〜 花穂の場合(3) 〜
「――ああ、兄上様。こんなところに」
息せき切りながら駆け寄ってきたのは鞠絵だった。駆けてきたといっても早足に毛の生えたようなものだが、逆を返せば、鞠絵の用件がそれだけ切羽詰っているということなのだろう。しかし、にも関わらず兄は未だ花穂の足に気を取られっぱなしで、鞠絵の方には振り向きもしない。
「申し訳ありません、兄上様。少々お願いしたいことがありまして……」
「見てわかると思うけど、今ちょっと手が離せないんだ。後にしてくれないかな」
と、兄は全く取り付く島も無い。あまりに対応が冷ややかなので、見ているこっちの方が不安に感じてしまう。鞠絵の恨みが後で自分に向けられるのではなかろうか、と。
「ね、ねぇ、お兄ちゃま。花穂は後でいいから、先に鞠絵ちゃんのお願いを聞いてあげて?」
しかし、兄はゆっくりとかぶりを振った。
「花穂はいい子だね。だけど、これは花穂が気にすることじゃないんだ。今はどう見ても花穂の方が先だからね」
「でも、鞠絵ちゃんも急いでいるみたいだから」
「も、申し訳ありません」
言ってから苦しそうに咳き込むので、少しは話を聞こうという気になったらしい。素っ気なさも相変わらず、「何?」とだけ背後に問い掛けた。
「はい。実は、ミカエルが逃げ出してしまいまして――」
「保健所」
「……はぁ?」
「だから保健所。もう電話した? 首輪に鑑札付けてるから滅多なことは起きないと思うけど、万が一ということもあるから早めに引き取りに行ったほうがいいんじゃないかな」
「は、はぁ……」
気の抜けた声とは裏腹に鞠絵の目は一切笑っていない。中指で眼鏡のフレームを押し上げ、花穂をちらりと見てわずかに唇の端を歪めた。
「最悪、わたくしはそれでも構いませんが、そうなりますと亞里亞ちゃんが可哀想で」
「そんなことないさ。ウサギが好きなくせにフランスじゃウサギ料理も食べてたっていうぐらいだから、それぐらい平気だって」
「そういう意味ではなくて、あの子ったら亞里亞ちゃんの運動靴をくわえたまま――」
「それを早く言うんだ」
いきなり兄が立ち上がったので、片足を差し出していた花穂は大きくバランスを崩す。ばたばたと振り回した手が衛の胸に触れ、ここぞとばかりに掴んで支えに――できなかった。花穂は衛を巻き添えにしながら、それでも泥まみれにならないよう、場所を選んでうまく倒れた。例によって花穂が衛を押し倒した格好だ。
「いったーい」
「花穂ちゃん、それボクの台詞」
そんな二人の姿などもはや眼中になく、兄はあらぬ方を向いて宣言する。
「急いで探してくるよ。他の誰かに何かされないうちにね」
優れた猟犬が目先のエサより遥か彼方の獲物を優先させるように、彼の頭の中は失われた秘宝でいっぱいだった。
「あ、あにぃ。ボクも手伝うよ」
「あっ、衛ちゃんずるい。花穂もお兄ちゃまのお手伝いするもん」
しかし兄は、厳しい顔を作ってかぶりを振る。
「気持ちは嬉しいけど、これはとても大切なことなんだ。亞里亞の運動靴という激レアアイテムを独り占めするなんて羨ま……じゃなくて、許せないからね。何としてもこの手で確保しないと、ミカエルはきっと今ごろ……」
最後は独り言のようになり、兄は上の空のままで、しかし、しっかりとした足取りでせかせかと足早に立ち去った。
姿の消えた曲がり角を何となく見つめていた姉妹だが、やがて鞠絵がぽつりと漏らす。
「本当にもう、困った兄上様ですこと」
その言葉を合図としたようにすぐ近くの茂みがざわめき、中からミカエルが躍り出てきた。
「あ、ミカエル!」
ミカエルは花穂に一瞥をくれると、鞠絵の前にぺたんと座り込んで期待の眼差しを己の主人に向ける。
「あれっ? ミカエル、亞里亞ちゃんの運動靴は……あっ、そんなことよりミカエルのこと、お兄ちゃまに教えて――」
「ダメだよ、花穂ちゃん」
「えっ? 何で?」
花穂は手近にあったもの――衛の胸倉――を掴んで前後に揺さぶる。
「教えてあげたらお兄ちゃまはきっと喜んでくれると思うのに、どうして?」
「どうして、って……わからないかなぁ?」
「何が?」
衛はため息をつき、救いを求めるように鞠絵の顔を見る。それで、ようやく花穂の頭の中で点と線が結び付く。
