〜 可憐の場合(2) 〜
その昼下がり、玄関は異様な雰囲気に包まれていた。
「はい、おにいたま。ヒナのココちゃん、おにいたまにかしてあげるね。ヒナのたからものだから、ぜったいのぜったいに返してね」
つま先立ちになった雛子が、兄の胸ポケットに手縫いのマスコットを入れると、入れ替わりで春歌が前に進み出る。
「これは、ワタクシが夜なべして作り上げた千人針です。ああ、兄君さま……どうか、どうかご無事で……」
すっかり感極まって、袂で目頭を押さえる春歌。しかし、多少芝居掛かった仕草に対し、その後ろにずらっと並んだ姉妹たちからブーイングの声が上がる。
「次、ボクの番だよ。ほら、あにぃ。この重り入りリストバンドをつけておけば、外した時に早く走れるようになるよ」
「姫の方が先ですの。あああ、ほら、こんがり焼き上がったウナギの蒲焼が冷めちゃいます」
「亞里亞のショコラ……くすん」
「ふふふ……私はもう少し、このロザリオに念を送っておくよ……」
まるで移民船か何かの見送りを思わせる光景だが、もちろんそんなはずはない。
いつものようになすがままな兄の隣で、可憐はひとり、頬を膨らませていた。
「……もうっ、みんなは可憐を何だと思っているんですか?」
「まあまあ可憐ちゃん。みんな、兄上様のことをそれだけ大切に思っているのですから」
そっと可憐へ寄り添った鞠絵が、いつものように静かに微笑む。
「そんな兄上様をこれから独り占めできるのですから、もっと喜ばないとダメですよ。ね?」
「でも、これじゃ可憐が悪者みたいで」
鞠絵はふっと笑みを強めると、騒ぎの方へ目を向けた。
「まるで、ハネムーンのお見送りのようですね。……もっとも、本物は見たことありませんけど」
その横顔があまりに自信に満ち溢れているので、可憐も何となくそんな気がしてしまう。
「……鞠絵ちゃんは、不安じゃないんですか?」
「はい?」
「お兄ちゃんが、その、もしも……だったらって」
「ああ、そんなことですか」
「そんなことって――」
きゅっと眉毛を吊り上げる可憐を、鞠絵が再び「まあまあ」となだめる。
「逆に訊きますけど、可憐ちゃんは兄上様のことが信じられないのですか?」
「可憐だって、お兄ちゃんのことを疑いたくなんかありません。可憐のお兄ちゃんは、かっこよくってやさしくって、とっても素敵な人じゃなきゃいけないんです。それが、もしかしたらもしかするかもって思うと……」
「可憐ちゃんの不安は、わたくしにもわかります」
鞠絵が可憐の両手を取り、ぎゅっと握り締める。
「そうですよね。兄上様は格好良くてやさしくて、とても素敵な方です。そんな人が、妹の足元に自ら這いつくばって足を舐めたり、足蹴にされることを望んだりするなんて、絶対ウソに決まってますよね」
「可憐もそう思います。お兄ちゃんが花穂ちゃんの足を舐めたなんて、何かの間違いに決まってます。どうせ花穂ちゃんのことだから、ドジって転んだ拍子にお兄ちゃんの口に当たったとか、そんなの決まってます。でも……」
「でも?」
「でも、可憐が靴を買いに行きたいってお願いしたら、いつもと全然違って大はしゃぎで」
「まあ、兄上様ったら」
そう言ってくすくすと笑うので、可憐は思わず眉を顰めていた。
「鞠絵ちゃん、可憐は本当に悩んでるんです。ふざけないでください」
「あ、あら、ごめんなさい。だって、兄上様が名誉挽回のチャンスに奮い立っているのかと思うと、それが羨ましくって」
「……どういう意味ですか?」
「兄上様だって、自分が足フェチの変態さんだなんて思われたくないですもの。だから、足フェチ的に絶好のシチュエーションで普通に振舞ってみせて、それで身の潔白を証明するつもりなのですよ」
「はあ……」
確かに辻褄は合っているが、どことなく腑に落ちないのはどうしてだろうか。第一、彼には自分が抱いている疑いの内容を打ち明けていない。それなのに、どうして名誉挽回などを考え付くのだろう。やっぱり、足フェチ的チャンス到来を喜んでいるとしか……。
「あの、鞠絵ちゃん。可憐にはやっぱり――」
