〜 咲耶の場合(1) 〜
それは実に奇妙な光景だった。
年頃の少女らしい落ち着きと鮮やかさが両立した部屋。二人掛けのソファーの真ん中にふんぞり返る少女と、その前で額を床にこすりつけながら平伏している青年。
青年は懐から何かを取り出すと、恭しい手つきで捧げ持った。
「これは、こたびのお礼の品で」
山吹色のお菓子――ではなく、山吹色の靴下をフローリングの床に置くと、少女へ向けてつっと押し出した。
「まったくもってつまらない物ですが……」
少女は、やれやれと言いたげにかぶりを振ると、気を取り直したように口を開く。
「お主もなかなかの悪よの」
「いえいえ、お代官さまほどでは」
しばらくの沈黙の後、少女がはぁっとため息をついた。
「……ねぇ、ホントに私に感謝してるの?」
少女は、伸ばした素足の指で器用に靴下を拾い、そのまま自分の手元へ持ち運ぶ。
「いくらお芝居のためとはいえ、こんなに靴下ばっかり買うことないじゃない」
「敵を欺くにはまず味方からだよ。咲耶」
「敵、ねぇ」
咲耶はもう片方もつま先で拾い上げ、まじまじとそれを見つめた。
「まあ、毎回色違いだから何とか我慢できるけど、可憐ちゃんで終わりなんだから、最後ぐらいは違うの欲しかったかも」
「ニーソックスの方がよかった?」
「……お兄様のバカ」
言い捨てるついでに靴下も投げ捨てると、兄が身を乗り出しながら空中でキャッチする。まるでミカエルのような兄の姿に、咲耶はふと不安を募らせる。
兄が秘密裏に咲耶の元を訪れたのは三ヶ月も前の話。
ついにその気になってくれたと喜んだのも束の間、兄はある『お願い』をしにやって来たと言うのだ。
「何度も訊くようだけど、本当に足フェチじゃないのよね?」
「もちろんだよ」
「本当に本当なの?」
「……ずいぶん疑り深いんだね」
「当たり前でしょ。いくら演技とはいえ、みんなのつま先を実際に舐めちゃうなんて。私、そこまでやるなんて聞かされてなかったんだから」
「でも、おかげで疑われなかったんだからいいじゃないか。僕と咲耶がグルだって」
「グルって言うか、私はただ目をつぶってただけ。勝手に共犯者にしないでよね」
「だけど、咲耶が黙っててくれなかったら、こんなにうまくはいかなかったよ。おかげで、みんなの隠された一面も明らかになったことだし」
そう、兄のお願いとは、妹たちに対して行う変態行為全般を黙って見逃すこと。
無論、最初は激しく反対した。正気さえ疑った。姉妹たちの普段と違う一面を知りたいがためとはいえ、足フェチの変態を演じるなんて意味がわからない。動揺を誘って本性を暴き出すのなら、もっとスマートなやり方があるはずだ。例えば、いつもの受け身キャラを捨てて積極的にリードしてくれるとか。
しかし、最終的には咲耶が折れた。あまりに紳士然しすぎているとみんな勘違いするだろうし、その結果として待ち受けているのは壮絶な修羅場。隙あらば既成事実を作ろうと目論んでいるのは、何も咲耶だけではないのだ。
それに、咲耶にもメリットがないわけではない。兄の変態キャラに幻滅する妹が現れれば、それだけライバルが減ることになる。自分にだけ打ち明けてくれた優越感も含めるとかなりおいしい話だ。加えて、一人終えるごとにもたらされる妹たちの意外な側面も。
「まあねえ。鞠絵ちゃんにあんな性格が潜んでたなんて思いもしなかったし」
「へぇ、咲耶でも知らなかったんだ?」
「うーん、知らないっていうか、気付かなかったっていうか……」
咲耶は頭を掻いてから腕組みした。
「お兄様の前で言うのも何だけど、女の子同士って結構お互いに粗探ししてるものよ。ちょっと気を抜いたらすぐに陰口叩かれるんだもの。ホント、油断も隙もあったものじゃないんだから。この前だって――」兄がうろんな目をしているのに気付き、慌てて言い添える。「まあ、私は大人だから笑って見逃してあげるけどね」