「もしかして、ミカエルが逃げたのって鞠絵ちゃんがわざと?」
「この子は逃げてなんていませんよ。最初から」
首を軽く左右に振りながら鞠絵もため息をつく。それがまた先輩の仕草に似ていて、花穂は反射的に身を竦めた。
「先ほどから見ていましたが、これではいつも通りのMな花穂ちゃんです。兄上様の口車に乗せられるのではなく、もっと自分が積極的にリードしなくては」
「そ、そうかなぁ? でも、花穂はちゃんと、いつもの花穂と全然違うことをやったんだよ?」
「いつもと違う、という点では認めますけど、その方法が問題です。あの人はただのMではありませんから、それに対抗しようと思えばこちらも普通のSでは駄目なのです」
花穂は思わず首を傾げた。普通のSじゃダメってことは、スーパーとかスペシャルって意味なのかな。あれって確か最初の文字がSだったような気がするし……あっ、そういえば、咲耶ちゃんも最初の字がSだったっけ。ということは、もっと咲耶ちゃんっぽくって意味なのかな。
「……えっと、ツインテールになったサザエさん?」
「違います」
「じゃあ、横ロールなサザエさん」
「それも違います」
「大きなリボンをつけたサザエさんも違う……よね?」
鞠絵は返事をする代わりに大きくため息をついた。
「……だ、だって、鞠絵ちゃんが普通なSじゃダメって言うから」
「花穂ちゃんにはまだ早過ぎたのかもしれませんね。この手の話は」
「あのぅ、鞠絵ちゃん。ボクもちょっと聞いてもいい?」
と、おもむろに手を上げたのは衛だった。
「ボクさ、クラスの女の子たちから『衛ちゃんってMっぽいよね』って言われたことあるんだけど、Mってどういう意味?」
「それって、アルファベットで書いたときのMじゃないの?」
「ボクもそう思ってたんだけど、今の花穂ちゃんたちの話聞いてたら何か違うような気がしてさ」
二人は顔を見合わせ、鞠絵の方に向き直った。好奇心に輝く二対の視線を受け、たじろいだようにじりっと下がる鞠絵。
「そう面と向かって問われると、どう答えればいいものか迷ってしまいますね……」
視線を逸らしながら答える顔は、わずかに赤みを帯びていた。
「そんなこと言わないでちゃんと教えてよ。ボク、子供扱いされてるみたいで何だかイヤなんだ」
「そうだよ。衛ちゃんはまだまだ子供だけど、子供じゃない部分もあるんだよ?」
「……花穂ちゃん、それってどういう意味?」
ぎょっとして上半身を起こそうとする衛だが、花穂に要所要所を極められて身じろぎもままならない。花穂の意外な特技の一つなのだ。春歌曰く、柔道に寝技しかなければ十分に黒帯レベルだとか何とか。
じたばたを繰り返す妹たちを見下ろしながら、鞠絵は今日何度目かになるため息をついた。
「ごくごく簡単に言うなれば、わたくしとミカエルのような関係ですね」
花穂は鞠絵とミカエルの顔を交互にながめた。
「わたくしがSで、ミカエルがMです」
「鞠絵ちゃんとミカエルって、どっちもMだと思うけど」
「ねぇ、花穂ちゃん。そろそろアルファベットから離れようよ」
すっかり疲れ切った表情で衛がぼそっと呟く。鞠絵はともかく、まさか衛からツッコミが入るとは思わなかったので、花穂は不満も露わに頬を膨らませた。
「じゃあ、そういう衛ちゃんは意味がわかったの?」
「うーん、まあ、何となくね」
衛は顎へ手を当てるついでにぽりぽりと頬を掻いた。
「そういう意味だとしたら、ボクがMって呼ばれちゃうのも仕方ないかなーって」
「ふぅん……」
花穂は突然の閃きの導くままに衛の身体をまさぐり始める。
「ちょ、ちょっと、花穂ちゃ……あ、やぁ、そこはらめぇ……じゃなくて、一体どこ触ってるの!」
「……あ。やっぱり付いてないよね」
「当たり前でしょ! 見た目はこんなだけどボクは女の子なんだよ」
「あっ、衛ちゃんってばやらしいこと考えたんでしょ? だって、花穂が探してたのは尻尾だよ?」
「し、尻尾?! 何で?」
「だって、ミカエルがMで衛ちゃんもそれで仕方ないってことは、Mは犬っぽいって意味だよね。衛ちゃんもミカエルも走るの大好きだから」
