〜 春歌の場合 〜
曇り空に遠雷が轟く中、帰路を急ぐ春歌に通りすがる人たちが一様に目を向ける
その理由は春歌の格好にあった。高く結い上げた黒髪に桜色の江戸小紋。真っ赤な和傘を手挟み、草履を小気味良く擦って歩く姿は否が応にも人目を惹いた。
しかし、視線の大半は好奇の眼差しだ。無理もない、と春歌は思う。和装自体も珍しいのに、その中でも十代となるとほとんど絶滅危惧種だ。しかも、彼女らは基本的に車で行き来するので、外で顔を合わせることはまずない。春歌がそれとなく理由を問うと、悪びれた顔もせずにこう答えて返したのだ。
「だって、こんな動きにくいカッコで外歩くなんてちょっとした拷問じゃない」
古き良き日本は死にました、と公言して憚らなかった祖母だが、あの時ほどその心情を理解できたことはない。立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花。自ら日本美人の座を明け渡すなど何と愚かな!
祖母から日頃聞かされていたのは三十年前の日本だった。利便性ばかりを追い求め、伝統を顧みようとしない人々。林の如く立ち並ぶ画一的な高層建築。どこまでも延々と続くアスファルト。
そして来日した春歌が見たものは、まさに祖母の言葉通りの日本だった。
初めて顔を合わせた姉妹たちはことごとく洋装で、皆で住み暮らす家も(戦前からの建物とはいえ)洋館だという。部屋に畳を持ち込んだのも春歌ひとりなら、浴衣の着付けを覚えていたのも春歌だけ。ある程度は予想していたが、まさか、毎日のように障子の桟へ指を這わせる羽目になるとは。これでは妹ならぬ姑だ。
だが、ドイツに戻りたいとは思わなかったし、全員でドイツに移住すればなどとも考えなかった。
それにはもちろん、兄の存在が大きい。しかし、それと同じぐらいに春歌の心を捉えて離さなかったのは、日本という国そのものだった。何しろ、テレビや写真の中でしか見たことのない日本がほんの少し歩くだけで体験できるのだ。
例えば、今歩いている裏通りがそうだ。かつては街道筋として栄えたとかで、昔ながらの商家が軒を揃えて建ち並んでいる。そのほとんどは看板を下ろしているようだが、中には細々と商売を続けている家もある。俵が積まれていると思ったらそこは米屋の軒先だった。もう少し先を行けば造り酒屋と醤油屋がある。祖母が相好を崩しながら話してくれた思い出が今も残っていた。
しかし、春歌が何より嬉しかったのは徒歩で行ける範囲にお茶やお花の先生が住んでいることだった。
その点でドイツ時代は何かと苦労させられたのだ。車での往復に半日を費やすのはまだいい方で、着替え一式を担いでの小旅行はしばしば。免状を取る際にはホテルを取って数日間滞在したこともあった。その間、和装で外を出歩く機会はほとんど与えられず、帯の窮屈さと合わせ、春歌にとってあまりいい思い出ではない。
それに比べれば今は天国のようなもの。周囲の奇異の視線など大したことはない……のだが、こうも周囲から浮き上がってしまっては気が滅入らない方がおかしい。つい今しがたも、いわゆる今風の女子高生二人組に擦れ違いざまくすくすと笑われた。妄想ではない。明らかに自分を見て笑った。器量も技量も二人まとめて相手にできる自信はあるし、周囲もそれを認めてくれるはず。それなのに、なぜワタクシが嘲笑などされねばならないのでしょうか……!