信じているのかいないのか、兄は「へぇー」と適当そうな相槌で応える。
「それはちょっと怖いな。もしかして、僕も陰で何か言われてたりするの?」
「そ、そんなことないわよ。お兄様は特別よ。と・く・べ・つ」
「ホントに? 演技だってネタばらししてないから、本気で嫌われたかもって思ってるんだけど」
「言っちゃえばいいのに。可憐ちゃんの時、相当ヤバかったんでしょ?」
「……ソ、ソンナコトナイデスヨ?」
「お兄様ー、日本語日本語ー」
「ウウン、ホントニダイジョウブダヨ? コワクナイ、ゼンゼンコワクナイカラ……」
急に片言になってぶるぶると震え出すあたり、先の日曜日はかなり怖い目に遭ったらしい。具体的に何があったのかは、どれだけ訊いても決して口を開こうとしないのでとりあえずは諦めた。
「あ、そうそう。わかってると思うけど、今の話は私とお兄様だけの秘密よ。私がこんなこと言ってたなんてバレたら色々ヤバいんだから。立場とか」
「……可憐もそうだったけど、僕って信用ないんだね」
と、肩を竦めてみせる兄。一方的な被害者のような物言いに少し腹が立った。
「当ったり前よ。あーんなことやそーんなことを、しかも、一人だけじゃなくてみんなにでしょ。そりゃあ、可憐ちゃんがキレて当然よ。っていうか、順番間違えたんじゃない? 最初に可憐ちゃんにしておけば、そんな怖い目に遭わなかったかもしれないのに」
咲耶はここぞとばかりに口撃を開始する。無用なトラブルを避けるためとはいえ、この兄の八方美人ぶりには何度となく腹立たしい思いをしているのだ。
――まったくもう。私の気持ち、知ってるくせに。
「いい? そもそもが欲張りすぎなの、お兄様は。変にいい子ぶりっ子しないで一人だけにすれば、その子だって納得づくで色々やらせてくれたんじゃない?」
「いや、だから、僕にそんな趣味はないって」
「ウソばっかり。ホントは好きなんでしょ? お兄様のド変態っ。鞠絵ちゃんに足の裏を舐めさせられたよーとか、花穂ちゃんの泥まみれのあんよがかわいいよーとか、そんなことまでいちいち報告しなくてよかったの。私がどんな顔して聞いてたと思ってるわけ?」
激しい剣幕にもはや答える隙を見出せない兄。うなだれつつ静かに聞いている。
「それだけならまだいいとして、千影とはもうちょっとで未遂だったじゃないの。いくら千影の勘違いのせいって言っても、お兄様が変なこと考えなきゃそんなことにはならなかったんだし、ああっ、もう、ムカつくわ。よりにもよって、あんなえぐれまな板なんかに――」
不意に顔を上げた兄がふっと微笑み返し、咲耶は思わずたじろぐ。
「そうか。そんな風に思ってたんだね」
「べ、別に、私はただ、何かあったら一緒に暮らせなくなるから――」
兄は正座で痺れた足をさすりながら立ち上がり、咲耶の隣へ強引にお尻をねじ込ませる。半人分のスペースしかないのでほとんど密着状態。兄の肘の先が胸に当たっていて、身じろぎするたびにむずむずとくすぐったい。
どぎまぎしている咲耶の手を取ると、兄は少し寂しげに笑ってみせた。
「ごめんね、いつも咲耶にばかり迷惑掛けて。咲耶の頑張りのおかげで、みんなこうして仲良く過ごせているのに」
「お、お兄様……」
顔がどんどん赤くなるのがわかる。我慢と努力を認められた嬉しさよりも、今は恥ずかしさの方が勝った。面と向かって感謝されたことなんて、今までにあっただろうか。
「僕は咲耶に甘えていてばかりだ。情けないな……」
「自分をそんな風に言わないで、お兄様。私はお兄様と一緒にいられるだけでいいの」
「咲耶の方こそ、無理しなくていいんだよ」
