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 〜 花穂の場合(1) 〜


 廊下に一人うつ伏せでバンザイしながら、花穂はどうして誰も助けに来ないのだろうと首を傾げた。
 もちろん実際には動かさない。動かせば一人でも平気だと思われてしまう。何をどう気を使っても転んでしまうなら、せめてその痛みと引き換えに何かを得たいというのが心情というものだ。
 だが、期待でわずかに膨らんだ胸とは裏腹に足音の一つも聞こえてこない。花穂は首を動かさずに再び首を傾げる。うーん、どうして誰も来ないのかな? 最近は衛ちゃんぐらいしか来てくれないけど、その衛ちゃんもぜんぜん来てくれないし。
 思えば、その予兆は以前からあった。兄の前でばかり転ぶので姉たちにはワザとじゃないかと疑われることしばしば。一つ屋根の下で暮らし始めた最初のほうこそ、花穂が派手に転倒するたびにわらわらと集まっていろいろと気遣ってくれたものの、それも一ヶ月が経ち二ヶ月が経つにつれて「またか」という顔を向けるだけになり、最終的に花穂を助け起こすのは衛か兄の二人だけとなった。
 みんなの心配そうな視線を一身に浴びて立ち上がるのはチアの時とまた違った快感だが、マンツーマンで手取り足取りべったりぴったりと介護されるのもそれはそれで魅力がある。衛はともかく、兄は膝を擦り剥いた時に限ってお姫さま抱っこをしてくれるので好きだった。姉たちの視線が怖いので二人きりの時に限っているが、逆に、二人だけになったら必ず痛くて歩けないふりをして抱っこをせがんでいる。ウソをつくのは心苦しいし、擦り剥いてなくても何かと理由をつけて膝を舐めようとするのでそれが大変だが、兄の胸に抱かれている感触には換えられない。思わず「ちにゃー」となってしまう。
 しかし最近は、兄にも見捨てられてしまったのか衛ばかりが釣れ、そして今、その衛さえも引っ掛かってくれない。もしかして、これが咲耶ちゃんの言っていた倦怠期? 電気を消してからこっそり衛ちゃんのベッドへ忍び込んでも、最初のうちはビックリしてくれたのに最近はすっかり慣れっこになってあまり面白くないし。もっと工夫して、飽きられないようにしなきゃダメかも。ただ転ぶだけじゃなくて、衛ちゃんもいっしょに巻き込んじゃうとか。
 そうやって考えていてもやっぱり静かなままなので、花穂はやはり首を動かさずに首を傾げた。誰でもいいから来て欲しい。階段を二段も踏み外したついでに足の小指を角にぶつけてしまってものすごく痛いのに、これで誰にもなぐさめてもらえないなんて嫌すぎる。竜崎先輩でも声ぐらいは掛けてくれるのに。
「転んでも一人、かぁ……」
 そんな風な感じの俳句をどこかで見た覚えがあるが、作ったのは誰だったろうか。確か、ラーメン屋のような名前の人だったような……。
 床板の冷たさが素足に辛くなってきた頃、お待ちかねの足音が遠くの方から聞こえてきた。花穂はにやけそうになる顔を必死で引き締めながら到着を待った……が、期待はすぐに失望へと変わった。「ぺたぺた」でも「ばたばた」でもなく「かちゃかちゃ」という耳ざわりな音。近付いてきたと思ったら、うつ伏せの額のあたりを生温かい何かが撫で回し、しかも、ふんふんだのすんすんだのとうるさい。顔を上げるまでもなかった。ミカエルだ。
 ミカエルはひとしきり花穂の様子を嗅ぎ回ったと思うと、くるりと踵を返して廊下を来た方向に引き返してしまう。
「うぅ、ミカエルにも見捨てられちゃったよぉ……」
 顔を上げ、恨めしげにミカエルの去ったほうを見つめる花穂だったが、すぐに戻ってきたので慌てて顔を伏せた。ミカエルのそれに加え、今度はスリッパの立てるぱたぱたという音が混じっている。彼に連れて来られたとなれば一人しかいない。花穂はうつ伏せのまま、わずかに身をすくめた。
「あら、誰かと思ったら……」
 少し離れたところで足音が止まったと思うと、鞠絵の声はそれっきり聞こえなくなった。頭のてっぺんに視線が刺さっているのを感じる。人に見られ慣れているせいで、それがどういう種類のものかすぐにわかってしまった。これは疑いを抱いている時の目だ。それがじいっと一点に注がれている。
 ビクつきながら顔を起こした花穂は、鞠絵がこちらを見つめながら微笑んでいるのを見て「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