呼び止めようと振り向きかけたが、その瞬間、ふっと兄の顔が脳裏に浮かびあがった。春歌はハッと息を飲み、うろたえつつ歩みを再開する。
深呼吸しながら、危ないところだった、と春歌は胸を撫で下ろす。大和撫子たるもの、如何な境遇にあっても慎ましくあらねばならない。それに、今ここで問題を起こせば誰を悲しませることになるのか――今さら自分に問うまでもない。
「ああ、ワタクシとしたことが何て恥ずかしい……」
気落ちする春歌の鼻を、ぽつん、と何かが叩いた。思わず天を仰いだその額にまたぽつりと。
地面に目を落とすと、今まさに路面が水玉模様で染め抜かれようとしているところだった。アスファルトの灰色に水滴の黒が滲む。それは見る間に路面を埋め尽くし、その頃にはいよいよ本格的な雨になっていた。
「まあ、大変。急ぎませんと」
慌てて傘を差し、足を急がせる春歌。しかし、足袋に草履履きのつま先は雨に対してあまりに無防備過ぎた。それから十五分を掛けて玄関の軒先へ逃げ込んだ頃には、水が滴るほどにすっかり濡れそぼっていた。
「こんなことでしたらワタクシも――」
一緒に送ってもらえば、と言い掛けて唇を噛む。せっかくの誘いを振り切って出てきたのは自分なのだ。情けなさと恥ずかしさで目頭が熱くなる。つまらない意地や見栄で祖母からの頂き物を台無しにしてしまったら、それこそ末代までの恥だ。
がっくりと肩を落としながら扉に手を掛ける春歌だが、何者かの気配を察知して瞬時に身構えた。曇りガラスの向こうに蹲った人影が見える。大きさから察するに姉妹の誰かではなさそう。ということは、もしや賊の侵入を許したのでは……?
しかし、扉へ押し当てた耳に入ってきたのはよく聞き馴染んだあの人の声だった。春歌は己の軽率さに、今度は頬を熱くしてひとり静かに身悶える。
ようやく息が整ったところで、春歌はすまし顔でそっと扉を押し開ける。
「ただいま帰りました、兄君さ――」
だが、目の前に広がる光景に思わず声を失った。
「こ、これは一体」
春歌が絶句したのも無理はない。
建物の規模と比例して、玄関もそれなりの広さを持っている。ざっと見ても学校の教室と遜色ない程度。
そんな石貼りの広間に、全員の履物がずらっと勢揃いしていたのだ。通学用の革靴からブーツ、サンダルに至るまで、年齢順に綺麗に並んで置かれている。その傍らには靴磨きセット。手入れの途中なのだろうか。
そして、大勢の靴たちの前で四つんばいになっている兄。その格好はミカエルが臭いを嗅いで回る時にそっくりで、春歌は思わず吹き出してしまいそうになった。
そんな兄の邪魔をしないよう、そっと佇む春歌。だが、当の兄はなかなか春歌に気付いてくれない。
「あの、兄君さま……?」
探し物をしているのだろうか。「おかしいなぁ」や「無いなぁ」といった呟きを繰り返しながら這い回り、しまいには頬を床に押し当て、そのまま引き摺るように動き始める。兄には最大級の敬愛と信頼を寄せている春歌だが、さすがにそろそろ心配になってきた。
しずしずと歩み寄って兄の視界に入るようにつま先を進めると、案の定、兄の動きがぴたりと止まった。
「兄君さま、何かお探し物でも?」
兄は這いつくばった姿勢のままで頭をもたげ、まぶしそうに春歌の顔を見上げた。そして、怪訝そうに眉を顰めながらこう言った。
「……鈴凛?」
「はぁ?」
「どうしたんだい、鈴凛。春歌みたいに和服なんか着て」
「いえ、あの、ワタクシは」
「言葉遣いまで真似して、結構本格的なコスプレだね」
「どうかおちついてくださいまし、兄君さま。ワタクシは春歌です」
「でも、今日って何か特別な日だっけ。可憐と鞠絵の入れ替わりは今年のエイプリルフールだったけど」
春歌は数歩下がってから扇子を取り出すと、一振りでパッと広げてそのまま踊ってみせた。
「鈴凛ちゃんにこんなことができますか?」
決めの格好のまま見下ろすと、ようやく兄の表情に変化が見えた。
「……もしかして、鈴凛じゃなくて本物の春歌?」
「本物も何も、春歌はワタクシひとりだけです」
「ああ、そうか。春歌なのか。鈴凛じゃないんだね」
さすがの春歌もこれにはムッとした。謝罪の一言もなければ、あまつさえ他の妹の名を連呼するなんて。
