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 〜 千影の場合 〜


 暗闇の中、向かい合わせになった顔がぼんやりと映し出されていた。
 二人を照らす橙色の明かりは互いの息遣いと脈略なくゆらめき、各々の顔に奇妙な陰影を走らせる。
「――で、何かもっと他にないかなぁ。谷崎潤一郎のファン説もありだと思うけど、あんまりアニキっぽくないっていうかさ」
「そうかな。知的で悪くないと思うが」
「でも、谷崎潤一郎の作品って足フェチ要素たっぷりなんでしょ? アタシは読んだことないけど」
「どうやらそうらしいね。私も読んだことはないが」
「じゃあ、説得力ないじゃない。もっと他にない? 何て言うか、こう、これぞ決定版って感じの」
「……まあ、ないわけではないが」
「あるの? だったら、そんなに勿体ぶらないで教えてよ」
「きみは『最後の晩餐』を知っているかい?」
「ああ、あれでしょ。キリストと十二使徒がテレビ映りを考慮してテーブルの片側に並んでいる絵。……ちょっと、そんな顔しないでよ。ほんの冗談なんだからさ」
「鈴凛くんがどうして四葉くんに懐かれるのかわかった気がするよ」
「はいはいどーもありがとうございますっ」
「では、話を戻そう。最後の晩餐というのは、イエスが弟子と共に迎えた最後の夜のことだ。そしてその席で、イエスはある行為を行って弟子たちを大いに困惑させることになる」
「あー、ちょっと待って。それってもしかして――」
「そう。イエスは自らの手で弟子たちの足を洗ったんだ」
「……足フェチ、ってことはないよね」
「言うまでもないと思うが、足を洗う役目は奴隷の仕事だ。己の崇拝者に下賎の輩と同じ事をさせ、平然としていられる弟子たちではなかったはず。事実、使徒ペトロは一度ならず二度までも拒んだそうだからね。彼の心境は察するに余りあるよ」
「そ、そうだよね。アタシたちで例えるとアニキに、その……やらせることになるわけで」
「しかも無償だ。陳腐な言い方だと思うが、まさに愛なくしてはできない所業だな。十二人という点も共通しているし、動機としては十分だ。悪くない」
「アニキがキリストの真似かぁ。何かいまいちピンと来ないんだけど」
「ところで、きみにひとつ訊いておきたいんだが」
「なに? 急にどしたの?」
 千影は上体を傾げるように顔を突き出した。
「どうして私にこんな相談を?」
 すると、鈴凛の顔が同じ分だけ後ろに下がる。
「ど、どうしてって……だって、他にこんな話のできる子っていないしさ」
「なるほど。消去法というわけか」
「……ごめん」
 かくん、と鈴凛の首がうな垂れる。千影はため息をつきながら身体を戻した。
「いや、それは別に構わない。それよりも、なぜそんな事を確かめようと思ったのか、そちらの方が気になるな」
「じゃあ、千影ちゃんは気にならないの? アニキがその、つまり――」
「確かに、誕生日パーティーでの亞里亞くんには驚いたさ。あの口からまさかあんな台詞が出て来ようとはね」
「うん、いやいやいやホントにね。アタシなんかマジでビックリしちゃって思わず首絞めちゃったし。うん、あれは誰でも驚くし誰だってそうする」
「だから、きみが気に留める気持ちはわからなくもないし、兄くんがどうして亞里亞くんの足にリボンを巻こうなどと考えたのか疑問に思うだろう」
「そうそうそうそう、そうだよね。いくら変わり者のアニキでもあれはちょっとやっぱりどう考えてもおかしいよね。絶対」
「だが、それなら私に訊く必要はないはずだ」
「そんなに変かなぁ。まずは仮説から立てるのって」
「私なら直接本人に問い質すが」
「それはその、千影ちゃんだからできることであってさ、面と向かっていきなり『足フェチ?』なんて訊けないよ」