「やっぱり、兄上様ってすごいですよね。可憐ちゃんの考えていることをちゃんと読み取っているなんて。わたくし、可憐ちゃんが羨ましいです。そんなにも兄上様に想われているなんて。でも、可憐ちゃんに比べればわたくしなんてどうせ――」
「ま、鞠絵ちゃん」
可憐は騒ぎへ背を向けるように身体を入れ替え、俯いて肩を震わせる鞠絵を皆の視界から隠す。
「そんなことありません。お兄ちゃんは、誰かにだけえこひいきするような人じゃありませんから」
「……でも、本当は自分だけ特別扱いして欲しい……ですよね?」
顔の下からすくい上げられるように見つめられ、可憐はつい、こくんと首を振っていた。
「え、ええ、まあ……」
「でしたら、それでいいのではありませんか? だって、今日は可憐ちゃんの“お兄ちゃんの日”ですもの。今日の兄上様は可憐ちゃんだけのものです。ですから、可憐ちゃんも兄上様のことだけを考えていればいいんです」
少しずつ顔を上げて止めとばかりに満面の笑みを浮かべられると、可憐としてはもう返す言葉がない。
「そう……ですね。鞠絵ちゃんの言う通りだと、思います」
「可憐ちゃんは少し神経質になっていたのかもしれませんね。でも、きっと大丈夫ですよ。あの兄上様が、つま先をくんくんぺろぺろしたがるド変態なはずありませんもの。ですから……ね?」
「ええ、わかってます。今日は、鞠絵ちゃんの教えてくれた通りに、お兄ちゃんを――」
その時、きゃーっという悲鳴混じりの怒号が背後から聞こえてきた。何事かと振り向くと、ほとんど抱き付くような体勢で、千影が兄にロザリオを掛けている最中だった。
「ほら、兄上様のあの平然としたお顔。動じた様子なんてちっとも」
「……ええ。千影ちゃんの方がよっぽど動揺しているみたいです」
「今の兄上様には、可憐ちゃん以外の存在が頭にないのですよ。絶対に」
耳元の囁き声に、可憐は大きく一度頷いて応えた。
それにしても、鞠絵はいつからこんなにハッキリとした物言いをするようになったのだろう。心の奥底で訝しみつつも、今はその強気な物言いが何よりありがたかった。
「――もうっ、あんたってばホントに恥知らずよね」
可憐たちをよそに、騒ぎはより大きくなっていた。
まるで猫を相手にするように、咲耶が千影の奥襟を掴んで引き剥がす。
「何をどさくさに紛れてセクハラなんかしてるわけ? 亞里亞ちゃんの前で恥ずかしいと思わないの?」
「兄くんの無事を願うことが悪いとでも言うのかい? こんな非常事態に手を抜くなんて、それこそ恥知らずだね」
「何よ」
「何だと」
「まあまあ、お二人とも」
鞠絵がついっと前に進み出て、姉たちを静かにたしなめる。
「兄上様の前で口論するなんて、そちらの方が恥ずかしいのではありませんか?」
赤面しながら顔を背ける二人を尻目に見ながら、鞠絵が兄の手を取って可憐の方へ引っ張り寄せる。
「さあ、可憐ちゃん」
「ええ、鞠絵ちゃん」
これ以上足止めされてはかなわない。兄の手を力いっぱい握って外へ連れ出すと、耐えかねたように何人かがバラバラとついて来た。
「お兄ちゃま、ちゃんと帰って来てね。フレー、フレー、お兄ちゃまっ!」
「ヒナとの約束だよ。おにいたま、ぜったいに忘れないでね」
「リストバンドは捨ててもいいから、危なくなったらダッシュだよ、あにぃ」
「可憐はお兄ちゃんと駆け落ちなんかしません。誤解ですよ」
道路へ出てもまだついて来ようとする妹たちを、鞠絵がさりげなく阻む。通せんぼしながら言い含めている隙に路地へ入り、ようやく二人きりになれた。
「大変でしたね、お兄ちゃん」
さりげなく距離を詰めて肩に寄り掛かると、兄はわずかに首を傾げてみせた。
「そうかな? いつもよりは楽だったけど」
「あんなもみくちゃにされたのに、ですか?」
言いながら、可憐の脳裏にピンと閃くものがあった。さっきの見送りに欠けていた顔を思い出したのだ。
「お兄ちゃん、ちょっと先に行ってもらえますか?」
特に理由を尋ねることもなく、兄は「いいよ」と素っ気なく答えて歩き続ける。足元が浮ついていて、心ここにあらずといった風だ。
その後姿に少し寂しいものを感じながら、可憐はブラウスのボタンを確かめる。
「……やっぱり」
襟元に覚えのない飾りボタンがくっついていた。
