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 〜 白雪の場合 〜


「おそばですって? ふふん。にいさまのハートは、姫特製の手打ちうどんでシコシコにしてあげるですのっ」
 威勢良く啖呵を切りながら、生地を作業台に叩きつける白雪。衝撃でボールや計量カップが小さくジャンプし、打ち粉の煙が、もふっ、と立ち昇った。
「さあさあ、姫のこの妙技。とっくりと拝みやがれっ! ですの」
 だらしなく広がろうとする生地を手早くかき集めて丸め、体重を乗せてぎゅっと押し込む。丸めては押し込み、押し込んでは丸める。それを繰り返すうちに、粉っぽかった表面がだんだん滑らかになってゆく。
「さぁ、とくとご覧あれですの。真珠のような生地の輝き、絹のようなこの美しさを。ほら、まるで姫そのもの。まっくろくろすけな誰かさんとは大違い、で、す、のっ!」
 最後の「の」のタイミングでもう一度生地を打ち付け、賛同を求めるように周囲を見渡す。
 が、返事はおろか人影さえない。代わりに犬影が見えたが、打ち粉を避けているらしくて遠巻きに座っている。手招きすると、捨て台詞のようにぶしゅんとくしゃみを鳴らして、リビングの鞠絵の元へ戻って行く。
 白雪はリビングで一人ぼっちだった。
 対照的に、ダイニングを挟んだキッチンからは歓声が聞こえてくる。恐らくは鞠絵を除く姉妹全員が終結しているのだろう。カウンター越しに千影の赤い髪が見えた。考えることはみんな同じなのだ。
 もちろん、白雪の思いも一緒だった。みんなの中に混じって、楽しくそば打ちできたらどんなに楽しいことか。
「年越しイコールおそばだなんて、前世紀の古臭いお話ですのに……」
 呟くと急に涙が出そうになり、白雪は唇を噛み締めた。
 事の発端は数日前。クリスマスの忙しさから解放され、ほっと一息ついている最中の出来事だった。
「少し、お話があるのですが」
 ソファーに寝転びながら創作おせちのレシピを練っていると、春歌がいつになく神妙な面持ちで近寄ってきた。
「どうかしましたですの?」
「実は、お正月のことで相談がありまして」
「いやーん、姫のレシピは絶対にひ・み・つ。だって、今回は姫と春歌ちゃんとで半分ずつの分担ですもの。あ、でもでも、姫のおせちは誰にも真似できないスペシャルだから、春歌ちゃんとは絶対に被らない自信がありありですの」
「それはもちろん。当然ですわ」
 春歌は一度咳払いして、ピンと背中を伸ばした。
「ワタクシのおせちは、お祖母さまから教わった正統派ですから。その点では、誰にも負けない自信はあります」
 強気の発言を受け、白雪も身体を起こしてソファーに座り直す。
「でも、にいさまが何て言うかしら。にいさまはいつも、姫の作った料理はすごくおいしいって」
「それはワタクシも同じですわ」
「じゃあ、お正月におせち料理でいざいざ勝負ですの」
「ですから、そこでお話が」
 春歌はさらに膝を詰めてにじり寄った。
「実は、そのおせち料理のことなのですが」人目を憚るように周囲の様子を窺い、声を顰める。「今年は、ワタクシ一人だけで作らせていただけませんか」
「……はい?」
「ですから、白雪ちゃんにはしばらく休んで頂きたいと」
 言葉の意味を反芻する暇もなく、立て続けに声を浴びせられる。
「事後報告になりますが、兄君さまの了承は既に頂いておりますので」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいですの。姫からお料理を奪うなんて、鞠絵ちゃんからミカエルを取っちゃうようなものですの」
「ですが、眼鏡がまだ残っております。それに、白雪ちゃんに休んでいただくのはあくまでおせち料理だけで――」
「どうしてですの? にいさまのお腹を満足させられるのは姫だけですのに。クリスマスだって、鳥の足が大好きなにいさまのために和風中華風フランス風イタリア風トルコ風インド風メキシコ風と七色も作って」
「それに加えてブッシュ・ド・ノエルとクリスマスプディングとシュトーレン」
 それぞれ、フランス、イギリス、ドイツのクリスマススィーツだ。
「兄君さまが心配しておられましたわ。白雪ちゃんが過労で倒れないかって」
「にいさまが?」
「ええ。兄君さまは白雪ちゃんの身体を大変に気遣われて、白雪ちゃんが束の間でも休めるよう、この年の瀬はワタクシ一人でおせちを作るようにと」
