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 〜 花穂の場合(2) 〜


  *


 それから約一時間後の裏庭にて。
 向かい合わせにしゃがみ込んだ花穂と衛は、二人揃って赤く腫れた額を抱えていた。
「ねぇ、衛ちゃん。お兄ちゃま、どうしてあんなに怒ったのかなぁ? 花穂の考えだと、これで絶対に喜んでくれるはずなのに」
「やる前から何度も言ったと思うけどさ、最近のあにぃでもそれはないと思うよ」
「だって、鞠絵ちゃんは『いつもの自分から想像もできないことをすればいい』って教えてくれたんだもん。これって、普段の花穂からは全然想像もつかないことだよね?」
「確かにいつもの花穂ちゃんとは逆だけど、だからってこれはちょっとね……」
 ため息を吐きながら衛が見た先には、地面すれすれに低く張られたロープがあった。あたりには水が撒かれ、むき出しの土はどろどろのぐちゃぐちゃ。その周辺をああでもないこうでもないと二人の足跡が荒らし回っているのだから見え見えのバレバレ。罠としては四葉以下、わざとでも引っ掛かるのは難しいというお粗末さだった。
「うーん、そうかなぁ? 花穂っていつも転んでばかりだから、その逆をやろうって思ったら転ばせるしかないのに」
「転ぶの反対は転ばないだと思うんだけどな、ボクは。それに、転ばせて喜んでくれる人って普通はいないよ」
 そこまで言うと、衛は「普通はね」と重ねて付け加えた。
「転んでも痛くないようにって、せっかく泥だらけにしたのに?」
 もう一度ため息をついた衛は、
「とにかく、さ。デコピンとお説教ぐらいで済んでホントによかったよね。最近のあにぃならもっとひどいことされるかもって、正直ちょっとだけ怖かったから」
「うん、ホントにそうだよね。裸足で長靴履いたら水虫になるぞ、ってあんなに真剣に怒ってくれたのって、やっぱり花穂たちのことをちゃんと考えてくれてるからなんだよね。……花穂、お兄ちゃまに見捨てられてなんかないって思ったら、何だかうれしくなってきちゃった」
 そう言って力強く頷く花穂に対し、衛は「あはは」と乾いた笑いで応えるに留まった。
「でも、これからどうしよう? 転ばせるのがダメだってわかったから、それ以外でお兄ちゃまに花穂のほうを見てもらわなきゃ。衛ちゃん、何か知らない? これをやったらお兄ちゃまが花穂まっしぐらになっちゃう方法」
「あにぃまっしぐら、かぁ……」
 腕組みをした衛は空を見上げながらしばらく考え込んでいたが、その顔がかあっと赤く色付き、頭をぶんぶんと左右に振った。
「衛ちゃん、どうしたの? 今、顔がすっごく赤くなったけど」
「なっ、ななななな何でもないよ? 別にあのときのことを思い出したわけなんかじゃ全然ないからさ」
「……あのときのこと?」
 花穂はオウムのように繰り返してインコのように首を傾げた。そういえば、さっきの鞠絵ちゃんもお兄ちゃまにどんなことしたの、って聞いてから急に慌て始めたんだっけ。他のみんなも、花穂の知らないところでお兄ちゃまに何かしたりされたりしてるみたいだけど……。
「衛ちゃんも、お兄ちゃまに何か変なことしてあげたの?」
「ええっ?!」
 衛は文字通りに飛び上がって驚いた。そして、花穂を遠ざけるように両手を突き出しながらじりじりと後退する。
「し、してないよっ! ボク、ホントに何もしてないし何も知らないから!」
 ほとんど悲鳴に近い叫び声を出し、衛はくるりと踵を返して逃げ出そうとする。
「待って、衛ちゃん!」
「花穂ちゃん、ホントにごめんっ!」
「じゃなくて、そっちは――」
 ロープがあるほうだよ、と衛の腕を捕まえたその時、片方のつま先で何かに引っ掛かる感触がした。
「……えっ?」
 足元を見るまでもなかった。自分がロープに引っ掛かっちゃった! と焦るほどに足先はずぶずぶと泥の中へめり込んでゆく。
