〜 鞠絵の場合 〜
「た、谷崎潤一郎だって……?」
「ええ、そうですけど」
血相を変えながら千影が繰り返すので、鞠絵はなんとなく居心地の悪い思いをしていた。谷崎潤一郎の何が千影の気に障ったのだろう。
姉の顔色は青を通り越し、すっかりいつもの白さを取り戻していた。病弱による白ではなく、生まれついての色白だ。その白が急に赤みを取り戻す。
「で、それはいつからだい?」
妙な勢いで迫る千影を、はぁ、と気の抜けた声でかわす鞠絵。
「一口にいつからと言われても、色々な意味がありますので」
「いや、これは失礼。谷崎潤一郎を兄くんから借りていた時期のことだ。鞠絵くんのことだからきっと二日か三日で読破してしまったのだろうが、一応念のために」
鞠絵は胸に抱いていた文庫本を身体から離してタイトルを確かめた。
「これは確か……十日ぐらい前でしょうか」
「そうか。十日か」
なぜか露骨に安堵の色を見せる千影。だが、鞠絵としてはそんな彼女の様子に不安を感じてしまう。亞里亞と一緒に過ごしているときでも眉の上げ下げや口元を緩めるといった程度の変化しかみせないのに、先ほどからの姉の様子はどうだろうか。思いつめた表情で兄の様子を窺っていたので、それが気になって声を掛けたのだが。
「でも、読み進めるのにちょっと手間取ってしまいましたので、本当ならもっと早くに」
「それは仕方ないさ。谷崎潤一郎なら――」
言い掛けた千影の顔が再び紅潮する。
「いや、わ、私はまだ読んだことがないが、我々の年代が読むには、その、少々ハードルが高いと耳にしているもので」
いかにも恥ずかしげに文庫本をちらちらと見ながら続けるので、聞いているこちらの方が恥ずかしくなってくる。鞠絵は赤くなろうとする顔色を押し留めるように、本を胸に抱き寄せた。
「そうですね、確かに読みにくかったです。このお話、カタカナばかりで書かれていましたから。他の作品は普通でしたので、何だか余計にギャップが大きくて」
「他の作品?」千影の眉がぴくりと動く。「まさか、他にも兄くんから谷崎潤一郎を?」
反応が過剰に思え始め、鞠絵は中途半端に頷くにとどめた。
「そうなのか……。で、いつから兄くんに? 今までに何冊読まされたんだい?」
「は、はぁ……」
次第に咎められているような気分になり、さすがの鞠絵もそろそろ腹が立ってきた。
千影とは姉妹の中でも割と仲のいい方だ。読書という共通の趣味もあるうえ、物静かなところも鞠絵にとっては好ましく写った。決して嫌いというわけではないが、自分から咲耶たちの近くに行くのはどうしても気後れしてしまうのだ。
普段から活動的な彼女たちを見ていると、劣等感がちくちくと刺激されて気が滅入ってしまうことがしょっちゅうある。技術のある白雪や鈴凛は言わずもがな。それぞれ得意な分野で兄の役に立っているのに、自分には何の取り得もない。それどころか、たびたび体調を崩しては足を引っ張っているのが実情だ。その点で、ひたすらマイペースを地で行く千影や亞里亞の存在はちょっとした心の支えになっていた。
しかし、それだけに今の千影はどうにもいただけない。兄上様と遠慮気兼ねなく語らえる絶好のチャンスを、わたくしから奪うつもりなのでしょうか。千影ちゃんはいつも亞里亞ちゃんとペアでいて、それで兄上様の気を惹いていますのに。
なので、鞠絵は少しだけ過大申告することにした。
「わたくしの覚え間違いでなければ、兄上様とは半年ぐらい前から。冊数はこれでちょうど十冊目ですね」
「そんなにも……!」
鞠絵の想像通り、千影は今度こそ顔色を失った。よろめきながら壁際まで後ずさりし、そのまま背中を貼り付けた。
「な、何ということだ。まさか、兄くんはそんなにも前から――」
「千影ちゃんさえよろしければ、わたくしから兄上様にお願いしましょうか?」
大人気ないと知りつつも、ここは勝ち誇らずにいられなかった。
しかし千影は、頭を左右にぶんぶんと振って応える。あまり千影らしくない。
「どうしてですか? 別に遠慮なんてなさらなくても」
「え、遠慮など私はしていない」
「千影ちゃんでしたら難なく読めるはずですよ。わたくしでも読破できましたから」