「でも、だからってそんなの探さなくてもいいでしょ? ボクは人間だし、犬そのものと犬っぽい人じゃ全然意味が違うってば」
「花穂には隠さなくてもいいんだよ? ほら、こんなところにちゃーんと尻尾を抜いた跡が――」
「ぎゃあ! そこ違う穴だってば!」
すっかり忘れ去られていた鞠絵が、わざとらしい咳払いで二人の視線を集める。
「お二人とも、続きはベッドの中で」
「中じゃなくても花穂は平気だよ?」
「……中でも外でもボクはイヤだからね」
宣言するだけ宣言してから、衛はうんざりとした表情でぐったりと横たわった。
「誤解しているような気もしますけど、Mについては何となくわかりましたね?」
「衛ちゃんみたいに『イヤよイヤよもスケベのうち』になっちゃう人のことだよね?」
鞠絵は眉間にできた皺もそのままに、ゆっくりと頷いた。
「……まあ、そういうことにしておきましょうか」
「鞠絵ちゃんまでそんなこと言わないでよ」
「とにかく、わたくしが手伝えるのはここまでです。あとは花穂ちゃんが自分の力で頑張ってください」
「ええっ、そんなあ」
衛から降りて今度は鞠絵に縋りつく花穂だが、先ほどの兄と同様に実に素っ気ない。
「ミカエルの件も含め、もう十分に手助けしたはずです」
「じゃあ、ヒントだけでもいいから……ダメ?」
「それもそれなりに差し上げたと思いますが……」
苦し紛れに繰り出した『まも殺し』が効いたのか、鞠絵は思案げに一度首を傾げると、腰を落として花穂の目線に合わせた。
「先ほど、花穂ちゃんが兄上様に足を差し出そうとした時のこと。覚えていますよね」
「うん」
「それがヒントです。衛ちゃんがどうしてあんなにも止めようとしたのか。わたくしがどうしてミカエルで邪魔をする必要があったのか。加えて兄上様の言動も。おかしなところがいくつもあったはずです」
「うーん」
「それでもわからなければ、後は――」
鞠絵は意味ありげに言葉を切って、おもむろに衛の方へ視線を移した。刹那、ビクッと身を震わせる衛だが、すぐ深刻そうな顔になって首を力強く縦に振った。
「それからもう一つ。兄上様のおっしゃった破傷風についてですが」
その言葉で自分の足を思い出した花穂は、白くひび割れたつま先を見て飛び上がって驚いた。
「ああっ! 花穂の足、もうダメになっちゃってる! ど、どうしよう……これから先、衛ちゃんにずっとおんぶに抱っこされるなんて、花穂、まだ心の準備が」
「花穂ちゃん、落ち着いて。それ、泥の表面が乾いてるだけだから」
「でも、バイキンが入ってきて足が腐っちゃうってお兄ちゃまが」
「それ、兄上様の嘘ですから」
さらっと告げた鞠絵に向かって、「ふぇ?」と飛び切り間抜けた顔を向ける花穂。
「ウソって……お兄ちゃまが、花穂に?」
「ええ。だって、よく考えてみてください。泥遊びでしたら、花穂ちゃんも衛ちゃんも小さい頃に経験があるでしょう?」
「……そういえば」
「……そうだよね」
花穂と衛はどちらからともなく顔を見合わせる。
「白雪ちゃんは兄上様に泥団子を食べさせたそうですし。ですから、もしも、兄上様の破傷風の話が本当だとしたら――」
鞠絵はそこで言葉を切り、後はわかりますね、と言いたげに二人の顔を見やった。
「もっとも、病気そのものは実際に存在します。ただ、足が腐るというようなことはありませんし、小学校へ上がった時点で予防接種を受けていますから特に心配しなくても」
「そ、そうなんだぁ……」
安堵のあまりにふっと気が抜け、花穂は衛の胸へばったりと倒れ込んだ。耳元でため息を感じたが、もちろん聞こえないふりをする。
「そうなんです。ちゃんとわかってもらえたところで、わたくしはこの辺で」
軽く頭を下げた鞠絵は、もはや花穂のことなど忘れ去ったかのようにすたすたと歩み去る。流れるようなその歩みはミカエルも一瞬出遅れたほどだ。一目散に飛んでいったと思うと、鞠絵の顔を見上げながら足元をくるくると纏わりつく。ミカエルのそんな姿を見て、花穂は何かに似ていると感じた。太陽の周りを回っている地球のような……ううん、お兄ちゃまが花穂たちのまんなかにいるから、地球とお月さまの関係かな。
「花穂ちゃん、そろそろどいてくれない?」
未だ馬乗りの下敷きになったままの衛が遠慮がちに花穂の膝を叩く。