「兄君さま」春歌は顎をそびやかせて言い放つ。「先ほどからまるで呼び鈴を鳴らすようなおっしゃりようですが、そんなにご心配なら今度のお誕生日に首輪でも贈られてみてはいかがですか?」
兄は不規則に目をしばたたかせて言葉の意味を吟味している風だったが、おもむろに血相を変え、矢のような勢いで立ち上がった。
「そうだ! 鈴凛だよ!」
春歌の手を掴み、上下にぶんぶんと振る。
「り、鈴凛が大変なんだ!」
ただ事ではない兄の様子に春歌の顔色も変わる。
「鈴凛ちゃんがどうかなさったのですか」
「その、鈴凛が行方不明になってしまって」
「行方不明って、それは一体――」
「さっきから探してるのに全然見つからない……鞄の中も机の中も探したのに」
「落ち着いてください、兄君さま。鈴凛ちゃんがそのような場所にいるはずありませんわ」
逆に兄の手を取り、なだめるようにやさしく握る。
「それで、賊はどのような要求を?」
「いや、今のところは特に何も。……ああ、そうか。もしかすると、犯人はミカエルかもしれないな」
「ミカエルが鈴凛ちゃんを、ですか?」
あまりの突拍子のなさに、春歌は素っ頓狂な声を発した。
「それは、誘拐というより散歩と呼んだほうがよろしいのでは――」
「誘拐だって?」
今度は兄が驚く番だった。驚きながらも視線をあちこちに飛ばし、頭を忙しく回転させている。
「ああ、いや、でも、その言い方もあながち間違いじゃない気がするな。今頃はきっとミカエルの毒牙に掛かってしまってずたずたのぼろぼろになるまでしゃぶりつくされてるに違いないんだ。何て羨まし……じゃなくて、何て悪い子なんだろう」
「しかし、いくら賢いとはいっても所詮は犬です。あの鈴凛ちゃんがミカエルに遅れを取るとは思えませんわ。腕力だけでしたらワタクシよりもずっと上ですし」
「でも、ミカエルの牙は侮れないよ。あの皮は噛み応えがありそうだし、大喜びで相手しているかも」
春歌の心にふっと疑問が湧いたのはその時だった。足元に広がっている靴たちを眺めると、疑問は間もなく確信に変わった。どこか話がずれていると思ったら、そういうことだったのか。
「あの、兄君さま。今一度、鈴凛ちゃんについて確かめたいのですが」
握った兄の手をぐいっと下ろし、強引に落ち着かせる。
「行方不明というのは、まさか鈴凛ちゃんの履き物のことでは」
「あれ? ずっとそのつもりだったんだけど」
兄は平然と答え、春歌を心底がっくりさせた。
「兄君さま、しっかりなさってください。鈴凛ちゃんは朝から買い物に出掛けたままのはずです。履き物がなくて当たり前ですわ」
「ああ、そうか。そういえばそうだね。ごめんごめん」
と、兄は頭をぼりぼり掻きながらはにかみ笑いした。どうやら本当に気付かなかったらしい。春歌も一緒になって微笑むしかなかった。
「でも、靴がなかったのは鈴凛だけなんだよね」
急に真顔へ戻った兄が首を傾げた。
「それなのに、帰ってきたのは春歌だったし」
「驚かせて申し訳ありません、兄君さま。湿気のこともありますので、草履は必ず自分の部屋で保管を」
そうなんだ、と軽く相槌を打った兄は、何気なく足元に目をやって驚きの声をあげた。
「どうしたの、その足。ずぶ濡れじゃないか」
「えっ、はい、外は雨でしたので」
「どうしてそんな大事なことを先に言わないんだ。ほら、ここに座って」
靴を一足ずつ、ビデオの早送りのようにてきぱき動かして場所をつくったと思うと、急変ぶりに戸惑う春歌の手を引いて上がり框に座らせる。そして足音も忙しなく、キッチンの方へ走り去ってしまった。廊下を走る者には誰彼問わず注意している春歌だが、今回ばかりは黙って見送ることにした。
「本当にもう、兄君さまったら……」
手ぬぐいで裾の水気を拭き取りながら、春歌はひとり頬を緩める。普段はどちらかといえば茫洋としているだけに、先ほど見せた必死な表情には思わずときめいてしまった。兄君さまも日本男児ですもの。やる時にはきちんとやるお方ですわ。
それにしても、兄がこんなにもそそっかしい人だとは思いもよらなかった。ドイツにいた時に思い描いていた人物像とはかなりの開きがあるが、日本との距離を考えれば仕方ないのかもしれない。まさか、欠点までを正直に伝えるはずがないのだ。伝言ゲームの始まりと終わりでは全く別のメッセージになってしまうように。