「まあ、普通はそうだろうね。だからこそ、こうして私に打ち明けているのだろうし」
「……どういう意味?」
「きみも聞いた覚えがあるはずだ。他人に相談を持ち掛けたその時には、既に心の中で結論が付いている、と。今きみが求めているのは、その仮説に対する賛同ではないのかな」
「じゃ、じゃあさ、千影ちゃんはアニキがそんなのでもいいの?」
「愚問だな」
 千影はいつものように唇の端で笑う。
「兄くんが『そうしたい』と願うのであれば、それに応えるのが妹としての務めというものさ」
「でも、だからって足に興味が向くのはやっぱおかしいって。ケガもないのに舐めようとするなんて――」
「……ほう。舐められそうになったのかい?」
「へっ?」
 直後、驚愕にハッと目を見開いた鈴凛は、両手を千影の方に突き出してぶんぶんと振った。
「ア、アタシじゃなくて亞里亞ちゃんの話よ亞里亞ちゃんの」
「しかし、私の記憶に間違いがなければあの時の亞里亞くんは『食べて』と――」
「食べるも舐めるも同じだってば。例えばその、ええと、ほ、ほら、ソフトクリームとかさ」
「あのペトロも、最後には手も足も洗って欲しいと求めたそうだが――」
「ご、ごめんっ! アタシ、急用を思い出したから!」
 がたがたという音と共に鈴凛の顔が掻き消えたと思うと、暗闇に縦へ走った亀裂から一筋の光が差し込む。と次の瞬間、今度は地響きと同時に全ての闇が消え失せた。
 代わりに現れたのは殺風景な空き部屋だった。その戸口で、黒いカーテンを掴んだままの鈴凛が這いつくばっている。
「怪我はないかい?」
 肩越しに「後でちゃんと直すから」と言い捨てた鈴凛は、ほうほうの体で廊下を逃げて行った。
 後には魔女の格好――黒の三角帽子に黒いローブ――をした千影だけが残された。占い用の小机を中心とした床に、正方形のカーテンレールとくしゃくしゃになったカーテンとが千影を取り囲んでいる。
「安普請もいいところだな」
 何気なく見上げると、ビスの痕跡で描かれた点線が天井を狭く区切っていた。四畳半もない、小さな四角形だ。占い目的で使うには広すぎたのでカーテンで囲うことにしたのだが、よりにもよって工事責任者が壊してしまうとは。
「まあ、今日のところはこれでよしとしておこうか」
 だが、余裕さえ感じられる独り言とは裏腹に、千影のローブの下はじっとりと汗ばんでいた。密室状態で蒸し暑かったこともあるが、割合としては冷や汗のほうがずっと多い。
「それにしても、何をあんなに慌てていたのやら」
 慌てていたのは私の方だったのに、と千影は小さく続ける。鈴凛に「アニキの足のことなんだけど」と切り出された時には本当に心臓が止まるかと思った。てっきり『あれ』を嗅ぎ付けられたのかと身構えたが、どうやら思い過ごしのようだ。
 一度は安堵のため息をつく千影だが、ふとある事に考えが及び、今度は苦悶のため息を漏らす。――まさかとは思うが、最近の兄くんの奇行と『あれ』とは関係があるのかも。
 別段、あの行為自体は個人的に何の問題もない。求められれば応じるまで。むしろ、こちら側から求めたいぐらいだ。
 しかし、最近の彼の嗜好が『あれ』によるものだとしたら――完全に自分の責任だ。それに、黒魔術師としての沽券にも関わる。己の名に掛けて、『あれ』をしくじったなどと認めるわけにいかない。最中はもちろん、事前の下準備から事後の後始末まで全てがうまく行ったはずなのに。
 そう、『あれ』は決して誰にも見られてはいけない。
 亞里亞を含む姉妹たちはもちろん、もうひとりの当事者たる兄にさえも知られてはいけない、千影ひとりだけの秘め事。見つかったが最後、スペインの宗教裁判のごとく激しく糾弾されるに違いない。とはいっても、さすがに火あぶりはないだろうが――