 そして、何も知らない衛の勢いは止まらない。泥に埋まった長靴も抜け出せない。足元を支点に、衛を掴んだままの身体はどんどん傾いてゆく。衛に対する花穂の執着心と泥の持つ拘束力とどちらがより強いのか、まさに仁義なき戦い。果たしてその勝負の行方は――もちろん、最初から決まっていた。
 いつもと違う引っ張られ方にぎょっと振り返った衛が見たものは、泥に足を取られた花穂が何とか倒れまいと、つっかえ棒のように全身を突っ張らせている姿だった。
「……花穂ちゃん、何してるの?」
「えへへ……花穂、ドジだから」
 はぁ、と呆れ半分に花穂を見つめていた衛だが、そこは水魚の交わり。泥とロープの両方に引っ掛かった長靴を見て全てを理解したらしく、身体を後退させて花穂の支えになる。
「ごめんね、衛ちゃん」
「別にいいけど、こういう時って普通、先に手のほうを離すと思うんだけどな」
「でも、そしたら花穂はまた転んじゃうかもしれないよ? 頭から全部泥だらけになるより、つま先だけ泥だらけになったほうがいいよね?」
「ホントはどっちもよくないけど、片方を選べって言われたらつま先のほうが――」
 急に言葉を詰まらせた衛は「ああっ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「かっ、花穂ちゃん! 足! 足!」
「花穂の足がどうかしたの?」
「どうもこうもないよ。その足、急いでキレイにしないと、ええっと、お水、お水は……」
「別にどこもケガなんてしてないから、そんなに慌てなくったっていいのに」
 しかし衛は、ジョウロを拾って中を確かめたり、それが空だとわかると蛇口を探し始めたりと全く落ち着きがない。
「ああっ、ど、どうしよう。急がなきゃ、早くしなきゃ……」
「衛ちゃん、落ち着いて。そんなに焦らなくても花穂は大丈夫だから」
「そうじゃないんだって!」
 衛が花穂の両肩をがっしりと掴む。
「そうじゃなくって、花穂ちゃんがそのままだと絶対にイヤな目にあっちゃうんだ。だから早く――」
「ま、衛ちゃん……」
 いつになく真剣な面持ちで見つめられ、花穂の頬がぽっと赤くなる。
「衛ちゃんの気持ちはすごくうれしいけど、でも、まだ心の準備が――」
「違うってば! 花穂ちゃん、こんなときにふざけないでよ。早くしないと、あに……じゃなくて、ええっと、その……」
「今さら隠さなくてもいいよ。花穂も衛ちゃんのこと愛してるから」
「ちっがーう! そうじゃないんだってば!」
 肩を激しく前後に揺さぶられながら、花穂は「ワイルドな衛ちゃんもカッコいいかも」などと見当違いなことを考えていた。
「ああ、もうっ! だ、か、ら、早くキレイにしないとあにぃが来ちゃうんだって!」
「……ふぇ?」
 花穂はハッと我に返って、衛の言葉を頭の中で繰り返した。
「どうして? 花穂はお兄ちゃまが来てくれたほうがいいのに」
「いつもなら別にいいんだけど、今はとにかくダメなんだって」
「確かに、こんなところで衛ちゃんとお兄ちゃまと三人で、っていうのはちょっと恥ずかしいけど……」
「花穂ちゃん。お願いだからこんなときにふざけないでよ」
 その時、曲がり角の向こうから足音が近付いてくるのがわかった。瞬時に衛の顔が青ざめる。
「……あ、あにぃだ」
 虚ろに見開いた目をあちこちにさ迷わせる様は、初めてのブブブに挑戦して以来のことだ。あの時は「絶対にのぞいたりなんかしない」という約束で自分のを貸してあげた――正確には無理やり押し付けた――のだが、トイレへ行って戻ってきた際についうっかりノックを忘れてしまったのだ。
「うあぁ、どっ、どうしよう。このままだと絶対あのときみたいになっちゃうよ。な、何とかしなきゃ……」
「ねぇ、衛ちゃん。さっきも言ってたけど、あのとき、って何のこと?」
「そんなの後で説明するよ。今はとにかく、ええっと……そ、そうだ! そのままでいいから長靴履いて」
「ええっ? 泥だらけのままなのに?」
「いいから早く!」
 激しい剣幕に押され、花穂はつられるようにこくんと頷いた。その間にも衛が「早く早く」と急かす。
「それから、あにぃが来ても花穂ちゃんは何も言わないで。全部ボクに任せて。いい?」
