つまさきプリンセス 読み物TOP

サイトTOP

 〜 雛子の場合 〜


 雛子ちゃんは昔から不思議に思っていることがありました。
 大人はどうして『若い』ことばかり気にするのか、ということです。
 テレビの中では、デカチョーがヤマサンに向かって「あいつはまだ若いんだから許してやれ」と言っています。チャンネルを変えると、顔を真っ白に塗ったおばさんが若く見られるお化粧の方法というのを教えています。また別のチャンネルにすると、今度は若手お笑いタレントのネツアイがハッカクしてゲーノーリポーターにシャクメイのキシャカイケンをしています。顔に大きなほくろのある人が十歳も年の差があると驚いていましたが、雛子ちゃんとおにいたまはそれよりも離れているので、みんながどうしてそんなにびっくりするのかよくわかりません。
 テレビの中だけじゃなくて、ふつうの大人も『若い』ことばかり気にします。
 お正月に、咲耶ちゃんと二人でお年玉をもらいに行ったときもそうでした。去年も去年の去年もそのまた去年も会いに行ったおばさんなのに、咲耶ちゃんが「二十代でもまだまだ通用します」とウソをついて、みんなの分のお年玉をもらったのです。
 そのおばさんは、去年会ったときは三十九歳だと悲しそうに言っていたので今年はもう四十歳のはず。二十代じゃなくて四十代だよ、と本当のことを言おうとしたら、咲耶ちゃんが急に怖い顔になって雛子ちゃんの口を手でふさぎました。咲耶ちゃんはその帰り道に「大人の女の人は『若い』って言われると嬉しいものなの」と教えてくれましたが、雛子ちゃんにはよくわかりません。
「じゃあ、咲耶ちゃんは『若い』って言われたらうれしい?」
「んー、どうかしら。ちょっと微妙ね」
「どうしてうれしくないの?」
「だって、私まだ十代なのよ。そういうことを言われる年じゃないわ」
「でも、咲耶ちゃんは大人だよ」
「ヒナちゃんよりはね」
「それじゃあ、大人はどうして『若い』って言われたいの?」
「うーん、改めて言われると難しい質問ね。……若い方が綺麗だから、じゃないかしら。ほら、年を取ると皺だらけになるでしょ。お肌もガサガサになって、白髪も増えるし」
「じゃあ、咲耶ちゃんは大人になりたくないの?」
「それも微妙。もう少しだけ大人になったら、あとはそのままっていうのが一番いいかしら。やっぱり綺麗なままでいたいし」
「咲耶ちゃんは今のままでもキレイだよ」
「ありがと。でもね、今のままだとお兄様を誘惑するのに色々と足りないみたいなの」
「おっぱいとか? 男の人って、おっきなおっぱいが好きなんだよね?」
「ふふ、そうね。胸も大事だけど、胸以外にも色々とね。トータルで大人にならなきゃ」
「あっ! だから、イヨはまだ十六だからーって歌ってたんだね」
 イヨちゃんが十六で『まだ』なら、雛子ちゃんは『まだまだまだまだ』ぐらい大人に足りません。背伸びをしたらまだが一つ取れて『まだまだまだ』ぐらいになるかもしれませんが、でも、ずっとつま先で立っているのはとても大変です。
「ヒナは今すぐでも大人になりたいのにな」
 テレビを消した雛子ちゃんは、隣の亞里亞ちゃんのほうを見ました。亞里亞ちゃんは制服を着たまま、ソファーへ横になって眠っています。雛子ちゃんはもう着替えたあとでしたが、二人とも学校から帰ってきたばかりなのです。
「亞里亞ちゃん、亞里亞ちゃん」
 雛子ちゃんは亞里亞ちゃんの肩をゆすって起こします。
「亞里亞ちゃん、起きて。制服がシワになっちゃうよ」