 くぅん、と甘えた声を出したミカエルが間を取り繕うように近寄ってきたが、「止まりなさい」と鋭く制止されてしまってはどうすることもできない。右前足だけを上げた、歩く途中の格好でぴたりと固まった。
 最近の鞠絵はなんだか怖い。といってもそれはミカエルに対してのみだが、学校の先生のようにこんこんとお説教しているのを耳にすると、聞いているこっちまで叱られている気分になる。何と言うか、それぐらい迫るものがあるのだ。
「花穂ちゃん、どうかされましたか? こんなところでお昼寝していると、風邪を引いてしまいますよ」
 あからさまな怯えっぷりなど目に入らなかったように、鞠絵の声はあくまでも優しげだ。
「それと『咳をしても一人』は尾崎放哉の句です。山頭火ならば『鴉啼いてわたしも一人』。ラーメン屋ではなく、俳人の名前です。覚えましたね?」
「……鞠絵ちゃん、どうしてわかったの? 花穂は何も言ってないのに」
「だって、顔にそう書いてありますもの」
 花穂はぎょっとして自分の顔をなで回すが、フローリングの目地で頬が凸凹しているのがわかっただけだった。
「それで、どうしてこんなところでお昼寝を?」
「か、花穂ね、お昼寝してるわけじゃなくて、その、ドジだからまた階段で転んじゃって……」
「まさか、どこか怪我でも?」
「ううん、ちょっと足の小指をぶつけちゃっただけだけど」
「そうですか。それはよかったですね」
 鞠絵はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、一人でも立てますよね?」
「えっ? え、ええっと……」
「それとも、衛ちゃんが来るまでずっとお昼寝しているつもりですか?」
 図星を突かれ、花穂はうううと唸りながらうな垂れる。そんな花穂を見て鞠絵がくすっと笑った。
「ごめんなさい、そういうつもりで言ったわけではないんです。衛ちゃん、さっき出掛けたばかりだから、そのまま一時間も二時間も待つのは大変かもしれないって思って」
「ええっ? 衛ちゃん、勝手にお出かけしちゃったの?」
 花穂は思わずがばっと身を起こした。
「まあ、何も聞いていなかったのですか?」
 目を丸くしながら答えたところを見ると、どうやら鞠絵の予想外だったらしい。
 それはともかく、失意のどん底に落ち込んだ花穂はその場にぺたんと女の子座りし直した。
「うぅ……衛ちゃんにも見捨てられたら、花穂、これからどうすればいいの……?」
「見捨てるだなんて、そんな」
 鞠絵は花穂の隣に寄って膝を落とし、肩にそっと手を置く。あまりの落胆振りに同情してくれたのか、さっきまでの刺々しさはすっかり消え失せていた。
「気持ちはわかりますけど、衛ちゃんにだって自由は必要ですよ。花穂ちゃんが本当に衛ちゃんのことを考えているなら――」
「それじゃダメだもん。花穂にとっての衛ちゃんは、鞠絵ちゃんにとってのミカエルと同じぐらいなの」
「同じじゃありません。衛ちゃんは人間で、ミカエルは犬です。犬は飼い主に仕えるのが役目。でも、人間はそうではないでしょう?」
「だってだって、最近、お兄ちゃまも花穂のことあんまり見てくれないし、だから、花穂にはもう衛ちゃんしか」
「……兄上様?」
 鞠絵の眼鏡がきらりと光った――ような気がした。
「花穂ちゃんは、あくまで兄上様の気を惹きたいというのですか?」
 肩へ置かれた手に力が篭っている。姉の急変ぶりに、花穂は戸惑いを隠せなかった。
「それは、あの、そのぉ」
「ただ転ぶだけで兄上様に縋ろうなど、そんな安直さでよくも今まで……!」
「ひっ!」
 花穂は反射的に頭を抱えた。叱られ慣れしている先輩なら時には気持ちよささえ感じてしまうが、今は違う。
「だ、だけど、他のみんなだってお兄ちゃまに助けてもらってるっていうか、だから、花穂だけが特別じゃないもん」
「それはわかっています。ですが、花穂ちゃんの場合は衛ちゃんと二股。兄上様に一度狙いを定めたなら浮気などしないで」
 鞠絵ちゃんにはミカエルがいるのに、と反論しようかとも思ったが、後が怖そうなので止めておいた。
 何気なく傍らの彼を見ると、ミカエルは相変わらずさっきのままの格好で固まり続けている。ただし、左右の前足を入れ替えた状態で。花穂の視線に気付いたミカエルは慌てて元の体勢に戻った。