「いや、そういう意味で拒むわけではなくて、何というかその、つまり……」
「つまり?」
答えに詰まった千影を問い詰める鞠絵。ついでにじりっと一歩詰め寄る。
千影が見掛けによらず脆いということを知ったのは最近になってからだ。最初は亞里亞の育ち方ゆえの言動に振り回されているものと思っていたが、表層を取り繕うのに失敗して墓穴を掘っているだけらしい。千影が独りで居たがるのは案外そのせいかも。
「つまりその、今はちょっと余裕がなくてね」
「ああ。忙しいのですね」
「そ、そうだ。それ。忙しい。私は忙しかったんだ」
「でも、今日は亞里亞ちゃんとずっと一緒だったような気がしますけど」
「訂正する。私個人の時間がなくて忙しい。あの子の周りは時間の流れ方が違うんだ」
「確かにそうですね。三時間も一緒にお昼寝するぐらいですから」
「いや、それは誰も起こしてくれないからであって」
「できればそうしたかったのですけど、亞里亞ちゃんに止められてしまいまして。姉やは夢を見てる途中だから、って」
「それは初耳だな。亞里亞くんから何も聞いてない」
「きっと気を遣ってくれていたんですよ。何でも、ぬいぐるみを抱き締めながら寝言で兄くんやめてお願いとか何とか」
これは口から出まかせだった――はずが、かなり際どいコースに投げてしまったらしい。
再び顔面蒼白となった千影はかろうじて聞こえる声で「失礼する」と言い残し、何事かぶつぶつと呟きながらリビングを出て行く。入れ替わりでやって来たミカエルが8の字を描くように鞠絵の顔と廊下とを交互に見るが、鞠絵は首を横に振って余計な気遣いを止めさせた。
「いいのよ、ミカエル」
どこか不満そうに鼻を鳴らすミカエルだが、根っからの律義者なので飼い主の命令には逆らえない。頭と尻尾を中途半端に下げ、鞠絵の元まで歩いてくる。
「いい子ね。でも、あなたが心配することじゃないの」
頭をなでながら、多分ね、と心の中で付け加えた。それにしても何をあんなに慌てていたのやら。『細雪』は旧家に育った四人姉妹を描いた物語なので、きっと何かしら思うところがあるはず。昭和十年代が舞台になっているが、千影の読書力なら特に問題はないだろう。読書後の語らいほど楽しいものはないというのに。
鞠絵はソファーに腰を下ろし、改めて文庫本の表紙を見た。
『鍵・瘋癲(ふうてん)老人日記』と題打たれてある。
何とはなしに眺めているうち、次第に顔が火照ってきてしまう。姉があんなに動揺していたのはこれがどんな内容なのか知っていたせいかも――そう思うと、顔がさらに赤みを増した。
『細雪』とは違い、これら二つの話は少々――人によってはかなり――官能的な要素が含まれている。『鍵』は老齢に差し掛かった夫婦が互いの日記を盗み読みしながら欲望を叶えてゆく話。『瘋癲老人日記』も似たようなもので、未だ衰えぬ欲望を持て余した老人が息子の嫁に翻弄されるという話だ。
どちらも直接的な表現こそ避けているが、日記という体裁を取っているためかやたら生々しい。本当にこのまま読み進めてもいいのだろうかと、日に幾度も開き閉じしたぐらいだ。
特に『瘋癲老人日記』の方は凄まじかった。
嫁の食べ残しを嬉々として口に運び、実の娘には援助を渋るくせに高級バッグや外車をポンと買い与える。
鍵が掛かっていないのをいいことにシャワールームへ乱入し、挑発されるままに唇を首筋へ這わせる。
三百万円相当のキャッツ・アイと引き換えに足の指をしゃぶらせてもらう。当時の大卒初任給が一万円ぐらいの時代だ。大雑把に見積もっても五千万は下らないだろうか。
そんな大金をぽんと投げ出す老人も老人だが、悪びれもせず当たり前のように受け取る義娘の颯子(さつこ)の方も相当なものだ。義理とはいえ、父親に媚を売って己の欲望を満たしているのだから。
しかし、老人はそんな颯子に心底ぞっこんで、倒れた後の寝室で二人きりになった途端「颯チャン、颯チャン、痛イヨウ!」と泣いて喚く。最初はお芝居だったはずのそれも、そのうち本当に痛んでくるのだから恐ろしい。
入退院を繰り返していた鞠絵にとって、わがままとは真っ先に捨て去らねばならないものであった。ただでさえ周囲に迷惑を掛けている自分が、それ以上に手間を増やさせるなんて許されるはずがないのだ。