だが、今の春歌にはそんなうっかり加減さえ好ましく感じる。多少その方向性が違うとはいえ、全ては自分たち姉妹を思いやっての振る舞い。さっきの鈴凛連呼には多少腹に据えかねるところがあるが、妹を全く顧みないよりは誰にでも優しい方がずっと、ずうっと――
「お待たせ、春歌」
戻って来た彼は両手に洗面器を抱えていた。かすかに湯気が立ち昇っているそれを春歌の足元に置くと、ごく自然な動作で春歌の足から草履を抜き取った。本当に何気ない、水が流れるような動きで、春歌が止める暇もなかった。
「あ、兄君さまっ。一体何を」
「何って、早く足を温めなきゃダメだよ。冷えたままだと風邪を引いてしまうからね」
言いながらも、今度は濡れた足袋に手を掛ける兄。踵に指が触れ、春歌の背筋を何かがぞくりと駆け上がる。春歌は袂で口元を隠すのが精一杯で、全く何の抵抗もできなかった。
素足にさせられるまで、本当にあっという間の出来事だった。
「――それぐらいの事、ワタクシが自分でやりましたのに」
つい恨めしげな声になってしまい、春歌はハッと顔を伏せる。そして、自分がなぜ顔を伏せたのかわからなくなり、そこからさらに顔を背けた。ワタクシが『それぐらいの事』をしてもらいたかったなどと、どうして認められようか。
「別に、春歌が気にすることじゃないよ」
春歌の狼狽を和らげるように、兄はことさら柔らかい口調で言い訳した。
「だってこれは、その……要するに、そういう風習なんだ」
「風習、でございますか?」
「うん。風習」
兄は念を押すかのごとく繰り返した。
「この辺ではね、その家にやって来たお客さんの足を家の主人が洗ってあげていたんだ」
春歌はついさっきの出来事を思い出していた。もし、鈴凛ではなく自分の靴が行方不明になったとして、果たしてあれほどまでに取り乱してくれただろうか。
「……それはつまり、ワタクシがこの家にとっては未だ異邦人ということなのでしょうか」
「違う違う、そうじゃなくて――」
「兄君さまなんて知りませんっ!」
感情の昂ぶりに任せ、そのままぷいっとそっぽを向いた。直後、何て子供じみた真似を、と後悔がやってくるが、ここで妥協してはいつまでもお客のままだと思い直し、そっぽを継続した。
だが、十秒経っても二十秒経っても物音ひとつしない。気になってちらっと確かめると、兄は小首を傾げながらじっと春歌の顔を見つめていた。疑問の色を浮かべているあたり、まるでミカエルのようだ。
「やっぱり、怒ってるよね」
申し訳なさそうに兄が口を開いた。
「さっきはあんな間違いしちゃうし、春歌の思い描く『兄君さま』とはずいぶん離れてると思う。だから、愛想つかされてもおかしくないよね」
「いいえ、そんなことは決して!」
春歌は上半身を翻し、兄に向き直った。
「ワタクシも妹として至らないことだらけで、兄君さまにいつも迷惑を掛けてばかり。いつも心苦しく思っております」
「だから、それも含めて僕に足を洗わせて――」
「それとこれとは話が別でございます」
「そ、そう?」
兄は叱られたミカエルのようにしゅんとうな垂れてしまう。
「一応、お詫びのつもりなんだけど」
「お詫びだなんてそんな。兄君さまは、ただ兄君さまらしくしてさえおられれば」
「僕だからダメなの?」
春歌は声を詰まらせた。これほど簡単で難しい問いはない。春歌が『兄の手を汚させたくない』から拒否したとしても、兄は『自分が不甲斐ない人間だから断られた』と受け取るかもしれないのだ。
「兄君さまのお役に立とうと日本へやって来ましたのに、そんなワタクシのために兄君さまの手を煩わせるなどあってはならないことですから、だから兄君さまには――」
「でも、僕は春歌の足を洗ってあげたいんだ」
春歌の目をじっと覗き込む兄。春歌は再び答えに詰まってしまった。今の自分は兄の意に背いている。それはつまり、兄の手を煩わせていることにならないだろうか。
「ですが、大和撫子たるもの――」
「それに、あんまり何度も断るのも却って失礼にあたるんじゃないかな。確か、三回以上でマナー違反だよね」
「え、ええ……」
確かこれで三回目のはずだ。受けても礼を欠き、断っても礼を欠く。春歌の心が揺れ動く。同じ礼儀知らずなら、ここは兄君さまに身を任せた方がいいのでは……?