「でも、最近のお兄ちゃまってちょっと変だよ? 玄関でみんなが帰ってくるのをずっと待ってて、すぐに靴をキレイに並べ直したりとか、洗濯物を靴下だけ先に取り込んだりとか。うまく言えないけど、何か他のことに夢中になってるみたいで、花穂たちを見てるようで見てないような感じがするの」
 すると鞠絵はハッと我に返った風になり、遠くを見る目付きになって顔を上げた。
「……なるほど。そう言われてみればそうかもしれませんね。わたくしはともかく、他の子たちがそう感じ取ってもおかしくありませんし。誰のせい、とは言いませんけれど」
 花穂にというより、むしろそれは自分へ向けて言っているように聞こえた。
「あの、鞠絵ちゃん……?」
 声を掛けた途端、鞠絵がくるりと向き直る。
「そういうことでしたら、わたくしからアドバイスを少しばかり」
 不意を突かれ、花穂はとっさに頷いた。
「兄上様の心を惹き寄せる方法、それは……」
「それは……?」
「いけいけどんどん、です」
「……い、いけいけ?」
 鞠絵らしからぬ言葉に花穂は本当に首を傾げた。
 しかし、鞠絵は首を縦に振り、
「兄上様の気を惹くためには、ただ待っているばかりではダメです。……そう、出番というものは自らの意志で勝ち取るもの。わたくしはあの一件でそう教えられました」
 鞠絵は何かに思いを馳せるように再び遠くを見た。そして、おもむろに花穂の両手を取って言葉を続ける。
「ですから、花穂ちゃんもこんなところでお昼寝していてはいけませんよ。もっと積極的に、右の足を求められたら自ら左の足も差し出す勢いで」
「で、でもぉ、積極的ってどうすればいいの? 花穂はチアをやってるから、鞠絵ちゃんよりずっと積極的だと思うけど」
「そういう意味ではなくて、兄上様に対する態度のことを言っているのです。具体的にはMからSへ」
「鞠絵ちゃんが、Sに……?」
 MARIEのMがSに置き換わるとSARIE――しかし、花穂の脳裏にはなぜかサザエ某の顔が思い浮かんだ。もちろん実際に口へ出す花穂ではない。ドジっ子ぶりでは西の四葉と並び称される(もしくは貶される)東の雄だが、場の空気を読む能力に関しては四葉を比べるべくもない。当然プラスの意味で。
 あの怪しげな髪型になった鞠絵の顔を意識から振り払うと、花穂は素朴な疑問を鞠絵にぶつけた。
「それじゃあ鞠絵ちゃんは、お兄ちゃまにどんなことしたの?」
「な、何ってそれは……」
 急に鞠絵の顔が赤く染まって声が小さくなったと思うと、顔をうつむかせながら「普段のわたくしからは想像もつかない行為です」と囁くように答えた。
「ふぅん、そうなんだ。何だかよくわからないけど、それってきっとすごいことなんだね」
 普段の鞠絵からは想像もつかない行為――それは多分、とてもひどいことに違いない。例えば、ミカエルの尻尾にうちわを縛って扇風機の代わりにするとか。
 その時、花穂の頭にハッと閃くものがあった。
「ありがとう、鞠絵ちゃん。おかげで、花穂が何をすればいいのかわかったよ」
「あら、そうですか。それはよかったですね」
「うんっ! これならきっと、お兄ちゃまも喜んでくれると思うの」
「まあ、すごい自信ですね。でしたら、今は何をするつもりか聞かないでおきます。兄上様が何とおっしゃるか、後が楽しみですから」
 と微笑んだ鞠絵は、初めてその存在に気付いたようにミカエルへ向き直った。
「さあ、行きましょうかミカエ――」
 鞠絵の視線が急に厳しくなる。釣られて花穂も見ると、前足の左右が再び入れ替わっていた。ハッと我に返って元に戻すミカエルだが時既に遅し。
「まったくもう、この子ったら。人が見ていないから楽をしようだなんて、そのような考えではいつまでも通用しませんよ。そもそもあなたは――」
 そしてなし崩し的に始まるお説教大会。この時点で逃げ出すこともできた花穂だったが、先輩っぽい叱り方をされては身体が言うことを利かない。『世界のクロサワの映画に対する姿勢』について語り終わるまで、約十分間を共に耐え忍んだ。
「写らないところまで小道具を作るなんて、すごいのかすごくないのかよくわからないよ……」
 鞠絵たちが去ってひとり取り残された廊下で、花穂は正直な感想をぽつりと漏らした。「チアは更衣室に戻るまでがチアなのよ」とは竜崎先輩の口癖だが、それはまだ実感として理解できる。どこで誰が見ているかわからないから、ユニフォームを着ている間は演技をしていなくても演技の内に入る――要するにそういう意味だ。しかし、絶対にカメラを向けられない、誰にも見られないとわかっているのに、それでもわざわざ演技をしなくてはいけない理由はどこにあるのだろうか。