長い療養生活で最初に学んだのはそのことだった。
病人は病人らしく、周囲に身を委ねていればいい。やがて自然に寿命の尽きる老人とは違うのだ。これから先を生きるために、甘んじて受け入れねばならないものがある。
だからなおさら、老人の奔放ぶりが気になってしまうのだろう。
もしも、兄上様が颯子の役回りだったら。わたくしは、この老人と同じように振舞えるのでしょうか。
「――そんなこと、わたくしにはとても」
鞠絵はゆっくりとかぶりを振り、背もたれに寄り掛かる。
ダイニングの方では、兄が花穂の逆立ちの練習を手伝ってあげている最中だった。花穂は、長袖のジャージにショートパンツというアンバランスな格好で、チアで鍛えた足を惜しげもなく晒け出している。
「お、お兄ちゃまぁ……花穂、もう限界……」
「もう少しだけ我慢してごらん。花穂ならできるはずだよ」
「でも、ホントにもう……行っちゃう、行っちゃうよぉ……っ!」
花穂のつま先が大きくぶれたと思うと、狙い澄ましたように傍らの兄の胸元へ振り下ろされる。
「あ、兄上さ――」
しかし兄は足首をひょいっと無造作に掴んで受け止め、花穂の身体をそのまま床に寝かせた。
「花穂、正直に言ってごらん。まさかとは思うけど、わざとやってない?」
「う、ううん、全然そんなことないよ? 今の花穂、二十秒が限界なの」
「そうじゃなくて、足の向き。さっきからずっと僕の方に向かってきてるよ」
「……ごめんなさい。だって、お兄ちゃまってすっごく硬くて強くて長持ちで、衛ちゃんと全然違うんだもん」
舌足らず気味な声のせいもあって、ついいらぬ妄想を掻き立てられてしまう。そこは「お兄ちゃまの腕」とでもするべきだろうに。
だが、兄は特に咎めるでもなく「もう一回だけやってもいい?」という願いに笑って応えた。
鞠絵は無言で唇を噛み締め、いつの間にか浮いていた腰をソファーに落ち着かせる。
その途端、ミカエルが手のひらにぐいぐいと鼻を押し付けてきた。
「どうしたの? 何でもないのよ、ミカエル」
努めて明るい声を出す鞠絵だが、ミカエル相手ではほとんど意味をなさない。彼の嗅覚は容易に嘘を嗅ぎ出してしまうのだ。
一筋縄ではいかないと悟ったミカエルが狙いを変えた。くるぶしまでのスカートに鼻面を突っ込み、靴下を引っ掻いて下げようとし始める。たまらず振り払おうとすると、今度はつま先に軽く噛み付いた。
「ミカエル」
低い声で叱っても、額に手をかざしても、頭を掴んで床に押し倒しても同じだった。くわえた靴下を離そうとしない。普段から聞き分けのいい彼にしては珍しいことだった。
「困った子ね。本当に何でもないのに」
こちらから引いても逆に引っ張り返してくるので、とうとう足からすっぽ抜けてしまった。しかしミカエルはせっかくの戦利品に目もくれず、今度は鞠絵の膝に足をついて何度も頬を舐める。
「もう、ミカエルったら……」
あくまで自分の身を案じてくれていると知り、鞠絵は少しだけ泣きたい気持ちになった。ミカエルが気遣ってくれるのは嬉しい。でも、気遣われる元となったのは己の心の弱さなのだ。身体のことは半ば運任せだが、心は違う。自分さえしっかりしていれば何の問題も起こらないのに――ちらっとそんなことを考えると、ミカエルがまた手のひらに鼻をくっつけてくる。
このままではミカエルが心労で倒れてしまいかねないので、鞠絵は一計を案じることにした。
「お願い、毛布を取ってきてちょうだい。わたくしがいつも膝に掛けているの」
そう言って膝に掛けるジェスチャーをすると、ミカエルはソファーの周囲を歩いて回り始める。
「昼間、お外で干していたからここにないの。取ってきてくれる? 多分、洗濯物と一緒にあると思うから」
廊下へ向けた人差し指に素早く従うミカエル。しかし、あくまで主人の身が心配らしく、三歩進んで振り返っては鞠絵の顔色を窺う。ようやく姿が見えなくなった頃には二の腕がすっかりくたびれてしまった。
ごめんなさいね、と心の中で謝り、鞠絵は再び兄たちの方に向き直る。二人は依然として練習中だった。楽しそうな声がダイニングはおろかリビングの高い天井に響き渡り、鞠絵の心をも震わせる。