兄はそう囁いて、咲耶の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「咲耶だって、僕の妹なのにね」
――わかってるならどうして。
そう言おうとしたが、声にならなかった。首の後ろから回された腕に誘われ、そのまま兄の肩に寄り掛かる。それでもう十分だった。いたずら半分で自分から抱き寄せることはあっても、その逆は一度もない――こうして、みんなで暮らすようになってからは。
「お姉ちゃんでいるのは疲れた?」
「……ううん、そんなことない」
「もしかして、拗ねてる?」
「……訊かなくてもわかってるくせに」
「ほら、やっぱり拗ねてる」
「……お兄様のバカ」
安堵のため息をつきながら、咲耶はごつごつと硬い身体に頬を擦り付ける。
ただ甘えればいいだけの『妹』に比べて、『姉』という役回りの何と辛いことか。小さな妹たちに頼られ、慕われる喜びはあっても、それは彼が姿を見せるまでの話。世界中の誰も、この人の代わりにはならないのだから。
「でも、咲耶は本当に我慢強いね。もっと甘えてくれてもよかったのに」
「んもう、私をこんな風にしたのは誰だと思ってるの? みんなの前で迫ってもすぐに逃げちゃうくせに」
「ああ、うん。そういう意味じゃなくてね……」
兄が急にもぞもぞとし始めるので、何事かと咲耶は顔を上げた。
「何て言うか、二人きりっていうシチュエーションは何度もあったわけだし、そういう時にもうちょっと、その」
「え? ……ええっ?」
それってもしかしてそういうことなのかしらと、色々な考えが瞬時に頭の中を駆け巡る。
「お、お兄様……それってまさか、あ、あんなこととか、そんなこととか……」
兄は無言で微笑み、咲耶の両肩を掴んでソファーにやさしく押し倒すと、身体の下に手を入れ、お姫さまだっこの要領で咲耶の頭を肘掛けに乗せる。何の躊躇いも見せない一連の動作に、咲耶は兄の本気を感じ取った。
「咲耶……」
耳元で心地よく響く声。つられて思わず頷きそうになるが、寸前で踏みとどまり、ふるふると首を振った。ぎょっと身を離す兄に、咲耶はどもりながら言い訳をする。
「ダ、ダメってわけじゃなくて、あの、その、せ、せめてシャワーとか」
「別に気にしなくていいよ」
「お兄様はよくても、私がダメなの」
「咲耶、今は僕に任せて……ね?」
そう言うなり兄の手が足首に掛かり、ゆっくりと足をこじ開けていく。あまりに大胆な兄に、咲耶は声を失っていた。
――い、いきなりそっちなの?
ムードも何もないが、でも、余計な邪魔が入る前に結ばれてしまえばそれはそれで――咲耶はそう都合よく解釈することにした。お兄様だって年頃の男の子。おいしそうなごちそうを前に、我慢なんてできるはずないんだから。
しかし、咲耶としてはもう少しだけ待って欲しかった。大枚はたいて買った黒の勝負下着。穿くなら今この時しかない。
「……で、でも、身体洗わなきゃ、汚いから」
最後の抵抗を試みるが、兄はゆっくりとかぶりを振って
「咲耶のだったら、むしろ大歓迎だよ」
「……っ!」
その途端、恥ずかしさのあまりに耳まで真っ赤に染まる。どんな顔をすればいいのかわからなくなり、咲耶は両手で自分の顔を覆った。
そうこうしている間にも、兄は着々と己の欲望を叶えようと身動きを続ける。
足首がお尻へ向けて押し込まれ、膝が直角に曲げられる。スカートの裾が太ももを滑り落ち、足の付け根まで晒される。
こくっ、と喉を鳴らす音が聞こえた。どちらが立てた音なのか、胸の高鳴りがうるさくてよくわからない。
――私、とうとうお兄様と。
覆った手の下で固く目を閉じ、咲耶はやがて来るであろうその時を待つ。胸の内で雛子たちに詫びながら。
Next → 『咲耶の場合(2)』