「まさかの時のスペイン宗教裁判デス!」
 驚いて顔を上げると、赤い羽根帽子を被った四葉が戸口からこちらを覗き込んでいた。ぽかんと口を開けたままの千影に対し、四葉が怪訝そうな声を出す。
「だって、四葉のこと呼んだデスよね?」
「……呼んでない」
「でも、スペインの宗教裁判って――」
「言ってない」
「じゃあ、四葉の相談に乗って――」
「やってない。今日はもう終わりだよ」
 えーっ、と不満の声を上げる四葉を無視して蝋燭――を模した電灯――を消すと、ローブの裾を引き摺りながら部屋を出た。
 そして扉を閉め、差し込み式になった『営業中』の札を『休業中』に裏返す。その上に貼られた長方形の画用紙には、赤いクレヨンでこう書かれてあった。

『干影姉やのお脳み相だん室』

「せっかく千影ちゃんのリクエストを取り入れようと思ったのに」
 改めて向き直った四葉は全身赤づくめだった。赤いマントの下は、これもやはり赤で揃えたフランスの銃士隊風の装束。一言で表現すると、いわゆる赤魔術師の格好だ。
「どうしたんだい。今日のそのコスプレは」
「コスプレじゃなくて、れっきとした枢機卿のコスチュームなのデス」
「普通はそれをコスプレと呼ぶんだが」
「そうなのデスか? 兄チャマが喜ぶのがコスプレだって、咲耶ちゃんが言ってマシタけど」
「何だそれは」
 千影は思わずこめかみを押さえていた。
「せっかくリニューアルしたのに、兄チャマってば全然喜ばないのデス。それで、千影ちゃんに相談しようと思ったのに」
「衣装合わせなら余所を当たってくれ。私は忙しい」
 しっしっと手で追い払う真似をするが、四葉はしつこく食い下がる。
「でも、四葉には理由がわからないのデス。タイツからズボンに変えただけなのに――」
「何だって?」
 千影は四葉の肩を掴み、強引に自分の方を向かせた。
「それはいつの話だ」
「えっ? ええっと、昨日の出来事デスけど」
 千影の急変ぶりに戸惑いながら、四葉はおどおどと質問に応える。
「では、最初にその格好をしたのは? ああ、リニューアル前のことだよ。初めて兄くんに見せたタイミング」
「たしか、一ヶ月ぐらい前だったような気がするデス」
「本当に一ヶ月前かい? 間違いないだろうね?」
「ええと、その……28日か29日ぐらいだったかも」
「いや、その程度の誤差はいい」
 千影はおもむろに腕組みし、ひとり大きく頷いた。
「そうか、一ヶ月前からなのか。やはり、時期的にもちょうど『あれ』と――」
「『あれ』って何デスか?」
 ハッと我に返ると、らんらんと輝く瞳と目が合った。しまったと思うがもう遅い。盗人に追い銭という言葉があるが、彼女の場合は『四葉に追い謎』だ。
「ねぇねぇ、教えてくださいデスぅ。『あれ』って何なのデスか?」
「な、何でもないさ」
「何でもなくはないのデス! 千影ちゃんがすごくおしゃべりなときは、何か必ずムー大陸な謎が隠されているのデス」
「それを言うならアトランティスの謎だ」
 その後もアヴァロンだのタルタロスだのといった言い争いをしながら、千影はとある決断を密かに固めていた。


 その夜更け。真の暗闇の中を千影がひとり静かに歩いていた。
 月もない夜にも関わらず、廊下を行くその足取りは昼間のそれと変わらない。
 格好も昼間と同じだった。例の黒魔術師の装束で、その姿はほとんど周囲に溶け込んでいる。違いといえば、小脇に抱えた分厚い本とわずかに紅潮した白い頬。それらだけが、まるで亡霊のごとく闇夜に浮かんでいた。
 そんな千影の足がある扉の前でぴたりと止まった。耳を押し当てて中の様子を探り、ドアノブをそっと回す。