兄上様は――あの人はなぜ、あんなにもやさしいのでしょうか。チアの演目に逆立ちが含まれていないことぐらい、雛子ちゃんでもわかっていますのに。つい先週までは衛ちゃんが練習相手を務めていて、それで何も問題は起こりませんでしたのに。花穂ちゃんが嘘をついていると気付いているはずですのに、あの人はどうして――
鞠絵は手に鈍い痛みを感じ、ハッと我に返った。見ると、それぞれの手の甲に爪痕が赤く刻まれている。組んでいた手に力が入りすぎたらしい。自嘲めいた笑みを浮かべ、鞠絵は自分の手で自分の手を包んだ。
「こんな駄目な妹、兄上様はきっと――」
そう言い掛け、慌てて首を横に振った。そして、妹に嫉妬している心の狭さを恥じ、花穂のように振舞えない意気地の無さを恥じた。
やさしい兄上様ならわたくしの我が侭をきっと叶えてくださるでしょう。でも、わたくしにはその願いを口にする勇気がありません。それなのにわたくしは、ただこうして座って兄上様が言葉を掛けてくださるのを待っているだけ。自分からは何もしないくせに不満だけは一人前。
わたくしは、とてもずるい子です。
「きっと、兄上様は」
それでもなお、鞠絵は二人を見ていることしかできなかった。
鞠絵は文庫本を両手で抱え、押し潰れよとばかりに自分の胸へと押し込めた。そして、ぐったりとソファーに寄り掛かって目を閉じる。
誰かに頼らねば生きていけない人間は、誰かに見捨てられることが何よりも恐ろしい。
だから、両極端になる。
常に自分の心を殺すか。それとも、常に誰かの心を試すか。
前者しか知らない鞠絵は座って待つ以外に術はなかった。
こうして腰掛けて待っていると、なぜか病院の待合室を思い出してしまう。
長い療養生活から解放された今でも病院通いは続いている。場所が場所なのでミカエルは連れていけず、いつも一人きり。トラムとバスを乗り継いで大学病院まで出掛ける。
ロビーは病気自慢に花を咲かせる老人たちでざわつき、鞠絵はその片隅で順番をじっと待っている。名前は呼ばれない。整理券に書かれた番号で呼び出される。40番の方、どうぞ。恰幅のいい初老の男性が立ち上がり、いそいそと受付へ向かう。手元の整理券の数字は42。あと二人だ。立て続けに呼び出しが掛かる。41番でお待ちの方、どうぞ。今度は枯れ枝のようにひょろ長い青年がゆっくりと腰を上げた。おぼつかない足取りで弱々しく歩くその様に老人たちのお喋りが止むが、それもほんのわずかな間だった。受付へ辿り着いた青年が看護婦に何度も頭を下げている間に、ロビーは元の喧騒を取り戻した。もう一度整理券に目を落とし、電光表示された赤い数字と見比べる。あと一人だ。42番が自分の名前。カバンを引き寄せ、いつでも立ち上がれるように身支度を整える。今日は何を先生に言われるのだろう。きっと、いつもと同じに違いない。具合がいいからといって、あまり無理をしないように。しかし、ここ最近は状態も安定していて、大きく体調を崩すこともなくなった。出される薬は緊急時の解熱剤だけ。それすらも、最近はめっきりと出番が減っている。いつかはこの病院通いからも解放される時が来るのだろう。早く、早くその日になればいいのに。その時、チャイムが鳴ってパッと電光表示が切り替わった。が、数字の代わりになぜか『鞠絵』と出ている。鞠絵さん、どうぞ。落ち着いたアナウンスが混乱に拍車を掛ける。どうして? わたくしは42番ではないの? 不安を閉じ込めるように、本を胸に抱いたまま勢い良く立ち上がる。
その途端、急に視界が開けた。目の前に兄がいて、覆い被せる格好で毛布を広げている。鞠絵と目が合うと、兄は気まずそうにはにかみ笑いを浮かべた。
「あ、兄上様……?」
「ごめん、起こしちゃったかな。そのままの格好で寝てると風邪を――」
兄の声がすうっと遠のく。耳を澄ませようとするが、急に耳鳴りが割り込んできて邪魔をする。声も出ない。口だけがパクパクと動く。
これが立ち眩みのせいだと気付いたのは、視界いっぱいの砂嵐を見てからだ。平衡感覚が急に失せ、血の気のすうっと引く感覚に合わせて四肢の力も抜けてゆく。