「背中に石が当たってて痛くってさ」
「いいけど、花穂にちゃんと教えてくれたらね」
膝をきゅっと狭めると、衛の眉がひくっと歪む。
「お、教えるって……何を?」
「いろいろ。お兄ちゃまに足を見せたらダメな理由とか」
しかし衛は、無言でぷいっと顔を背けていつになく反抗的だ。押してダメなら引いてみろ、とはどこかで聞いた覚えのある言葉だが、相手が衛となれば話は違ってくる――要するに、押してダメならもっと押す。
「じゃあ、花穂がお兄ちゃまに直接聞いてもいいの? その後で、花穂がお兄ちゃまに何か変なことされてもいいの?」
軽く脅してみると効果はバッチリ。横顔を真っ赤に染めてうんうん唸り始めたところを見ると、衛の頭の中で激しい戦いが繰り広げられているらしい。
「衛ちゃん、どっち? 花穂とお兄ちゃまとどっちが大事なの?」
「どっちって、どっちも大事だよ」
「そんなこと言って、花穂だけ仲間はずれにするんだね。衛ちゃんは、花穂のことよりもお兄ちゃまとの秘密のほうが大事なんだもんね」
「違うよ。そんなのじゃないって。あにぃとは何の約束もしてないって言うか、その……あくまで、ボクたちの間だけの秘密なんだ」
「鞠絵ちゃんとか、千影ちゃんたちのことだね。最近、お兄ちゃまの前で何か変だったし」
衛は横を向いたままで花穂を見上げ、すぐに目を逸らす。それが何よりの答えだった。
「でも、仲間はずれなのは同じだよね。どうして今まで花穂に教えてくれなかったの?」
「そんなの、教えられるわけないよ!」
ややヒステリック気味に叫んだ衛は、どうしてわかってくれないの、と言いたげにぷうっと頬を膨らませた。が、すぐに後悔の色が顔を横切り、見る間に空気が抜けてゆく。
「だってさ……あのこと知ったら、花穂ちゃん、きっとガッカリすると思うから」
「ガッカリって、何に?」
「……あにぃに」
「お兄ちゃま? どうして?」
花穂はきょとんとした表情を小さく傾げた。知ったらお兄ちゃまにガッカリすることってどんなことなんだろう。咲耶ちゃんの見てる雑誌に書いてあった『早い』とか『小さい』とか『短い』っていうのと関係してるのかな。でも、そんなことだったら衛ちゃんが隠そうとしないと思うし。だいたい衛ちゃん、ああいう雑誌ってすごく苦手だから。
思案を始める花穂の顔を下から窺い見ながら「それでもいいの?」と衛が問い掛ける。
「今さらこんなこと言うのも何だけど、花穂ちゃんにはできれば知らないままでいてほしいんだ。さっきのボクとあにぃとのやり取り、見ててヘンだって思わなかった? ……ボクだってあにぃには逆らいたくないけど、あにぃにあんな癖があるって知ってしまったからどうしても花穂ちゃんを巻き込みたくなくて、それで」
「ま、衛ちゃん……」
衛の告白にすっかり感極まった花穂は、覆いかぶさるようにその首筋へすがりついた。
「うん、花穂は平気だよ。お兄ちゃまがSでもMでもLでも、花穂には衛ちゃんがいるから関係ないもん。だって、今の花穂には衛ちゃんしか見えないから。衛ちゃん、大好き」
とどめとばかりに耳元へ囁くと「そ、そうかなぁ」と、まんざらではない様子で衛が頭を掻いた。
「だから、花穂にちゃんと教えてね。お兄ちゃまの秘密」
「それはいいけど、でも、その前に――」
衛が花穂の身体の下でもぞもぞと身をよじり、花穂の膝を押し退けようとする。
「そろそろボクから降りてほしいんだけど」
「えっ? なんで?」
悪びれた様子もなく聞き返す花穂に、衛は人差し指である方向を指す。直後、自分たちに注がれている視線を首筋に感じた。この感じは誰だろう。ぼんやりしているようでしていなくて、それでいて熱心でいるようでいてやっぱりそうじゃないような……?
視線の正体が読み切れず、花穂はぎくしゃくとその方へ向き直った。二階の窓べり、カーテンの中へ隠れるように立ってこちらを見下ろしている青い人影。あれはもしかして――
「――亞里亞ちゃんが見てる」
揃って言葉を漏らした途端、亞里亞がくるっと身を翻す。
地響きと千影の悲鳴とが遠く聞こえてきたのは、それからきっかり五秒後の出来事だった。
Next → 『花穂の場合(4)』