「――ん? 二人とも、まだそんなところにいたんだ」
 突然姿を現した兄に、衛の身体がびくっと反応する。
「あ、お兄ちゃ――」
 手で花穂の口を塞いだ衛は、花穂を兄の視線から守るような位置で立ち直す。
「や、やあ、あにぃ。ボクに何か用?」
「用も何もないよ。さっき、あれほど言ったのにまだ長靴のままでいたの? ダメだよ、裸足のままでそんなの履いちゃ。ゴム長は通気性が最悪で、湿度も温度も高くなるから雑菌の温床になりやすいし、足の健康にとってこれほど悪いものはないんだ。本当はそんなもの履いて欲しくないし、代わりに雨の日に履くとしたら草履や草鞋の方が鼻緒の食い込みとか見れて嬉しいんだけど、さすがにそれは色々と無理があるからね。そこまでのワガママは言わないけど、でも、湿気のコントロールとか踵や踝の保護も兼ねて靴下ぐらいは最低限履かないと。じゃないと、長靴の場合は内側に保護するものがないから普通の靴に比べて摩擦係数が大きくなりがちで、結果として肌の硬質化を――」
「それはさっきも聞いたってば。……それより、ボクに用はないの? ないんだったらもう行っちゃうけど」
「あ、ああ、そうだね。早く長靴を脱がなきゃね」
 愛想良く答える兄だったが、ふと真顔に戻ってあらぬ方を向き、ぼそっと何事かを漏らす。はっきりとは聞こえなかったが、花穂の目には「気のせいか」と呟いたように見えた。
 対する花穂の方も「気のせいだよね」と思い込みたいことがあった。兄がずっと自分たちの足元ばかり見ているのだ。さっきのお説教までなら「素足に長靴履きを心配してくれている」と好意的に受け取ることもできたが、今回のそれは明らかに何かが違う。チアをやっている時の男子の視線にも似た、一種のいやらしさのようなものが感じられるのだ。あるいは獲物をつけ狙う肉食動物の目とでも言うべきか、とにかく、浴びていてあまり気持ちのいい類の視線ではない。
「いこ、花穂ちゃん」
 促す衛に目配せで応え、花穂はそろそろと移動を開始する。番犬を起こさないように。大声で吠え立てられないように。慎重に慎重に――
 だが、花穂が一歩踏み出した途端、どこからともなく、ぶふっ、という破裂音がした。
「――えっ?」
 三人の中で最も反応が早かったのは兄だった。すっと細められた目が花穂の足元に注がれる。その眼力にたじろいだ花穂がよろめくと、それに合わせてまた音が。泥と長靴の間に紛れ込んだ空気のせいと気付いたのは、一通りステップを踏んだ後だった。
「まさかと思うけど、花穂」
 兄が長靴を見つめたまま一歩近付いてくる。
「泥だらけの足で長靴履いてない?」
「そっ、そそそそそんなわけないって。第一、そんなことしたら後片付けが大変なことになっちゃうよ。ね、花穂ちゃん?」
 花穂は口を塞がれたままでぶんぶんと首を縦に振る。しかし、それで引き下がるほど彼は甘くない。
「口ではそう言うけど、下から音が聞こえたよね。泥を踏んだ時のとはまた違う音だし」
「もうっ、あにぃってば仕方ないなぁ。下のほうがそういう音がしたらアレしかないじゃないか」
「へっ?」
 兄が返事とも答えともつかない声を出すと、衛がもじもじと身をよじって恥ずかしがった。その恥じらいぶりがあまりに自然なので、もしかして本当にやらかしてしまったのかもと勘違いしてしまいそうになる。
「そ、そうだよっ! ……ボクだって一応は女の子なんだから、あにぃも少しは気を使ってよ」
「ごめんごめん。そういえばそうだったね」
「そうそう。そういえばそうなんだよ」
 顔を見合わせ、乾いた笑いを発する二人。周囲はしばし和やかな空気に包まれる。が、「でも、音がしたのは花穂の方からなんだけど」という兄の指摘に衛の顔が瞬時に引き攣った。それを見て逆にニヤッと笑う兄。
「それともあれかなー。花穂の動きにシンクロするぐらいにまもっぺは仲がいいのかなー」
「きっ、気のせいだよあにぃ。こんなにぴったりくっついてるからちょっと紛らわしいだけでさ」