ハッと意識を取り戻したその時には、兄の腕の中で毛布に包まれていた。首を振って口を開こうとする鞠絵を黙らせると、そのままソファーに横たわらせようとする。身動きの取れない鞠絵は、大人しく身を委ねるしかなかった。
「大丈夫? 気分はどう?」
傍らに膝をついた兄が無遠慮に顔を近付けてくる。いつもなら飛び上がるぐらいに嬉しいはずなのに、さっきまでの自分が邪魔をして素直に喜べない。
「も、申し訳ありません、兄上様」
身体に自由が戻った途端、鞠絵は床に足を下ろして座り直した。
「そんなに無理しなくても。まだ横になってた方がいいよ」
「いいえ、もう全然平気ですから。ただの立ちくらみです。勢い良く立ち上がってしまったので」
「うん、確かにね。目を閉じてたのにいきなり起き上がるからびっくりしたよ」
「ですが、兄上様はどうして? 花穂ちゃんの練習に付き合っていたはずでは」
「もうとっくの昔に終わったよ」
言いながら、兄は近くに落ちていた毛布を拾い上げた。いつも自分が使っているチェック柄の膝掛けだ。
「熟睡してたみたいだから迷ったんだけど、やっぱり起こしてあげた方がよかったのかな」
「まあ、わたくしったら……」
鞠絵は頬が赤くなるのを感じた。もちろん風邪のせいなどではない。取りに行かせておいて自分は居眠りするなんて、ミカエルもさぞ呆れ返ったことだろう。だが、そのミカエルの姿がない。
「兄上様。ミカエルがどこにいるのかご存知ないでしょうか」
「えっ?」
兄は不意を突かれたように顔を上げた。
「えっと、何て言うかその、ミカエルは今ちょっと手が離せないらしくて」
彼にしては珍しく、あまり要領を得ない答えだ。鞠絵が怪訝そうに首を傾げると、たちまち兄の視線が泳ぎ始める。
「あー、うん。四葉に捕まえさせ……じゃなくて、捕まえられたんだ。ミカエルが」
「四葉ちゃんに、ですか?」
鞠絵は思わず目を見開いた。
「あの、本当に大丈夫でしょうか。ミカエルったら、四葉ちゃんだけは手加減しませんから」
「まあ、何だかんだで楽しそうだったからそんなに心配しなくてもいいと思うよ。うん」
それを裏付けるように、遠くからどたばたという物音が響いてくる。
あの二人(もしくは一人と一匹)は、ミカエルが裏庭に埋めた宝物を四葉が全て探し当てて以来のライバルだ。温厚なミカエルもこれには頭に来たらしく、四葉に対しては明らかに態度が違う。本気で噛み付くような真似こそしないが、ゴールデンレトリバーの体格を考えると何が起こってもおかしくない。
「では、この毛布は兄上様が」
「僕が頼んだ……いや、頼まれてね。ああ、もちろんミカエルにだよ」
「まあ。そうだったのですか」
「うん、そうだったんだ」
そう言ってにっこり笑うので、鞠絵はとりあえず頷き返すしかなかった。
「でも、あの子ったら兄上様に自分の仕事を押し付けるなんて」
「僕は全然構わないよ。鞠絵の役に立つんだから、むしろ望むところさ」
「わたくしの、役に」
胸がずきんと痛む。
「それに、たまにはミカエルだって遊ばせてあげなきゃ。ずっと鞠絵の傍にいるから、たまにはいい気分転換になるんじゃないかな」
「それは――」
どのような意味でしょうか、とは言えなかった。
当てつけのように感じ取ってしまう、自分の卑屈な心がたまらなく嫌になった。よりにもよって、兄上様の気遣いを疑ってしまうなんて。
「どうかしたの?」
「いえ、何でもありません」
鞠絵はかぶりを振って雑念を払い捨てた。
「それよりもこれ、兄上様からお借りしていた本です。すっかり遅くなってしまいました」
「ああ、やっと読み終わったんだね」
兄は差し出した本を受け取り、鞠絵の隣に腰掛ける。ソファーが揺れている間にほんの少し距離を狭めた。
「で、どうだった? 面白かった?」
「そうですね。面白い……というよりは、とても興味深い内容でした」
「その言い方だと老人日記の方が気に入ったのかな」
思い出すと急に恥ずかしくなり、鞠絵は曖昧な微笑みを返した。つい先ほどまで良からぬ妄想に耽っていたので、意識しない方がおかしい。
「気に入った、ではなく、気になった、と表現したほうがより正確かもしれません」
「やっぱり入院していたから? 看護婦さんって付きっ切りだったよね。この話みたいに」