ソーイングセットの糸切りバサミで切り離すと、誰も見ていないのを確認してから地面に落とし、踵で思い切り踏ん付けた。
「うん。これでよし、っと」
遠くから響く悲鳴を背に小走りで駆け寄り、追い付きざまに兄の腕へしがみついた。
「お待たせしました、お兄ちゃんっ」
「ねぇ、これって何の声?」
兄が怪訝そうな顔で背後を振り返る。
「さぁ? 空耳じゃないんですか?」
「でも、『耳がー、耳がー』って」
「じゃあ、沖縄の人が叫んでいるだけです。きっと」
「そう、かなぁ?」
「そうに決まってます。それよりも……お兄ちゃん?」
可憐は可憐な微笑みで疑念を覆い隠し、兄の顔を下から覗き込んだ。
「今日は、可憐のお買い物に付き合ってくださいってお願いしましたけど、靴だけでもホントにいいんですか? 退屈なら、もっと別の場所を入れても――」
「いやいやいや、そんなことはないよ。可憐の行きたい場所ならどこでもOKに決まっているじゃないか」
「やっぱり可憐、今日はお洋服を――」
「靴。絶対に靴。靴にしよう」
可憐の両手を取り、ぶんぶんと上下に振る兄。
「お兄ちゃんと可憐との約束だよ。今日は靴を買う日。いいね?」
「は、はぁ……」
「うん、実は前々から惜しいと思っていたんだ。可憐はいつもローファーばかりだし、このすらっと長い足なら膝下までのロングブーツも絶対に似合うはず……いや、絶対に似合う。間違いないね。これだけ綺麗にハイソックスを履きこなせるんだから、ブーツという選択肢を今の今まで選ばなかったことが信じられないぐらいだよ」
一気にまくし立てたと思うなり、兄はパッとその場にしゃがみ込んだ。
「きゃっ!」
反射的に膝上十センチのスカートを手で押さえる可憐。しかし、兄の見つめる先はもちろんそこではない。まるで電柱を前にしたミカエルのように、可憐の足元をぐるぐると回り始めた。
「うーん、材質は何がいいかな。お手頃なのは合皮だけど、吸湿性に問題があるからなぁ。かといって本物となると今度は手入れが難しいし、あ、スエードっていう選択肢もあるか」
裏通りとはいえ休日の昼下がり。何事かと足を止める人々がぽつぽつと現れ始める。
「お、お兄ちゃん、みんなが見てます」
「あとはデザインの問題か。普通のロングブーツだとふくらはぎが隠れちゃって、可憐ならではのプチむっちり感が生かせないし、でも、ショート丈にするとブーツの意味がないんだよね」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば」
「剥き出しのアキレス腱っていうのも捨てがたいけど、やっぱりブーツにはブーツならではの良さがあるから、それをどうやって可憐のヒラメ筋にフィットさせるかが当面の問題になると思うけど……」
そうこうしている間にも見物人はじわじわと増えていく。
「お願いです、お兄ちゃん。せめて、一度立ってから考えてくださいっ」
可憐の焦りは増す一方だった。こんなところを学校の誰かに見られたら――みんなにいつも自慢しているお兄ちゃんなのに。
そして、最悪のタイミングで最も出会いたくない人間が現れた。
「――可憐ちゃん。可憐ちゃんじゃないか」
男子の割に甲高く、気障ったらしい声。眉間に皺が寄りそうになるのを我慢しながら、可憐はかろうじて笑みを浮かべた。
「……綾小路くん。こんなところでどうしたんですか」
「どうしたのって、可憐ちゃんの姿を見つけたから……あれっ、この人は?」
「この人なんかじゃありません。可憐のお兄ちゃんです」
キッと睨みつけられ、綾小路が目に見えてたじろぐ。
「ご、ごめんよ、可憐ちゃん……」
謝りながら可憐と兄とを交互に見る綾小路だが、聞いていた話とは大違いの醜態ぶりに戸惑いを隠し切れない。それでも、可憐の無言の迫力に気圧されて、おずおずと口を開く。
「……こ、こんにちは、お兄さん。僕、可憐ちゃんの友だ……同級生の綾小路です」
しかし、兄は完全に自分の世界に入り込んでいて、綾小路の挨拶はおろか、周囲の奇異の視線にも全く気付く素振りをみせない。可憐が焦りを募らせる一方で、綾小路はいくらか余裕を取り戻しつつあった。
「可憐ちゃん、これってどういう状況――」
「これ呼ばわりだなんて、お兄ちゃんは物なんかじゃありませんっ!」
