可哀想だよ」
「……アニキさぁ、ホントに大丈夫?」
 こめかみに向けた指をぐるぐると回してみせると、兄は露骨に顔を顰めた。残念ながら至って正気らしい。
「んもう、なんで?」
 鈴凛は天を仰ぎ、額に手を当てた。残った片手をぶんぶんと振る。
「なんで、どうして、アニキが、アタシの、足を、舐めなきゃ、い、け、な、い、のっ!」
「……ダメ?」
 兄は上半身ごと斜めにして鈴凛の顔を覗き込む。何というか、本当に犬っぽい。
「悪い話じゃないと思うんだけどなぁ。いつもの資金援助にご奉仕のサービス付きなんだから」
「そう、それなのよ」
 鈴凛は再び兄を指差す。
「大体おかしいじゃない。普通さ、こういうのってアタシの方から言い出すのがホントなのに。援助してくれた代わりに精一杯ご奉仕させていただきます、って」
「じゃあ、それなりに後ろめたさは感じてるんだ」
「えっ? そ、それはまあ、一応は」
「そうなんだ。だったらなおさらだね」
 兄は急に背筋を伸ばした。
「鈴凛が資金援助を必要としてるのはわかるけど、僕は鈴凛だけのアニキじゃないからね。他の子たちを差し置いて鈴凛だけにっていうのはさすがにどうかと思い始めて」
 ようやく兄の考えが読めてきた。
「なるほど。罪悪感とセットにすることによって歯止めを掛けようってワケね」
「さすがは鈴凛」
 兄は満足そうに頷いた。つられて頷く鈴凛だが、まだまだ疑問は残っている。手を突き出して、身じろぎする兄を止める。
「で、でもさぁ、だからって足を舐めなくたっていいじゃない。もっと他に、ほら、アタシに何かさせるとか。そっちの方が普通でしょ? 労働に対する代価としての資金援助なら他の子たちだって納得してくれると思うし」
「舐められるのって、そんなにイヤかな」
「はぁ?」
「だって、妙に必死で言い訳してるし」
「言い訳もなにも、そんなの全然普通じゃないでしょ」
「でも、資金援助と引き換えだよ」
「う……」
 床の上には五千円札。これがあれば当分は楽ができる。倹約は嫌いではないが、あくまで趣味の範疇に収めておかないと心がどんどんすさんでしまう。ゆとりがあるに越したはない。しかし、それと引き換えに足を舐めさせろというのだ。全く何を考えているのやら――
「って、ちょっとアニキ! な、何してるの?」
 むず痒い感触で我に返ると、いつの間にか足元にしゃがんでいた兄が右足の靴下に手を掛けているところだった。
「何って、見てわからない?」
「わ、わかるけど、どうしてなのかがわからないのっ」
 相手が相手なので蹴り飛ばすこともできない。意外に冷たい指の感触に戸惑っているうちに、右は全部脱げてしまった。
「さて、次は左だね」
 本当に楽しいらしく、今にも鼻歌を歌い出しそうな声だ。なし崩し的に脱がされると、兄は、恭しく取った鈴凛の右足を自分の膝の上に乗せた。いつになく真剣な仕草と眼差しに鈴凛の心がぐらっと揺れる。そう、相手は他ならぬ兄なのだ。
「ね、ねぇ。ホントに本気なの?」
「もちろん」
「アタシがイヤって言ったら?」
「でも、鈴凛はイヤって言わないよね」
 この期に及んで、兄はふっと微笑んだ。
「だってリンは賢い子だから、どっちが得なのかすぐにわかるよね」
 昔の呼び方を持ち出されてしまい、たちまち顔が赤くなる。そういえばお医者さんごっこもやったっけ。もちろん、足を舐められたことはないけど。
「ア、アニキはさ、イヤじゃないの? アタシの足、舐めるの」
 問い掛けに対してきょとんと首を傾げるので、却って鈴凛の方が恥ずかしくなってしまう。
「お風呂に入ってからとかさ、綺麗にしてからの方が――」
「鈴凛の発明って、僕のためにしてくれてるんだよね」
「……へっ?」
 話がいきなり明後日の方に飛び、今度は鈴凛がきょとんとする番だった。
「えっと、まあ、一応はそうだけど」
「辛いって思ったこと、ない?」
「それは……ある」
 足を押さえられているので、鈴凛はお尻をもぞもぞさせて姿勢を直した。
「うまく行かないときとかすごくイヤになる。どうしてこんなことやってるんだろうって。でも、アニキに喜んでもらえるのが一番うれしいから、だから――」
「うん。僕も同じだよ」
「え?」
 鈴凛は思わず耳を疑った。身体を預けた背もたれが、ぐぐっ、と唸り声を上げる。
「そっ、それってどういう意味、なの?」
「僕もね、好きなものに対しては苦労を厭わないっていう意味」
 そして鈴凛の足首を軽く握り締め、もう片方の手のひらに乗せる。兄の吐息を指先に感じ取りながら、鈴凛はほとんどパニックを起こし掛けていた。アニキは今アタシの足を舐めようとしてるけどでもアタシの足は洗ってなくて不潔で汚れててそれでもアニキは舐めようとしてるアニキは明らかに自分からイバラの道を歩んでるからまさかそんなきっとやっぱりアニキの好き好キスキスキス――
「あ、あ、あの、ア、アニキ――」
 今まさに口付けられようとしたその時、雷鳴にも似た音と共に天井から一対の足が生え、二人の間に割り込んだ。
「ぎゃあぁぁっ!」
 鈴凛は背もたれを乗り越える格好でもんどりうって後ろに倒れた。そして、がくがくと全身を震わせながらそれを見上げた。
 それは天井を突き破った女の子だった。肩口でシャツが引っ掛かり、白い裸体を空中に晒している。
「ねぇっ、ちょっと大丈夫なの?」
 すると、宙ぶらりんになった肢体がじたばたと暴れ始めた。
「そ、その声は鈴凛ちゃんデスか?」
 その特徴的な声と喋り方に心当たりがあった。そして、チェック柄のブラジャーにも。鈴凛はどっとため息を吐き出す。
「アンタねぇ、今度はどこの怪盗ごっこのつもり?」
「違うデス違うデス、今回は白雪ちゃんに頼まれただけデスよ。食料庫を荒らすネズミの追跡調査してたらトラップに引っ掛かってしまって」
「何がトラップよ、このバカ四葉! アンタのは天井を踏み外しただけでしょ」
 苛立ち紛れに怒鳴った鈴凛は、兄の様子がおかしいことにふと気付いた。怪我はしていないようだが、座り込んだままでぼんやり上を見上げている。
 そして、その視線の先にあったのは四葉のつま先だった。じたばたともがく様に合わせ、律儀にその後をトレースし続けている。ブラジャーだけの胸でもなく、キュロットパンツが脱げそうになっているお尻でもなく、兄が目を奪われているのは埃と煤にまみれた素足。
 その瞬間、鈴凛の中で何かが弾けた。全てに対して腹を立てていた。千載一遇のチャンスに割って入った四葉も、勝手に勘違いして一人で盛り上がった自分も、そして何より――
「アニキどいて! こいつ下ろせないっ!」
 腹立ち紛れに、四葉のお尻を雑誌で引っぱたいた。





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