「ええ、まあ、ナースコールで呼び出せましたから、それに近い状況ではありましたけど」
「じゃあ、色々とお世話してくれたんだ。薬を口移しで飲ませてくれたりとか」
兄がじりっと膝を詰める。
「あの、そういう場合は点滴や注射になりましたので」
「あ、そうか。口移しは衛生的にも問題があるよね。衛生といえば、その間のお風呂とかシャワーはどうしたの? 一緒に入れてくれたりした?」
「シャワーまではさすがに。蒸しタオルで身体を拭いてくださった程度です」
「足も? つま先まで隈なく?」
さすがの鞠絵もそろそろ我慢の限界だった。しかし、兄をたしなめようにも言葉が見つからず、鞠絵は無言で顔を俯かせる。
それで、ようやく兄も気付いたらしい。
「ご、ごめん。色々と変なこと訊いちゃって」
鞠絵が、いえ、と素っ気無く首を振るので、兄はさらにうろたえる。
「ごめん。本当にごめん。鞠絵を困らせるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。何て言うか、鞠絵のことをもっと知りたいって思って、それでついどうでもいい事を口走ってしまって。ホントごめん。お詫びに何でも言うことを聞いてあげるから、だから許してくれない……かな?」
ぺこぺこ頭を下げたり拝む真似をしたりととにかく必死なので、鞠絵は思わず吹き出してしまった。許しを乞おうと忙しなく動き続けるあたり、悪戯を咎めた時のミカエルによく似ている。
「そんなに謝らないでください。兄上様に悪気がないことぐらい、わたくし、ちゃんとわかっていますから」
「ホントに?」
パッと顔を輝かせるあたりもミカエルそっくりだ。鞠絵は笑いを堪えながら「もちろんです」と答えた。
「ああ、よかった。鞠絵に嫌われたら世界が終わるところだったよ。本当にどうしようかと思ったんだから」
「そんな。兄上様は大袈裟です」
やんわりと返しながらもつい頬が緩んでしまう。そして、これならもう大丈夫だと密かに安堵する。どうしてこんな本を読ませるのだろうと疑問に感じなくもなかったが、どうやら考え過ぎのようだ。
「その代わり、わたくしも一つだけよろしいでしょうか」
「うん、いいよ。何でも言ってみて」
「わたくしも変なことを訊くのですけど」
そう前置きして、鞠絵は兄の表情をちらりと盗み見た。
「どうして、わたくしのことをもっと知りたいと思われたのですか? あ、いえ、先ほど、兄上様がそうおっしゃられたので、それで少し気になってしまいまして」
途中、兄が不思議そうに首を傾げるので慌てて付け加えた。
「それはもちろん、鞠絵がどんな風に入院していたのか知りたくなったからだよ」
今度は鞠絵が困惑して首をひねる番だった。鞠絵の疑問を察してか、兄がさらに言葉を続ける。
「だって、面会謝絶の時期ってあったよね。半年ぐらいICUに入ってて、普通の病室に移ってからもしばらくお見舞いできなくてさ」
「確かにそういう時期もありましたけど、でも、どうして今になって……いえ、あの、どうか気を悪くなさらないでください。でも、どうしても気になってしまいまして」
「うーん、そんなに変かな」
ぽりぽりと頭を掻いた兄は背中を丸め、やや前屈みになって肩越しに鞠絵を見た。
「鞠絵はさ、入院している最中は周りの人に頼り切りだったよね」
「ええ。はい」
「皆、鞠絵のために尽くしてくれる。言わなくても何でもしてくれる。文句一つ言わずに」
鞠絵は、特に仲の良かった看護婦さんを思い出しながら頷いた。
「お母様は毎日来てくださいましたけど、でも、ほとんどの時間は看護婦さんにお世話されっぱなしで」
兄も「そうか」と頷き、床に一度目を落とした。
「それで、その時の鞠絵の気持ちはどんなだった?」
「えっ?」
「確かに看護婦さんは親切だけど、それはそういう仕事だから。本当は、心の中ではどう思っているのか」
「あ……」
それは鞠絵がいつも感じていることだった。病院だけではない。普段の生活においても。皆、自分が病弱ということで色々世話を焼いてくれる。でも、本当のところはどうなのだろう。ミカエルも兄もみんなも、主人だから姉妹だから仕方なく付き合ってくれているだけ……?