激しい剣幕の可憐に綾小路は、ひぃっ、と上体を仰け反らせる。みっともなく引き攣らせた顔を見ると、可憐の中で不快感が増してゆく。
それでなくても、綾小路にはあまりいい感情を持ち合わせていない。事あるごとに垣間見える女々しさが気に入らないのだ。
頭上で修羅場が繰り広げられているとは露知らず、妹の脚にすっかり夢中な兄。この泰然自若ぶりに比べれば、綾小路の態度はあまりに頼りなく映ってしまうのだ。平手打ちを喰らわせた“例の件”にしてもそう。勝手に嫉妬して人の心を傷つけるようなことを言っておきながら、物理的に仕返しされると急に泣きべそを掻き始めてしまい、まるで一貫性がない。仮にも男なら、いついかなる時にも自分を強くもつべき――要するに、綾小路の不運は比較対象がこの兄だったという一語に尽きていた。
「――ウェスタンブーツもいいかな。あー、でも、咲耶と被っちゃうか」
これで、もう少し鋭ければ言うことはないのだが。頭の黒いミカエルを見下ろしながら、可憐はどっとため息を吐いていた。
「そ、そういう意味じゃなくて、その、な、何をしてるのかなって」
まだいたの、とばかりに睨みつけると、もう一度ため息をつく。
「見てわからないんですか?」
「わからないから訊いてるんだけど……」
実のところ、可憐にもよくわかっていなかった。
「綾小路くんは何だと思いますか?」
「えっと、その……捻挫した足首を見てもらってるとか」
「…………」
可憐は無言でくるっと背を向けた。
「えっ? ちょっ、可憐ちゃん?」
「……可憐、ウソをつく人は嫌いです」
「そ、そんなぁ。僕、ホントにそう思ったから言ったんだけど」
「じゃあ、どうして『わからない』って言ったんですか」
「ええっ?」
足首の捻挫。なるほど、言われてみればそんな風に見えるかもしれない。嫌いな人間の発想を借りるのは気に食わないが、今はつべこべ言ってられないのだ。一刻も早く、お兄ちゃんを元に戻さないと。
「お兄ちゃん、可憐はもう平気ですから。さあ、早く行きましょう」
「ということは可憐ちゃん、捻挫してるんだね」
「それが何か?」
振り返りもせずに答える可憐の前へ、綾小路がぐるっと回り込んで来た。
「ほら、これ。ちょうど湿布持ってるんだ」
「……っ!」
可憐はどうにか、口から飛び出そうになる悪態を飲み込んだ。
「いりません。大体、どうしてそんな物を持ってるんですか」
「ただのおつかいだよ。大丈夫、一枚ぐらいなら平気だから」
「可憐は平気じゃありません」
しかし、綾小路は可憐の足元にしゃがみ込み、湿布の封を切る。これが他の誰かなら大いに感謝しているところだが、綾小路の場合、歓心を得ようという下心が丸見えだった。それに、元々捻挫などしていない。
「や、やめてください。人を呼びますよ」
「捻挫は放っておいたら大変なことになるんだよ。ほら、足首見せて」
綾小路が手を伸ばそうとしたその時、にゅっと現れた別の手が綾小路の手首を押さえる。その手の持ち主はもちろん――
「可憐の可憐なつま先が怯えているじゃないか」
「お兄ちゃんっ!」
今まで沈黙を保っていた兄が、目付きも鋭く綾小路を睨み据える。
「で、可憐の足に何か用でも?」
「何言ってるんですか。用も何も、足を捻挫してるんですよ。可憐ちゃんのお兄さんなのに、そんなこともわからないんですか」
「な、何だって! それは大変だ!」
マンガを思わせるオーバーアクションで驚く兄。この世の終わりのような表情で可憐を仰ぎ見る。
「それは本当なのか? 正直に言うんだ、言ってくれ、可憐。もし、もし本当だとしたら……ああっ! 僕はなんて愚かだったんだろう。外の美しさに囚われるあまりに、内面の異常を見落としていたなんて……ぼ、僕は、お兄ちゃん失格だ……!」
一人で勝手に盛り上がっては失意のどん底に落ち込むと、兄は悔しさも露わに地面へ拳を叩き付ける。とても演技とは思えない振る舞いに人垣はいよいよ本格的なものとなり、ちょっとした見世物状態だ。
「お、お兄ちゃん。可憐はもう、普通に歩けますから」
今さら違うとは言えず、可憐の口ぶりも自然と弱々しくなる。もはや、足フェチの疑いがどうこうというレベルではなくなっていた。