 そんな風なことを考えていると、不意に玄関の外から物音がした。花穂は慌ててうつ伏せになり、聞き耳を立てる。……この足音、この間隔こそきっと衛ちゃん。
「たっだーいまー、って、うわぁっ! か、花穂ちゃん! 大丈夫なの?」
 元気よく扉を開け放った衛が、勢いそのままに駆け寄ってくる。花穂は顔がにやけそうになるのを必死でガマンしながら、助け起こそうとする衛に全てを委ねた。
「ほら、頭をこっちに向けて。脇の下から腕を通すからね。じゃあ、このまま立ち上がるよ。せーの、よいしょ……っと。花穂ちゃん、大丈夫? どこもケガはない?」
「んもぅ、衛ちゃんってば花穂にナイショでどこに行ってたの? 花穂ね、衛ちゃんが来るのずっとずーっと待ってたんだよ」
 口の上ではぷりぷりと怒りながら抱きついたので、衛は「はぁ」と困惑気味に頭を掻いた。
「まさかとは思うけど、ボクが帰ってくるのをそのまま待ってたの?」
「そうだよ。いつもならすぐに来てくれるから、もしかしたら衛ちゃんに見捨てられたのかもって思って怖くなって」
「それは謝るけどさ、でも、ずっと転んだままで?」
「えっ?」
 明らかに不審の色が混じった声に、花穂はがばっと顔を上げた。
「大したケガがないんだったらひとりでも立てると思うし、そりゃあ、花穂ちゃんを助けるのはボクの役目かもしれないけど、ボクにもボクの用事があってずっと付きっ切りってわけにはいかないんだよ。それに、来年はボクも中学に上がって一年だけ離れ離れになるんだから」
 気のせいか、衛が花穂を見下ろす目はいつもより少し冷たい。
「そっ、そんなこと全然ないよ! 花穂はたった今転んだばかりで衛ちゃんが来るのかなー、来ないのかなー、どうしよっかなー、花穂がひとりで立ったあとに衛ちゃんが来たらせっかく来てくれた衛ちゃんがかわいそうだなーって考えて迷ってただけだもん」
「でも、花穂ちゃんのほっぺに床の板の模様が書いて――」
 完全に言い終える前に、花穂は衛の胸に押し付けた顔を超高速で前後左右にこすった。
「――これでどう? 花穂の顔、なんにも書いてないでしょ?」
 さすがに火は出なかったが、顔全体が火の点いたように熱い。
 摩擦で真っ赤になった顔を半ば呆れた感じで見つめていた衛は、自分の負けを認めたのかどっとため息をついた。
「仕方ないなぁ、花穂ちゃんは……」
「よかったぁ。だから衛ちゃんって大好き!」
 そう言って再び抱き付くと、衛がため息を繰り返す。
「あ、それでね。花穂、衛ちゃんに――」
 先ほど閃いたアイディアを打ち明けようとしたその時、どこからともなく人の話し声が聞こえてきた。
「――花穂ちゃんもなかなか侮れないわね。でもまあ、これで倦怠期は脱出できるんじゃないかしら」「ねぇねぇ咲耶ちゃん。ケンタイキって、何?」「四葉が教えてあげるデスよ。ケンタイキとは、おいしいフライドチキンを売っているお店のことデス」「それを言うならケンタッキーでしょ。ったく、咲耶ちゃんも使う言葉には気をつけてよね。ただでさえ何でも真似したがる年頃なんだから」「亞里亞も、姉やに花穂ちゃんのまねー……くすん」「あら、亞里亞ちゃんってば涙目になってますの」「千影ちゃんの胸が誰かを抱き締めるようになってないなんて、亞里亞ちゃん、かわいそう」「まあ。そういうことでしたら代わりにこのワタクシが。さ、亞里亞ちゃん、遠慮などなさらずに!」「……くっ」
 花穂は衛に抱きついたまま、物陰へじりじりと移動を始めた。
「どうかしたの?」
「ううん、何でもないよ? それでね、衛ちゃんにお願いしたいことがあるんだけど」
「ええっ?」
 露骨に嫌そうな声を出す衛に、花穂は目を潤ませながらの上目遣い――人呼んで『まも殺し』――で懇願する。
「衛ちゃんは、お兄ちゃまにもっと好きになってもらいたくない? 花穂ね、すっごくいいこと思いついたんだけど、衛ちゃんは衛ちゃんだから特別に手伝わせてあげるね。ね、いいでしょ?」
 そのあと花穂は、衛が首を縦に振るまで決して腕を離さなかった。





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