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 〜 花穂の場合(5) 〜


 その手帳は表紙が白だった。記憶に間違いがなければ、いつもの探偵手帳の表紙は確か緑色をしていたはず。
「そんなわけないよね。きっと花穂の覚え違いだよね。うん」
 花穂は自分が勘違いをしていたことを祈りながら、おそるおそる手帳を開く。
 だが、今回に限って花穂の記憶は正確だった。
「そ、そんなぁ……」
 手帳は手帳でも実は電子手帳だったそれを傍らに投げ捨て、花穂はがっくりと肩を落とした。
 自分なりに考えて四葉を出し抜いてやっと手に入れたと思ったらやっぱりこんなオチ。自分のドジっぷりにすっかり打ちのめされた花穂は、それでも諦めきれずに再び手帳を手に取る。たとえ別物でも四葉の持ち物。探偵手帳ほどではないにしても、何らかの秘密が載っているかもしれない。
 手帳は両面とも液晶パネルになっていて、その間にタッチペンが収まっていた。片面にはスピーカー、もう片面にはボタンがいくつかついている。上下に開いた形で使うらしい。
 側面にはメモリーカードのスロットとスライド式の電源スイッチ。スイッチをオンにすると、淡く輝いたディスプレイが夕闇色の部屋をわずかに青く染めた。
 しばらくすると上半分のディスプレイいっぱいに四葉のクローバーが浮かび上がり、そのうちの一片がはらりと落ちる。蝶番を通り抜けて下側へ着地したそれには、アルファベットで書き込みがされていた。
 
『Checkipedia』
 
「……チェッキ、ペディア?」
 花穂がもう一度読み直す前に文字列は葉っぱごと消え、今度は日本語の長文が現れた。
 
『チェキペディアへようこそ!
 チェキペディアはクローズドコンテントのチェキ科事典です。四葉の疑問に答えられるなら、誰でも記事を編集したり新しく作ったりできるようになる日が来るかもしれません。詳しくは製作者のアタシに訊いてみてください。
 現在、チェキペディア日本語版には約 800 本の記事があります』
 
 続いて現れた『ここをチェキ!』の指示に従って画面隅のクローバーをタッチすると、画面が切り替わって五十音順にずらずらと項目が並ぶ。しかし、事典の割に一番先頭に来ていたのは『愛(あい)』でも『青(あお)』でもなく、なぜか『秋茄子(あきなす)』だった。
「なんだろう、これ。事典って書いてあったけど、ホントにそうなのかな?」
 半信半疑で『秋茄子』を選択すると、上のディスプレイがパッと解説画面に切り替わった。
 
秋茄子(あきなす)
 
 文字通り、秋の茄子(なす)。秋茄子は嫁に食わすな、という言い回しのために存在する単語。[R]
 
 *春歌ちゃんが白雪ちゃんとケンカしていたときに初めて聞いたデスけど、そのときはアクィナスって聞こえてビックリしたデス。[Y]
 *トマス=アクィナスを知ってたなんて、そっちのほうがビックリね。[R]
 *それはヒドいデス。イギリスが誇る立派な偉人ぐらいちゃんと覚えてマスよ。ネルソン提督の愛人がハーディーって名前の男の人とか
 *アクィナスはイギリスじゃなくてイタリア。ところで、どんなシチュエーションで春歌ちゃんが言ってたわけ? まあ、何となくは想像できるけど。[R]
 *えっとデスね、白雪ちゃんが秋茄子でお料理作ってるって知った春歌ちゃんが「秋茄子は嫁に食わすなという言葉もありますのに、ワタクシに食べさせても平気なのですか?」って。[Y]
 * (ノ∀`) アチャー おいしいから意地悪して分けてあげない、っていう意味なのに。[R]
 *えっ? 毒だから食べたらダメって意味じゃないのデスか?[Y]
 * ( ゚д゚ )[R]
 