それにさっきの兄の言葉――お詫びのつもり、というのが先の鈴凛のことだとしたら、これは正当な権利と呼べるのかもしれない。
「――わかり、ました」
兄の眉がぴくっと動く。
「あ、兄君さまの仰せの通りに」
「うん、そうこなくっちゃね」
嬉々として腕まくりした兄は、やんわりと春歌の足を取って洗面器にそっと浸す。
「あ……」
器の中は人肌程度のぬるま湯だった。触れた場所から皮膚の感覚がぼやけ、どこからが自分の足なのかわからなくなってゆく。
「気持ちいい?」
「ええ、はい、とても……」
うっとりと目を閉じた春歌は、歌うように口ずさむ。それを見て兄がくすくす笑った。
「じゃあ、もっと気持ちよくしてあげるよ」
その言葉と共に両のつま先が掴まれ、足の境界が急に定まる。そして、親指の付け根あたりをぐりっと強くしごかれた。その途端、心地よい甘痒さが背筋を駆け登る。それも立て続けに何度も。
「ふぁ、ああ……あ、兄君、さま……っ」
「ああ、やっぱりね。疲れが溜まってるみたいだ。じゃあ、このツボはどうかな」
「そ、そこは……ひゃぅっ!」
あられもない嬌声に顔がたちまち灼熱と化した。袂で顔を覆い隠すが、その間にも兄の指先は絶え間なく春歌を責め続ける。上半身が不規則に跳ね、つられてぱしゃっと水面が乱れる。
「そんなに無理しないで。横になるといいよ」
「は、はい……」
玄関に寝転がるなんてみっともない、という理性の囁きを無視し、春歌は命ずるままに横たわった。
不安がなくなったのか、兄の指はさらに勢いを増す。規則正しく、そして恐ろしく正確に春歌の弱みを突いてゆく。甘い電流と兄の息遣いが合わさり、それは次第に奔流となって頭の中をぐるぐると掻き乱す。
「あ、兄君さま……っ! ワタクシは、春歌はもう、このまま天に昇って――」
そして、不意に目の前が暗くなった。
遠くから声が聞こえる。
「――てると風邪ひくよ。ほら、起きてー」
春歌はハッと目を覚まし、その勢いのまま起き上がった。
「あ、兄君さまっ!?」
しかし、目の前にあったのは鈴凛の呆れ顔だった。一挙に気が抜け、背中が自然と丸くなる。
「ああ、鈴凛ちゃんでしたか……」
「はいはい。鈴凛ちゃんで悪ぅございましたね」
鈴凛は春歌の全身を眺め、軽く肩を竦めた。
「一応聞いておくけど、これってアニキの仕業?」
鈴凛の視線は洗面器に浸かったままのつま先へ向けられている。春歌は「ええ、まあ」と頷いてから首を周囲に巡らせた。
「そういえば、兄君さまはどちらに」
「ミカエルと鬼ごっこしてる最中」
鈴凛の指差す先には足跡が点々と続いていた。耳を済ませると、雨音に混じってどたばたと騒々しい気配が伝わってくる。
「ったく、アニキってばホントにワケわかんないんだから」
ぶつぶつと呟いて、鈴凛はポケットから何やら取り出した。
「よかったら食べる? アニキの気持ちが少しはわかるかも」
「飴玉、ですか」
「そ。イギリスから直輸入のジョークキャンディー。三日履き続けた靴下の味だってさ」
春歌は恐る恐る、鈴凛はしたり顔で口に入れ、同時に吐き出した。
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