 兄を盾にされると口をつぐむしかなく、結局、そのまま押し切られてしまった。既に話をつけておいたのか、可憐をアシスタント代わりにキッチンをすっかり取り仕切っている。暇を持て余して寝転がっている白雪を見ても、誰も何も言おうとしない。これも事前の根回しが効いているせいだろうか。
 しかし、ちょっとぼんやりした感のある兄が自ら言い出したとは思いにくい。恐らくは春歌の方から話を向けたのだろう。勝手にシュトーレンを作ったことが気に食わないのか、それともドイツ風チキンの味付けが思い浮かばなかったことで腹を立てているのか。
 料理一筋の白雪に対し、春歌の多芸多才ぶりは姉妹の中でも群を抜けている。立てば薙刀、座れば茶道、歩く姿は掃き掃除、と何をやらせても万事そつが無い。白雪にしてみれば領空侵犯もいいところだ。わざわざこっちに攻め入ってこなくても、兄には十分アピールできるはずなのに。
「姫の年越しうどん、にいさまはちゃんと食べてくださるのかしら」
 キッチンの方向は相変わらず騒がしい。
 年越しそばのことは考えてなくもなかったが、手打ちを試みようなどとは思いもよらなかった。
 春歌はここでも準備万端で、材料はもちろんのこと、そば打ち用のお盆までどこからか借りてきたのだ。目に飛び込んでくる朱塗りは他の姉妹に対してのアピール力も抜群で、後はご覧の通り。季節柄の定番イベントであることも手伝い、手打ちうどんごときでは当て付けにもならない。
「だって、みんなも姫と同じこと考えているんですもの」
 自分の打ったそばを兄に食べてもらいたいのだろう。みんなの気持ちがわかるだけに白雪にはどうすることもできない。
 目の前の生地を軽く叩くが、十三人分の固まりはびくともしなかった。
「おうどん、もう出来上がりですか?」
 いつの間にかそばへ来ていた鞠絵が白雪の手元を覗き込む。ミカエルは相変わらず近付こうとしない。
「一応は、ですの」
「一応?」
「レシピ通りではこれで完成。手打ちうどんは捏ねれば捏ねるほど腰が出ますけど、あんまりやり過ぎると今度はおいしくなくなってしまいますし」
「難しいですよね。兄上様にはおいしいものをお出ししたいですから」
 心から同情するといった口ぶりだが、鞠絵の手は綺麗なまま。白雪は思わず首を傾げた。確か、ダイニングでずっと読書に耽っていたはずだ。
「鞠絵ちゃんは、向こうに行かなくていいですの?」
「えっ?」
「おそばを食べてもらわなくて平気ですの?」
 白雪が語気を強め、それでようやく後ろに振り返る鞠絵。だが、すぐにこちらへ向き直ってかぶりを振る。
「いえ。わたくしは別に」
「平気ですの?」
「ええ」
「一年に一回の年末ジャンボなチャンスですのに? いつもは姫たちのせいで、手作りお料理なんて作れませんのに?」
「平気です。だって、わたくしにはわたくしなりの長所がありますから。兄上様にはそれで十分」
 こともなげに答えるので、白雪は思わず言葉を失ってしまう。鞠絵のこの自信はどこから来るのだろうか。
 そういえば、最近の鞠絵は以前と比べてどこか様子が違う。控え目な態度は相変わらずだが、腰掛けるときに軽く胸を反らすようになったり、ミカエルに靴下を脱がさせるようになったりと、鞠絵のキャラクターらしくないとでも表現すればいいのだろうか、傍から見ていてちょっと危なっかしい。
 その時、キッチンの方で不意に歓声があがる。見ると、キッチンの人垣から半分ほど突き出た頭があった。
「あ、にいさま!」
 兄の頭はその中で右往左往を繰り返していたが、やがて弾き出されるようにしてキッチンを出ていった。その間、リビングの方には一度も目も向けずに。
「やっぱり、にいさまはおうどんなんていらないのかしら……」
 落ち込む白雪を前に無言で佇んでいた鞠絵だったが、やがておもむろに口を開いた。
「この生地、まだ未完成でしたよね」
「そうですけど、それが何か……?」
「でしたら、わたくしにいい考えがあります」
「はぁ……」
 手招きされるままに顔を寄せ、鞠絵に耳を貸す白雪。最初のほうこそ諦め切った表情を適当に上下させるばかりだったが、話が進むにつれてその顔がみるみる驚きと興奮の色に染まってゆく。
「ほ、本当にそんなことでにいさまが?」
「ええ、もちろんです。きっと、いえ、必ず兄上様は喰らい付いてきますから。そしてさらに、そこからこのように話を展開すれば――」