「うん、確かに紛らわしいよね。二人の関係を疑っちゃうぐらいに。……花穂は、衛さえいればお兄ちゃまなんて必要ないって噂。最初は嘘だと思ったんだけど、やっぱり本当だったんだね」
 今度は花穂が顔を引き攣らせる番だった。救いを求めるように衛を見上げると、罠だと言いたげに小さくかぶりを振る。
「僕は悲しいよ。十二人もの妹を持った僕は世界一幸せなお兄ちゃまだと思ってきたのに、当の花穂がそんな風に思ってたなんてね」
 もう一度「僕は悲しいよ」と呟いた兄は、深いため息をついてさらに言葉を続ける。
「それにね、足を泥まみれにしておくと傷からバイ菌が入って病気になるかもしれないんだ。破傷風っていうとても恐ろしい病気で、最悪の場合、足を……」
 頭を抱え、がっくりとその場へ崩れ落ちる兄の姿に、花穂と衛は揃って喉を上下させた。
「ああ、神さま……僕の口からこれ以上はとても……」
「それで、花穂ちゃんはどうなるの……?」
 兄は呻き声をあげつつ、独り言のようにこう言った。
「こんなことなら、チア姿の花穂をもっとじっくり見ておくんだったよ。まさか、花穂のむっちりあんよが腐ってしまうなんて」
「ええっ!」
 花穂は衛の腕を跳ね除けながら叫んだ。
「そ、そんなぁ! 花穂の足、ダメになっちゃうの!?」
「ああ、花穂が本当のことを打ち明けてくれていればこんなことには……」
「ごめんなさい、お兄ちゃま。花穂、ウソついてたの。本当はね、花穂の足に――」
「か、花穂ちゃん! ダメだってば!」
 兄の元へ駆け寄ろうとする花穂の前に衛が立ちはだかる。
「衛ちゃん、花穂のジャマしないで!」
「花穂ちゃん、ちょっと落ち着いてよく考えてみてよ。小さい時に一緒に泥遊びしたけど、全然大丈夫だったでしょ?」
「でも、さっきは衛ちゃんも一緒にビックリしたよね?」
 衛は「うっ」と言葉を詰まらせる。
「いや、その、だって、もしかしたら、っていう可能性もないわけじゃないと思うから」
「じゃあ、花穂の足はどうなっちゃうの? 花穂は衛ちゃんの言うとおりにしただけなのに」
「ええっ、何それ? 元はと言えば花穂ちゃんが変なこと思いついたからだよ」
 いつもの仲睦まじさはどこへやら、二人の間で際限なく言い争いが始まる。転んだ時のフォローに始まり、お風呂で水泳、ベッドで柔道、果てはブブブの話まで。
 女の子の会話に割り込めず、すっかり忘れ去られていた兄が、わざとらしい咳払いで二人の視線を集める。
「あー、大変だー。そんなことしている間にもバイ菌がだんだんと花穂の身体の中にー、今ならまだ間に合うかもしれないのにー」
「ホントに?」
 花穂が衛を押し退けて兄に駆け寄る。
「ああ、本当だよ。花穂の泥だらけの足を僕の手で綺麗に拭いて、それから傷に直接口をつけてバイ菌を全部吸い出せばきっと」
「でも、そんなことしたらお兄ちゃまが病気になっちゃう」
「そんなこと気にしなくていいんだよ、花穂。お兄ちゃまは花穂の足が大好きだから、もしそれで病気になったとしても十分幸せなんだ」
「お、お兄ちゃま……」
 花穂はお兄ちゃまに見捨てられてなんかない。そう思うだけで、花穂の小さな胸がはちきれそうなぐらいに膨らんだ。それに比べて――と衛の方を見ると、こちらは胸の代わりに頬が膨らんでいた。やっぱりさっきのでちょっと怒らせちゃったかも。だけど、衛ちゃんのことだから後でちゃんとあやまれば平気だよね。いつも必ず許してくれるし。
「さあ、花穂。お兄ちゃまに足を出してごらん」
 と、兄はしゃがんだままで花穂の足を取ろうとする。花穂はとっさに膝上十センチのスカートの裾を押さえた。
「お兄ちゃま、花穂は立ったままなの?」
「恥ずかしがることなんてないよ。今は泥だらけの足の方が大事だからね。ほら、邪魔の入らないうちに早く」
「う、うん」
「花穂ちゃん!」
 悲痛な叫び声も花穂の耳には届かず、兄の言葉のままに足を差し出そうとする。
 だが、兄の杞憂は現実のものとなった。





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