「いや、それはできないね」
兄の答えは予想通りだった。
「可憐は捻挫の恐ろしさを知らないから、そんな甘いことが言えるんだ。いいかい、可憐。女の子にとって捻挫というものは――」
そして兄は、熱っぽい口調で捻挫について語り始める。
捻挫とは関節や靭帯の損傷である、関節に比べると靭帯の回復の方が早く、完璧な治療を施さないと靭帯が変形したままになってしまう――など、その内容は意外にまともで、野次馬の中にはメモを取る者まで現れる始末。綾小路が兄を見つめる目も、不審人物に対するそれから大きく変化しつつあった。
「――だから、可憐。たかが捻挫と侮っちゃダメだ。みんなの中で一番可愛いんだから、それを台無しにするわけにはいかないんだ」
「か、可愛いって……?」
「うん。足首が」
「……やっぱり」
がっくりと肩を落とす可憐を、兄は不思議そうな顔で見返してくる。とにかく、早くこの状況から抜け出さないことにはずっと兄のターンだ。可憐は兄の手を取ってぐっと引き寄せる。
「と、とにかく、ここでは何ですから、もっと静かな場所で――」
「お兄さん、いや、兄貴と呼ばせてください!」
と、横合いからそれを奪い取ったのは綾小路だった。
「さっきの話、とても感動しました! ローマの道も一歩から、女の子の美しさはつま先から……可憐ちゃんが可憐ちゃんたり得るのも、全ては兄貴が影ながら努力しているおかげなんですね」
「うん、実はそうなんだ。おかげでなかなか理解してもらえなくてね」
「だから、僕にもお手伝いさせてください。ほら、実は湿布があるんです。ぜひ使ってください」
「ありがとう、親切な人……ところで、きみは誰だい?」
「僕、綾小路です。可憐ちゃんの同級生で、いつも可憐ちゃんには……」
「なるほど、そうだったのか。で、可憐はいつもどんな歩き方をして……」
一転、和気藹々と言葉を交わしながら可憐の足元にしゃがみ込む男二人。ミイラ取りがミイラに、いや、それよりもずっとずっと悪い。
「も……」
「も……?」
わななく可憐に男たちが顔を上げたその時、不意に『神風』が吹いた。プリーツスカートが下からの風に煽られ、ふわっと翻る。綾小路の口が、しろ、と動くのが見えた。
「もう、いやっ!」
可憐は踵を返し、脱兎のごとく駆け出した。
「お兄ちゃんの、お兄ちゃんのバカ……」
泣きながらひた走る可憐。背後から二人の声が追い掛けてくるが、頭の中には入ってこない。
こんなのは可憐のお兄ちゃんじゃない。
でも、お兄ちゃんだったら、少しぐらい変態さんでも我慢できる。『誰でも』じゃなくて、可憐だけ特別扱いしてくれるなら、可憐だけのお兄ちゃんでいてくれるなら、つま先でも何でも許せる。
頭の中で思い描くお兄ちゃんと食い違いがあっても、実際に存在するお兄ちゃんとは比べ物にならないし、少しずつ変わっていくことも、変えることもできる。
そして、それでもダメだったらいっそのこと……。
はたと気が付くと、可憐は全く見覚えのない路地に入り込んでいた。兄はもちろん、綾小路の姿もない。どうやら完全に振り切ってしまったらしい。
「ど、どうしよう……」
こちらから探しに動いてもいいが、綾小路と一緒にいる可能性もある。兄にだけ連絡を取ろうと思っても、色々と訳あって携帯電話の類は持っていない。こんなことなら隠しマイクをつけたままにしておけばと後悔するが、今となっては後の祭り。
――お兄ちゃんだけが、可憐のところへ来てもらうには。
少し考えた後、可憐は片方だけ脱いだ靴を道の真ん中に置き、自分は物陰に隠れた。
賭けというより、ほとんどやけっぱちだった。これで来なければ今日は諦めて帰るしかないし、万が一にもおびき寄せられるようなら、その時は実力で自分の本音を伝える。
「どうか、お兄ちゃんが来ませんように……」
しかし、その五分後。鼻をふんふんと鳴らしながら、兄は現れてしまった。
可憐は、大事そうに靴を抱えるその背後へ音もなく静かに近づく。そして、唇の端を奇妙な形に歪めながら、兄の肩にそっと手を置いた。
「……お兄ちゃん?」
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