鞠絵は急に息苦しさを感じ、胸の上で両手を重ねた。
「それは――」
しかし兄は、もうしゃべらなくてもいいという風にかぶりを振った。
「僕も鞠絵と同じだよ」
わたくしと同じ――彼が何を言っているのか理解した瞬間、鞠絵は息を飲んだ。口を開き掛ける鞠絵を兄は再び首を振って制した。
「僕は皆が思っているほどいいお兄ちゃんじゃないよ。だから、あれこれとされるうちにだんだん苦しくなってしまう。僕は皆の期待を裏切っている、ってね」
「そんなことありません!」
鞠絵は思わず立ち上がっていた。
「兄上様は兄上様というだけで十分です。少なくともわたくしにはそうです。わたくしは、兄上様がいらっしゃったからこそ、こうして生きていられるのです。それに引き換え、わたくしなんて――」
「鞠絵」
いつの間にか立ち上がっていた兄がそっと肩を抱く。鞠絵はその手に逆らわず、大人しくその場に座り直した。
だが、鞠絵の心はそれで治まらない。
「ですが、兄上様は」
「僕は鞠絵が思っているほどいい人じゃないよ。今だってそうだ。鞠絵なら僕の気持ちを理解してくれるんじゃないかと思って、それでこれを貸したんだ」
鞠絵は兄の胸ポケットに刺さっている文庫本を見た。
「それは、どういうことでしょうか?」
すると、兄は鞠絵から手を離し、顔を俯かせて上目を使った。
「これ、他の子には言わないで欲しいんだけど……」
いかにもバツが悪そうな口ぶりに、鞠絵は首を縦に振るしかなかった。
「逆の立場になってみたいんだ」
「逆……ですか」
「される側だからする側に。つまりその、皆が僕にしてくれているみたいに、僕が皆にしてあげたいというか」
鞠絵の反応が鈍いのに焦りを感じたのか、畳み掛ける感じで一気に言う。
「鞠絵なら僕の気持ち、わかってくれるよね?」
「ええ、それはとても」
そう答えながらも、鞠絵はどこか違和感を覚えずにいられなかった。それならわざわざこんな回りくどいことをしなくても、いつものように振舞えばいいのに。例えば、さっき花穂にやってあげたように。
しかし兄は、鞠絵の内心に気付く素振りさえ見せず、満面の笑みを浮かべてこう告げた。
「じゃあ、僕に命令してみて。鞠絵の言うことなら何でもしてあげるから」
「はぁ……」
話が思い掛けない方に飛躍するので、思考能力が全く追い付かなかった。
「それは、文中の一節か何かでしょうか? だとしたら、わたくしが忘れているだけかも」
「いやいやそうじゃなくってさ。僕の言葉だよ」
「でも、それにしては少し的外れのような気が」
「そんなことないって。ちゃんと鞠絵に向けてるから。さっき、僕が言ったこと忘れてない? お詫びに何でも言うことを聞いてあげるから、って」
「お言葉を返すようですけれど、それはわたくしの先ほどの質問で帳消しになっているかと」
「あれは命令のうちに入らないよ。ノーカウント」
そう言って兄が手を取るので、鞠絵は口をつぐむしかなかった。視線から逃れるように顔をそらし、鞠絵はさっきの兄の言葉を反芻する。
「……命令というのは、わたくしが普段からミカエルに接しているときのあれでしょうか」
「もちろん」
「何でも、とおっしゃられましたけど、それは本当にどのようなことでもよろしいのでしょうか」
「うん、その通り。何でもOK」
顔を伏せていても、兄がどのような視線を向けているのか皮膚の感覚でわかる。これはミカエルが『おかわり』の解除を求めている時の眼差しだ。期待と焦燥感が混ぜ合わせになっている目。今のわたくしの目も、きっとそんなには変わらないはず。
何でもいいと言われてまず最初に思い浮かべたのは、瘋癲老人日記でのとある一幕だった。
死んでからもなお颯子の足に踏まれていたいと願うあまり、墓石へ刻む仏足に仕立てようと画策し始める老人。妻や息子の心配をよそに、霊園の下見をしに京都まで足を伸ばす。お供はもちろん颯子だ。京都へ嫁いだ実の娘はもはや障害物でしかなく、お付きの看護婦を奈良観光という名目で押し付けた後、ついに計画を実行に移す。
高級ホテルの和室で颯子と二人きり。足拓を採るために横たわらせ、墨を足の裏に塗りたくり、和紙をそっと宛がう。
硯を擦る音。筆先のしなる音。紙がめくれる音。