 鍵は掛かっていなかった。皆を信用しているのか、それともただの無防備なのか。
 しかし、いざ忍び込んでみるとどうやら前者らしいとみえる。雑誌や本が部屋のあちらこちらに散らばっていて、ほどほどに足の踏み場がない。鈴凛の部屋といい勝負だ。
「……まったく。いつもいつも手間の掛かる人だね」
 仕方なしに千影は最低限の片付けを始めた。常夜灯すら点いていない暗闇だが、夜目の利く千影にとってはさほど苦でもない。面倒なのはこれの後始末の方だ。目覚めた時に怪しまれないよう、元通りに散らかさなければならない。
 二畳ほどのスペースを生み出したところで手を止めると、マントを翻しながらいそいそと準備を始める。香を焚く傍らで魔方陣を描いた敷物を張り、腰から細身の長剣を抜き放つ。儀礼用のマジックソードだ。もちろん刃は付いておらず、合金製のいわゆる模造刀。だが、刃渡りは90センチと長く、凶器としては十分だ。亞里亞はともかく、四葉には絶対に触れさせてはいけない。彼女の手に渡ったが最後、破壊神の三叉戟のごとく周囲を蹂躙しつくすはずだ。
 鼻をうごめかして煙が一通り行き渡ったのを確認すると、魔方陣の中に足を踏み入れ、持ち込んだ魔術書を広げてマジックソードを高く掲げる。ローブからうっすらと立ち昇る汗の臭いに思わず眉を顰めるが今さらどうしようもない。面倒臭がって洗濯しなかった自分が悪いのだ。
 ベッドに横たわる人影を見下ろしつつ、千影は小さく宣言した。
「始めるよ、兄くん」
 そして、召喚の儀式が始まった。
 呪文は独り言のような囁き声から始まり、奇妙な抑揚を伴いながら次第に高く登り詰めてゆく。
 今回呼び出そうと試みているのはソロモン72柱の魔神の一柱、地獄の大公爵たるマルコシアス。召喚者には忠実でいかなる疑問に対しても答えてくれるが、魔界最強の魔獣という側面もあり決して油断はできない。
 だが、今回行おうとしているのはただの悪魔召喚ではない。兄の身体を依り代として用いようというのだ。憑依という形ならマルコシアスとて本領は発揮できないだろうし、万が一に乗っ取られたとしても兄の手に掛かるのならばそれは本望というもの。
 そう、兄の口を通して答えを得ることこそが千影の目的だった。
 嘘でも偽りでもいい。この際、幻聴でも構わない。とにかく聞かせて欲しい。私のことをどう思っているのか。ただの家族として? それとも、少し気になる異性として? きみの目には私がどう見えているんだい? 私はもう、あの頃の『ちか』とは違うんだよ。
 始まりは咲耶と二人だけ。それが今では十二姉妹。最も身近な異性の目が気にならないはずがない。
 結果として惨めな思いを味わう羽目になったとしても、悪魔を介在させて得た純粋な答えではないにしても、他ならぬ彼の言葉なら納得はできる。
 呪文を続けるうち、場の空気に変化が現れ始めた。部屋を満たしていたはずの煙が兄の頭上で渦を巻いている。それは香炉から立ち昇った生まれたての煙をも貪欲に駆り集め、次第に何者かの輪郭を形成しだす。
 千影は魔術書からちらっと目を上げ、そのまま小さく頷く。過去に何度か繰り返した中でも今回はとりわけ変化が大きい。これならいつも以上の結果が期待できそうだ、というより、今まで質問へ持ち込んだことがないのだ。平たく言えば失敗だが、それでも夢遊病患者のように周囲を歩かせる程度はできているので完全な失敗ではないはず。要するにあと一押しが足りないのだ。
 しかし、煙の形が四足獣に近付くにつれて、千影の中で不安が頭をもたげ始めた。
 マルコシアスは狼の姿で現れるという。
 鈴凛の相談を受けたとき、最初に思い浮かべたのはそのことだった。まさかとは思うが、不完全な召喚の影響で中途半端に犬と化してしまったのでは……?