 二度目の耳打ちは白雪を動揺させるのに十分だった。
「ででででも、さすがにそれは姫でもちょっとできませんですの。にいさまをそんな風にするなんて」
「いいえ、そこで遠慮してはいけません。これも全てはうどんのため。兄上様に喜んでいただくため。……そうですよね?」
「……は、はいですの」
 がくがくと頷く白雪を見て、鞠絵はにっこりと微笑んだ。
「おいしいおうどん、楽しみにしていますからね」


 その場で足踏みするたびに足元の生地がむにゅむにゅとうごめく。雲の上を歩くとこんな感じがするのかしら。そう思わせるほどに、浮ついた感覚が奇妙だ。
 そして、浮ついているのは何も身体ばかりではない。
 手打ちならぬ足踏みうどんなら、全体重を乗せて捏ねることができるし、無理に爪先立ちしなくても作業できる。小柄な白雪にはうってつけの方法だ。
 だが、いくら合理的で一石二鳥だといっても、抵抗感がないといったら嘘になる。ポリ袋で幾重にも包んだとはいえ、食べ物を足蹴にするのはこれが初めて。しかも、後で兄に食べてもらおうというのだからその葛藤は相当なものだ。おいしさを追求するために倫理観を無視するのか。倫理を守るために粗末な食べ物で我慢せねばならないのか――実際のところ、改めて考えるまでもなかったのだが。
「でも、本当にこれでにいさまが来るのかしら?」
 鞠絵が言うには、こうしてうどんを踏み付けているだけでどこからともなく兄が現れるのだとか。さっきはその場の勢いで頷いてみたものの、改めて考えてみると実に奇妙な話だ。できることならあまり人目につかず、かつ、足がよく見える場所。
 白雪は踊り場で一人ぼっちだった。
 少し前まではミカエルがお義理で付き合ってくれていたが、今はその姿もない。他のみんなは未だそば打ちに夢中。
「そろそろ来てくれないと、姫もさびしいさびしい病になっちゃうですの」
 ぽつりと呟いたその時、階下の曲がり角からひょいっと兄の顔が飛び出た。
「にいさま!」
 思わず足を止める白雪だが、それを見て兄がぶんぶんと手を振る。
「あ、続けて続けて。僕には構わないでいいから。そのまま足踏みね」
「は、はい。わかりましたですの」
 足踏みを再開すると、兄は白雪の足元をじっと見つめたまま階段をゆっくりと上ってくる。
「それは何? そば?」
「いいえ、おうどんですの。年越しはいつもおそばだから、たまにはおうどんでもって思って」
「なるほど。さすがは白雪だね」
「にいさまは、おうどんは好き?」
「そうだね、うどんはやっぱり足踏みに限るね」
 その間も、兄の視線はずっと白雪の足に向けられたまま。踊り場まであと三段というところでしゃがみ込むと、目を床と同じ高さに持ってくる。
「きゃっ!」
 白雪は反射的にスカートを押えた。例によって膝上までのミニ丈なので、そのまま上を向かれると中が見えてしまいかねない。
「あのぅ……にいさま?」
「何? どうしたの?」
「姫の足、どうかしましたですの? さっきからずーっと見てばかりで」
「別にどうもしないよ。綺麗な足だなって」
「そ、そんな、にいさまってばホントにお上手なんだから……じゃなくて、ええと、そんなに近くですと、その、スカートとか色々とその」
「ああ、そんなことが心配なのか。大丈夫。そっちには全然興味ないから。見たいとも思わないし」
「……へっ?」
 兄はハッと顔を上げ、慌てて言い繕う。
「あー、いや、何でもない何でもない。ちょっとこっちの話。いいからそのまま続けて。ね?」
「……にいさまがそう言われるのでしたら」
 どこか釈然としないものを感じながらも、白雪は足踏みを続ける。恥ずかしいことに変わりはないが、よくよく考えてみれば兄がこんなに近くで見つめてくれているのだ。ある意味、手打ちそば組に勝ったともいえる。
 これも全ては鞠絵のおかげだ。恐ろしいことに、ここまでは彼女が告げた通りに展開しているのだ。これなら『二回目の耳打ち』もうまくいきそうな気がする。
 白雪はスカートをぎゅっと握り締めて決心を固めた。
「あ、あの……にいさま?」
 足に目を落としたまま、兄が「ああ」と生返事で答える。
「にいさまに、ちょっとしたお願い事があるんですの」
「どんなお願い?」
「おいしいおうどんを作るために、少し手伝ってもらえたら……って」
 おもむろに顔を上げた兄は、本当に不思議そうな表情を浮かべて白雪を見返した。
「僕が手伝うの?」
「そうですの」
「足踏みするの?」