それら密やかな物音を想像すると、うなじの毛が逆立つぐらいに興奮してしまうのはどうしてだろう。破廉恥で不愉快極まりない二人。モラルも何もなく、欲望に身を委ね切っているというのに。
鞠絵はふと自分のつま先に目を落とした。片方の靴下が脱がされたままだったのをすっかり忘れていたのだ。
そして、そんな何気ない動きさえも兄は見逃さない。
「その足、どうしたの?」
「はい。あの子が悪戯をして」
「悪い子だな。それとも、よっぽど退屈していたのかな」
言いながら身体を折り曲げ、足元に顔を近付ける兄。その刹那、鞠絵の脳裏に予感めいた何かが浮かび上がる。この後、兄上様はきっとこう言われるはず――
「そうだ。せっかくだから、僕がこの靴下を脱がせてあげるよ」
予想通りの答えを得たので、動揺は最低限に抑えられた。「そうですか」と素っ気なく返す鞠絵に、兄がまたしても不安の色を見せる。
「ご、ごめん。靴下ぐらい自分で脱げるよね。うん。どうせなら、もっと別のことをやらせたいよね」
そして向けられる期待の眼差し。
鞠絵は迷っていた。
この場合、自分はどちらになるべきなのだろう。老人と颯子。する側とされる側。
そして今、自分は何をしたいのだろう。
兄上様をわたくしだけのものにしたい。でも、そんなわがままは許されない。兄上様はみんなの兄上様。けれど、そう言って何もしないでいるといつまで経ってもわたくしだけのものにならない。いつかどこかで踏み出さなくては。しかし、だからといって靴下を脱がせるのは違う。兄上様を足蹴にするなんて、そんな大それた真似ができるはずない。
揺れ動く鞠絵の心は、やがて本来あるべき方へと落ち着きつつあった。
だが、階段を下りてくる音が聞こえた瞬間、鞠絵の感情は即座に反転した。
「そんなこと、ありません」
鞠絵は首を横に振っていた。自分たちの仲を引き裂こうとする邪魔者をも否定するように。
「わたくしの靴下、脱がせてくださいますか」
自分でも驚くほどあっさりと口から流れ出た。それが嬉しくて、鞠絵の顔にたちまち笑みが広がる。
兄は目を丸くして鞠絵を見つめ返したが、すぐに気を取り直して鞠絵の足元に跪いた。
「もちろん。喜んで」
そう言うや否や、鞠絵のつま先をやんわりと持ち上げて自分の膝の上に導く。さするように足首へ指を這わせ、ゆっくりと靴下を引き摺り下ろす。誕生日プレゼントのラッピングを丁寧に解くように。何より、兄の表情がそう思わせてくれる。今までに見たどんな彼とも違う。心の底から喜んで、楽しんでいる。それはきっと、わたくしが兄上様の願いを叶えてあげたから。わたくしだけの兄上様。
緊張気味に背筋を伸ばしていた鞠絵だったが、慣れるに従ってソファーへ身を預けるようになる。片方の肘掛けに体重を乗せた格好だけ見れば、まさに女王様とその家臣といった態だ。
真っ直ぐに向かって来ると思われた足音は、さっきから階段を何度も上下している。来るのか来ないのか。ギリギリのスリルが鞠絵の心に更なる変化をもたらす。鞠絵は、はぁっ、と潤んだため息を漏らし、軽く顎を上げた。
「兄上様」
「何? くすぐったいの?」
「もし、可憐ちゃんたちに見られたとしたら、兄上様はどのように言い訳されるのですか」
しかし兄は、生返事を寄越すだけで鞠絵の方を見ようともしない。
「もちろん、わたくしをかばってくださいますよね」
焦れて足の指を動かすと、ようやく顔を上げて鞠絵を見た。
「妹の靴下を脱がせるのに言い訳なんていらないよ」
「そのようなことを言われると、きっとみんなにせがまれてしまいます」
「むしろ大歓迎さ。何なら、ミカエルの分もやってあげたいぐらいだね」
嬉々として言って、兄はまた作業に没頭し始める。
「もう、兄上様ったら――」
せっかく、わたくしだけの兄上様になったのに。
鞠絵の顔に落胆の色が浮かぶが、それはすぐに微笑みへと変わった。
自由な方の足をそっと持ち上げると、つま先をじりじりと近付けてゆく。
「ねぇ、兄上様……?」
そして彼が顔を上げたところで、おもむろに足の裏を押し付けた。
足を除けた後にどんな顔を見せてくれるのだろうと、胸をときめかせながら。
Next → 『白雪の場合』