 鈴凛に打ち明けようものなら一笑に付されること間違いない。だが、万が一ということもある。人の精神に訴え掛ける以上、その手の危険性は常に潜んでいるのだ。
 呪文を唱え終えて剣先で印を切ると、それを合図としたように煙が再び形を失う。千影は何度か空咳をし、切先を兄の顔へと向けた。
「さぁ、我が命に応えよ。地獄の大公爵たるマルコシアスよ」
 そして剣の先端を持ち上げた途端、それは起こった――いや、飛び起きた。横たわった形のままで、ぴょんとバネ仕掛けのように。
「なっ……!」
 あまりに不可解な動きに、千影は剣を落とさすにいるのが精一杯だった。手早く深呼吸して動揺を鎮めると、棒立ちのままでゆらゆらしている彼にこう呼び掛けた。
「あ、あなたは……マルコシアスか?」
 だが、彼は目を閉じたままで何の反応も見せない。
 と思った次の瞬間、彼の右腕が勢いよく宙を薙ぎ、千影の手からマジックソードを弾き飛ばす。剣はけたたましい音を立てて壁にぶつかり、そのままごとりと床に落ちた。壁に残った剣状のスタンプを見て、千影の背筋に鳥肌が立つ。後悔するが後の祭りだ。魔界きっての暴れん坊をこんな下らないことで呼び出すから……!
 しかし、彼は三たび千影を裏切った。
 身構える千影をよそに四つんばいとなった彼は、そのまましゃかしゃかと地を這って千影の前を通り過ぎた。そして剣の前へ辿り着くと、伸ばした右手をフックさせながらちょっかいを出し始めた。お尻を高く上げて時々低く唸る様はまるで犬のよう、というより犬そのものだ。
「これは一体どういうことなんだ」
 術が不完全だったのか、全く別の霊でも呼び出してしまったのか。犬と狼なら親戚のようなもの。後者はともかく、もし前者だったとするならば、あるいは先祖帰りでも起こしたのだろうか。
 今でこそ強大な戦闘力を誇るマルコシアスだが、最初から悪魔だったわけではなく、言い伝えによれば元はただの狼の子だったという。
 彼の運命を変えたのは、同じソロモン72柱に含まれているグレモリー。親とはぐれて行き倒れ寸前だったマルコを拾い上げ、自らの乳を与えて育てたのが彼女だったのだ。
 過去から召喚する術を見つけてしまったのだろうか、などと考えているうちに、いつの間にか魔方陣からつま先がはみ出ていた。悪魔召喚において魔方陣は結界の役割を果たす。この内側にいる限り危害を加えられることはないのだ。そう、内側にさえいれば。
 彼の反応は、千影が自らの勇み足に気付くより数瞬早かった。顔を上げて一度鼻を鳴らすと、胴をくねっとしならせて反転し、千影の足元目掛けて殺到する。千影が足を引っ込めたのはその直後。本当に間一髪だった。
 彼は獲物を見失った後も未練がましく鼻を鳴らし、魔方陣の円周沿いに臭いを嗅ぎ回っている。どうやら彼には千影の姿が見えていないらしい。推測するに、マジックミラーの裏側に隠れているようなものだろうか。とりあえず、ここにいる限りは安全のようだ。
「さて、これからどうしたものか……」
 術が切れるまで待つという手が安全だが、それは下の下というものだ。不完全でも召喚できたのだから、やはり何らかの成果は得たい。とはいうものの、他にこれといった決め手がないのもまた事実だった。いっそのこと、自分の身を寄り代にグレモリーを呼び出してみようか。母親代わりのグレモリーならマルコをどうにかしてくれるかもしれないが、召喚にはあの長剣が欠かせない。
 彼はぐるぐると喉を鳴らしながら依然として周囲を徘徊している。つま先のあった場所とマジックソードとを交互に行き来し、千影の痕跡を追っているのは明らかだ。試しに人差し指を結界から突き出してみると、即座に顔を上げて反応した。もはや間違いない。
 だが、慌てて指を引っ込めた時の落胆ぶりを見る限り、千影を餌として認識しているわけではないらしい。ひゅんひゅんと情けない声を出しながら待ち構えているあたりは、おあずけされたまま放置されたミカエルとよく似ている。
 そのつぶらな瞳を見つめているうち、千影は自分が奇妙な感情を抱きつつあることに気付いた。