「はいですの」
 すると兄は、急に表情を険しくしてまくし立て始める。
「そんなのダメだよ。絶対にダメ。僕が踏んだらまずくなっちゃう。白雪が踏んでこそのおいしいうどんなんだから。悪いけど、白雪の頼みでもそれはちょっと聞けないな」
「でも、おうどんの腰の強さは小麦粉のグルテンが肝心の要で、そのグルテンのためにはもっともっと強い力が必要ですの。姫のちっちゃな身体では全然――」
「だったらおいしくなくてもいいよ。僕は白雪が踏んで作ってくれなきゃダメなんだ」
 駄々っ子ぶりを見せる兄に面食らいながらも、白雪の耳は鍵となる台詞を聞き逃さなかった。
「――じゃあ、姫が踏みさえすればそれでOKですのね?」
 鞠絵に教わった通りに切り出すと、兄はミカエルのように小首を傾げた。
「竹馬のように姫がにいさまの足を踏んで、姫を乗せたにいさまがおうどんを踏めば、間接的にでも姫の足踏みうどんに――」
「いいの?」
 兄の反応は素早かった。
「も、もちろんですけど、でも、にいさまの方こそいいんですの? 姫がにいさまの足を踏むなんてやっぱりちょっと……って、あら?」
 目の前から兄の姿が消えていた。周囲を見回そうとしたその瞬間。
「ひゃんっ!」
 後ろから両脇の間に腕を通され、羽交い絞めの格好からそのまま身体を持ち上げられる。
「に、にいさま! いきなり何をするんですの? 離してくださいですのっ!」
「さぁ、僕と一緒においしいうどんを作ろうね」
 不意に拭き掛けられる優しげな声に、白雪は一瞬で骨抜きになった。後ろから抱きすくめられて、耳元へそっと囁かれて、今の二人は誰が見ても恋人同士のよう。
 踵が地に付いたと思ったらそこは兄の足の甲だった。小さな白雪の足は小指の一本もはみ出ることなく完全に納まっている。
「行くよ、白雪」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいですの」
 白雪はやんわりと兄の手を解いて、床の上に降り立った。
「どうしたの? まさかと思うけど、やっぱり気が変わっちゃったとか?」
「んもう、にいさまったら」
 白雪はスカートの裾を翻しながら振り返る。
「そうじゃなくて、もう一つだけ姫のわがまま……聞いてくださる?」
 上目で兄の反応を確かめてから、いきなりぴょんと抱きついた。ためらうことなく兄の足を踏みしめる。
「後ろからだなんて、ちょっと寂しいですの。どうせなら、にいさまの顔を見ながら、なんて……」
「ああ、そうか。それもそうだね。ごめんごめん」
 ややあって、兄の大きな手が白雪の背中とうなじに回される。
「こっちの方が姿勢も安定するし、力いっぱい足を踏んでもらえるよね」
 再び疑問が湧き上がるが、力強い二の腕に抱き締められているうちにだんだんどうでもよくなってきた。頭の先から足の下まで、全身で隈なく兄を感じていられるのだから。それに、足の骨のこの逞しさを知っているのは自分だけ。これも全ては鞠絵のおかげだ。
「ああん、もう。鞠絵ちゃんには感謝してもしきれませんですの」
「いやぁ、ホントにそうだね。言われるまま来てみてみたら、こんな年末ジャンボなチャンスが待ち構えてたなんて」
「……それ、どういう意味ですの?」
 兄はわざとらしい咳払いで誤魔化し、白雪をぎゅっと抱き寄せた。
「早くしないと来年になっちゃうよ。ほら、僕の足ごと力いっぱい。もっと踏んで。もっともっとだよ」
「ちょっ、ちょっとにいさま。い、いきなりそんな、激し過ぎるですのっ!」


「――というわけで、姫とにいさまの共同作業で作り上げた愛情たっぷりのスペシャルな年越しうどん。うどんなだけに、どーんどん召し上がれ、ですの」
 除夜の鐘が遠くから聞こえる中、笑顔を浮かべているのは白雪と兄の二人だけだった。他は皆、一様に眉間へ皺を寄せている。
「これ、ホントにうどんなの?」
「確かに腰はありますけど、これはさすがに」
「花穂ぉ、あごが疲れちゃって、もう限界……」
「まるでゴムをヌードルにしたみたいデス」
 率直な感想が言い交わされるが、もはや白雪の耳には届かない。一人、完全に別世界の人間だった。
「ほらほら、遠慮なんてなさらずに。まだまだおかわりいーっぱいありますのよ」
 一方、亞里亞はナイフとフォークを使った。





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