 どうやらこれは、鈴凛が四葉のためだけにつくった用語集のようなものらしい。
「そっかー。そうだよね。四葉ちゃんの日本語ってぜんぜんおかしいもんね」
 程度の差こそあれ、外国からやってきた三人組の日本語は微妙に怪しい。
 年少の亞里亞はともかく、春歌も難しい言い回しを好むくせに勘違いが多く、そして、最もひどいのが四葉だ。一体誰に影響されたのやら、四葉も何かにつけてはことわざや慣用句を使いたがるが、こっちは言葉そのものを覚え間違えている。具体的には『花穂は寝て待つ(果報は寝て待つ)』とか『転ぶ花穂を見る衛(踊る阿呆に見る阿呆)』とか。意味は合ってなくもない(らしい)ので、もしかするとわざとかもしれない。
「だけど、鈴凛ちゃんも大変だよね。四葉ちゃんっていっつもあんな感じだから」
 もう一度ざっと眺めると、文中の春歌ちゃんと白雪ちゃんの部分が下線引きの色違いになっていて、インターネットのように別のページへ飛べるらしい。春歌と白雪、二人の間で迷った花穂は、しばらく考えてから春歌の文字をタッチした。あの二人が春歌のことをどう書いているのか、仲良しとは言えない関係だけに好奇心がそそられる。
 
春歌(はるか)
 
 ドイツ生まれのドイツ育ちで四葉たちより年上。これ以上はバトル・オブ・ブリテンからのインゲンでよくわかりマセン。[Y]
 
 *因縁の割にドーバー海峡は平気なんだ。[R]
 *フランスはナチといっしょに戦った仲間だってグランパが言ってマシタ。それに、フランスはイギリスの裏庭のようなものデス。Ariaちゃんはビッグスケールでしたケド。[Y]
 *漢字で書くと『亞里亞』だっけ? でも、フランスにもアタシたちの妹がいたなんてビックリ。まったく何がどうなってるんだか。[R]
 *グランパのタレコミでは12人でラストみたいデス。あ、もうひとつグランパからで、春歌ちゃんはカマトトナデシコな性格らしいデスよ。[Y]
 *それ、本人の前で絶対に言わないこと。アニキが全員で暮らせるようにって頑張ってる最中なのに、つまらない一言で台無しにしたくないでしょ?[R]
 *OKデス。四葉としてもWW3はエスケープしたいデスから。[Y]
 *……見た?[R]
 *……見たデス。[Y]
 *掃除や洗濯はともかく料理も得意って、白雪ちゃんとの競合が怖いわね……。[R]
 *身長や体重はともかく胸も大きいって、咲耶ちゃんとの競争が怖いデス……。[Y]
 
「ふぅん。なるほどなー」
 春歌についてよりも、鈴凛と四葉の関係のほうがより興味深い。あの仲の良さは裏できっと何かあると思っていたらなるほど、こうして一緒に暮らし始める前からの付き合いなら仲良しで当たり前だ。
 かくいう花穂自身も衛や可憐、咲耶、雛子との付き合いはかなり古い。一時期は同じ家に住んでいたはずなのだが、なぜか咲耶だけは「勘違いでしょ」としか言わない。衛も可憐も「そういえば」と首を縦に振ってくれたのに。
 索引はカ行に差し掛かって花穂の名前も見えたが、ここは敢えてスルーしてカーソルを先に進める。この調子だときっとロクな書かれ方をしていないはず。『花穂は寝て待つ』でもけっこう凹まされたのに。
「もっと他に何かないのかな?」
 『サルが着ぐるみで首が落ちる』はドジつながりで自分のことを言われてそうだし、『シチュー引き回し』は何だか面白そうだが今回の件とは多分関係ないだろう。
 そういった言い間違い系を除くと残りは学校の先生や同級生、周辺の地名といった身近な話題ばかりで、試しに引いてみてもごくごく普通の内容だった。物理の○○先生は生徒を当てるときに日付じゃなくて月齢を使ってるらしいとか、××町の電停前にスパムおにぎりを売ってる惣菜屋があるとか。トータルで見ればそこそこまともな事典のようだ。
 しかし、まともで俄然困り果ててしまったのは花穂だ。苦労して手に入れたと思ったらまるで役立たず。自分がもっとちゃんと泥棒できていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
 それでも諦めきれず、半ば惰性で索引のサイドバーをつつき続ける花穂。だが、マ行に達してすぐのところでその動きが止まる。
 『鞠絵(まりえ)』の一つ上の『衛(まもる)』の一つ上の項目。
 アルファベットでMと書いてある隣に、かっこ書きで『マゾ』とあったのだ。
「こ、これってまさかもしかして……」
 自分の部屋にも関わらず、花穂は思わず周囲を見回した。
「……いいのかなぁ?」
 鞠絵が教えてくれなかったということは、教えられないだけの価値があるということだ。先輩曰く「技とは、誰かに教えてもらうのではなく自分で盗み取るもの」。
「……い、いいよね。うん」
 花穂は自分を励ますように大きく頷いた。この手帳は四葉から盗み取ったもの。Mが技なのかどうかわからないが、とりあえずは先輩の言うとおりだ。
 もう一度こくんと頷いた花穂は、意を決してマゾの文字をクリックした。
 