 目の前のこの子がいとおしくてたまらない。
 亞里亞や雛子を見守っている時とは違う。犬や猫を可愛がっている時とも違う。心のもっと奥深くから湧き上がってくるあたたかな感情――これが母親の気持ちというものだろうか。今なら、マルコを拾い上げた時のモリーの心境が理解できる。十分すぎるほどに。
「兄くん……わ、私に、変な気を起こさせないでくれ……」
 千影は自らの心の重みに耐えかね、思わず後ずさりする。一歩、二歩、三歩――
 ハッと我に返ったその時にはもう遅かった。千影が魔方陣からはみ出たマントを掻き集めるのと、彼がフリスビー犬の身のこなしで飛び掛るのとがほとんど同時だった。
「な、何を……っ!」
 まずは千影がわずかに遅れを取った。首がぐんと後ろに引っ張られ、その場で足踏みをする。
「は、離せっ。離すんだ、兄くん」
 千影も必死で引っ張り返すが、今やすっかり狼となった彼の顎はマントの端をしっかり捕らえて離さない。おまけに、敷物のおかげでうまく踏ん張れないのだ。
 そして、真っ先に負けたのはマントそのものだった。
 悲鳴をあげる暇もなかった。バランスを取ろうと踏みしめた足が敷物を蹴り飛ばし、勢いで盛大に転んでしまう。千影の身体がフローリングの上を滑り、鈍い音と共に壁が受け止める。目の前に星が飛び散った。
「痛っ……まったく、何て無様な」
 起き上がろうとした千影の頭にまた衝撃と鈍痛が走る。反射的に頭を伏せて恐る恐る見上げると、そこは学習机の下のわずかな空間だった。要するに、頭隠して尻隠さずの状態だ。このまま中に追い込まれたらどうなることか。
「ひっ!」
 足の裏に湿ったものを感じ、千影は咄嗟に足を引っ込めた。足元を確かめようと仰向けになる最中にもう片方を。
「な、何をするんだ」
 ようやく視界に捉えた彼は、四つんばいになって千影の臭いを嗅ぎ回っているところだった。忙しなく鼻を鳴らしながら足の甲から踝へと。踵に戻ってから、鼻でローブを器用にめくり上げつつふくらはぎを這い登る。理性の欠片すら感じられない荒い鼻息が、千影の聴覚と触覚を蹂躙する。
 底知れぬ恐怖に縛り付けられた千影は、息を詰めてじっと耐え忍ぶしかなかった。
 今の彼が何者なのかはわからない。何をするつもりのかはわからないが、このままでは終われない。私が捧げるのは兄くんに対してだ。兄くんの身体ではない。理性を失った兄くんは兄くんじゃないのに。そんな当たり前のことにどうして気が付かなかったのだろう。
 心の中で千影はひたすら自分の愚かさを嘆いた。
 すると、膝の裏を嗅いでいた彼の動きが急に止まった。何かに気付いたように首を傾げ、そのまま後ずさりする。そして千影の足元に伏せをし、おもむろに足の指を一舐めした。
「ひうっ!」
 千影は咄嗟に自分の口を塞いだ。自分でも驚くぐらいの甲高い声に、顔がたちまち赤く染まる。
「そ、そんな。駄目だよ……そこ、汚いのに……」
 しかし、彼は耳を傾ける気配すら見せない。一心不乱に舐め続け、そして――
「ひゃんっ!」
 親指全体がぬめっとした温かいものに包まれている。目で確かめるまでもなかった。というより、確かめたくなかった。確かめたら、きっと頭の中が沸騰するに違いない。――兄くんが、私の指をしゃぶっているなんて。それも足の親指を。
 やめてくれ、と口にするはずが喉が引き攣って声にならなかった。蹴り飛ばそうにも腰が抜けてそれどころではない。全身をうねらせてどうにか逃れようとすると、指の付け根を甘噛みされて抗議された。そしてさらに所有権を主張するかのように、千影の足首を両の握りこぶしで押さえ込む。
 最初の方こそ顔を伏せてただ災難が過ぎるのを待っていた千影だが、一定の緩急で指を吸われ続けるうち、頑なだったその気持ちが次第に和らぎ始める。
 それは奇妙な感触だった。くすぐったくて気持ち悪い。なのに、どこか気持ちいい。この快感を、羞恥心と背徳感がもたらしたものと定義付けるのは簡単だが、それだけではないはずだ。