M(マゾ)
 
 いじめられたりしても全然平気どころか、むしろ喜んじゃう人。要するに衛ちゃんのこと。[R]
 
 *チアやってるとき限定で花穂ちゃんも追加。[R]
 *人じゃないデスけどミカエルもプラスわん。[Y]
 *最近の千影ちゃんもなんかマゾっぽいかも。亞里亞ちゃんにいつも困らされてるのに、何だかんだで言うこと聞いてるしさ。[R]

 *そーいえば、最近の兄チャマも何だかマゾっぽい気がしマスね。兄チャマが廊下の雑巾がけ当番じゃないときに自分から四葉たちを手伝ってくれたりとか、スプーンをテーブルの下に落としたときにミカエルより早く拾ってくれたりとか。[Y]
 *全然違うよ。マゾなんかじゃないって。アニキは一番年上だから、みんなのお手本になろうとしてるだけだってば。[R]
 *そうデスか? 四葉が寝てる兄チャマを間違えてふんじゃったときも、ミカエルみたいな目で見るばっかりで、怒ったり叱ったり怒鳴ったりしなかったデスよ? [Y]


「お、お兄ちゃまが、まぞ……?」
 そのあとに繰り返し繰り返し続く「マゾじゃない」という鈴凛の反論書き込みも花穂の目にはもう入らない。
 いじめられてうれしい人がまぞ。だから、まぞなお兄ちゃまはいじめられるとうれしくなる人。……じゃあ、花穂のチアを見に来てくれたのはどうして? さっき、泥だらけの足を心配してくれたのは? もしかして、お兄ちゃまが花穂にやさしくしてくれたのは、花穂にいじめてほしかったから?
 すっかり打ちひしがれ、がっくり肩を落とす花穂の脳裏で、疑問符がぐるぐると駆け巡る。
 信じられない。信じられるはずがない。足フェチだけならまだしも、その正体はいじめられてよろこぶ変態さんだなんて。
 そういえば、と花穂は不意に思い出す。花穂が廊下のお掃除当番の時には必ず雑巾がけを手伝ってくれたけど、いつも花穂のうしろをついてきて、そのせいで何度も手を踏んじゃったし、落としたお箸やフォークを拾ってくれたときも、邪魔にならないように引っ込めた足が逆に当たってしまったり、花穂や四葉ちゃんだけじゃなくて、他の子が落としたときも全部お兄ちゃまが拾いにテーブルの下へもぐってたけど、これってやっぱり――
 他にもあんなことやこんなこと。『お兄ちゃまはまぞ』というカギで、今まで閉ざされていた疑問の扉がどんどん開いてゆく。
「……そっかぁ」
 一通り明らかになると、急に心の曇りが晴れてすっきりとする。
 おもむろに上げた花穂の顔は確かに笑っていた――目をすうっと細めて唇の端を吊り上げた、とびきりいびつな笑みだったが。
「お兄ちゃまってまぞなんだ。いじめられるとうれしいんだ。よろこんじゃうんだ」
 そうとわかればやるべきことはひとつだけ。
 今まで花穂をだましていたその仕返しと、お兄ちゃまに花穂のことをもっと好きになってもらうために。
 これから起こそうという企みとその時の彼の反応を想像し、日の沈んですっかり暗くなった部屋で花穂はひとりくすくすと笑った。





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