 千影は上半身だけを動かし、ローブの合間から足元を覗き見た。
 彼は四肢を投げ出す格好で横たわり、すっかりリラックスしていた。もちろん、足の親指はくわえたままだ。目を閉じて夢中になっている様を見ていると、否が応にもあることを連想させる。
「そんなところを吸っても、何も出てはこないよ」
 もちろん彼は何の反応もみせない。飽きることなく、ひたすら千影の指を求めている。千影がわざと足を動かすと、甘噛みしながら自分の方へと引き寄せようとする。
 そんな兄の姿がいとおしく思え、同時にひどく切なくなった。私は兄くんに何かをもらってばかりいる。それなのに、私は兄くんに何もしてあげられない。
 その刹那、千影の脳裏に閃くものがあった。同時に身体が小刻みに震える。彼が何事かと顔を上げた。
「あ、兄くん……」
 千影はもつれる指先で胸元を緩め、見せつけるように開いた。
「どうせ吸うのなら……こ、こっちに、しないか……?」
 かすれて小さな声。普段なら意識の片隅に存在することさえ許さない、実に馬鹿馬鹿しいアイディア。
 だが、全ては夜明けと共に弾け飛んでしまう泡沫の夢だ。何をしたところで彼の記憶には残らないだろう。ならば、このままモリーになってみるのも悪くない。
「さぁ、おいで。私のかわいいマルコ」
 千影が差し伸べた手に誘われ、四つんばいの彼が動く。よそ見をせず、臭いも嗅がず、確実に迫ってくる。さっきまでとは明らかに違う動き方。訝しく思ったその時には、もう既に彼の頭が机の下へ潜り込んでいた。
 ごく狭い空間に二人の荒い息遣いだけが響く。
 しかし、一度走り出した感情は止まらない。
 千影は躊躇うことなく肩まで露わにした。
 膝と膝の間に彼の膝がすっと割り込む。
 彼の息がおもむろに深くなり、そして止まる。
 千影は固く目を閉じ、その時を待った。
 だが、やって来たのは失望だった。
 ごんっ、という鈍い音がしたと思うと、いきなり彼の全身が降りかかってきた。千影はなす術もなくその下敷きになる。
「あ、兄くん。重いよ」
 揺すっても叩いても彼は一向に動こうとしない。まさかと思いつつ兄の後頭部を探ってみると、微妙に熱く盛り上がっている場所がある。
 千影はため息をつき、兄の頭を抱いて自分の胸元にぎゅっと押し付けた。
「……兄くんのバカ」

  *

 それから一週間。千影の身の回りには何事も起こらなかった。
 宗教裁判や火あぶりの刑といった吊るし上げはもちろん、それ以前に誰もあの夜の出来事に気付いた様子がないのだ。あれだけのたんこぶを作ったというのに兄も反応を示さないまま。あまりに平和な時が過ぎるので、あれは夢の中の出来事だったのではと勘違いしてしまいそうになる。
 もっとも、誰も何も覚えていないに越したはないのだが――
「あっ、立った立ったぁ! お兄ちゃまがまっすぐ立ったよ!」
 つま先に花穂を座らせ、寝転んだ状態から一息で起き上がる彼を見ていると、妙な胸騒ぎを覚えてならないのだ。
「まさか、ね……」
「大丈夫ですか?」
 ハッと我に返ると、鞠絵が遠慮がちに顔を覗き込んでいた。
「何だか顔色が悪いようですけど」
「いや、大丈夫だ。何も問題はない」
 そうですか、と素直に頷いた鞠絵は兄の方に向き直った。
「いつも思うのですけど、兄上様って本当にすごい人ですよね。勉強も運動も何でもできるなんて」
 鞠絵はそう言って、手にした文庫本を自分の胸に押し当てる。兄に圧し掛かられたあの時を思い出し、千影は頬が赤くなるのを感じた。
「でも、この様子だと後にした方がよさそうですね」
「何が?」
「兄上様に貸していただいた本、ようやく読み終わりましたので」
「ほう、兄くんがきみに、ね。それは気になるな。どんな本だい?」
 すると、鞠絵は照れ笑いを浮かべながら恥ずかしそうに告げた。
「ええ、谷崎潤一郎なんですけど」





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