 何度も何度もゆすって、それでようやく亞里亞ちゃんが目をさましました。あくびをしてからきょろきょろと見回して「姉やは?」と首をかしげます。
「千影ちゃんはまだ帰ってきてないよ」
「じゃあ、兄やは?」
「おにいたまは朝からお出かけしたまま」
「白雪ちゃんも?」
「今日はヒナたちだけが早かったの。みんなはまだ学校だよ」
 すると亞里亞ちゃんは、もう一度あくびをしてそのまま横になろうとします。雛子ちゃんはあわてて亞里亞ちゃんの肩をつかみました。
「ダメだよ、亞里亞ちゃん。お昼寝するんだったら着替えてからにしなきゃ」
「……どうして?」
「だって、制服がシワだらけになっちゃうよ。上着は明日もあさっても着ていくんだから」
「シワになったらお洗濯すればいいの」
「でも、今週のお洗濯当番は千影ちゃんだから、千影ちゃんが大変だよ」
「姉やだったら大丈夫。亞里亞のお願い、何でもきいてくれるもの」
 亞里亞ちゃんはそう言って、今度は背中からソファーに倒れます。雛子ちゃんが止めるひまもありませんでした。亞里亞ちゃんはたちまちぐっすりと寝てしまい、雛子ちゃんが何回ゆすっても声をかけても起きようとしません。
「もうっ、亞里亞ちゃんってば」
 こうなってしまったら仕方がないので、上着だけを脱がせて亞里亞ちゃんの身体にかけてあげました。もし風邪を引いたら、千影ちゃんがもっと大変なことになってしまうからです。
「いいなぁ。亞里亞ちゃんは」
 亞里亞ちゃんの言うとおり、千影ちゃんは亞里亞ちゃんに対してとてもやさしいのです。
 雛子ちゃんに対してもやさしい千影ちゃんですが、やっぱり亞里亞ちゃんだけは特別です。亞里亞ちゃんが何も言わなくても、最初からそう決まっていたみたいにどんどんやってしまうのです。
「でもね、ヒナはちっともうらやましくなんかないんだよ」
 千影ちゃんが亞里亞ちゃんにやさしいように、咲耶ちゃんも雛子ちゃんにやさしいですし、雛子ちゃんは亞里亞ちゃんのように何でもやってほしいとは思っていないからです。
 雛子ちゃんは、自分の身の回りのことはいつも自分でやっています。例えば、着替えのあとに脱ぎ終わった服を洗濯機に入れたりとか、ご飯を食べたあとにお皿をキッチンへ持っていったりとか。もちろん、咲耶ちゃんに手伝ってもらったりしません。
「だって、ヒナのほうが亞里亞ちゃんより大人だもん」
 でも、亞里亞ちゃんは雛子ちゃんと違います。誰かが――ほとんどの場合は千影ちゃんが――気付いてくれるのをじっと待つばかり。雛子ちゃんの真似をして動くことはあっても、自分の力だけでやろうとはあまりしません。
 そういう意味では、雛子ちゃんは亞里亞ちゃんよりずっとお姉ちゃんらしいといえます。
 そうこうしているうちに白雪ちゃんが大急ぎで帰ってきました。
「ただいまー、ですのっ」
 駆け足でバタバタと入ってきた白雪ちゃんは、亞里亞ちゃんが眠っているのを見て急に忍び足になりました。
「白雪ちゃん、おかえり」
「遅くなってごめんなさいですの。大急ぎでおやつを作るからもう少し待っててね」
「今日のおやつ、何? ヒナ、もうおなかぺこぺこだよ」
「じゃあ、すぐにできちゃうホットケーキにするですの」
 そう言ってからキッチンのほうに走っていく白雪ちゃん。亞里亞ちゃんが目をさまさないので、雛子ちゃんもその後を追いかけました。
 白雪ちゃんはおやつを作るのが得意なので、雛子ちゃんがお手伝いできることはほとんどありません。見ている間にどんどん準備をしていきます。といっても、粉を混ぜて生地を作ってフライパンを熱くするだけなのですが。
「ねぇねぇ、白雪ちゃん。ヒナが焼いてみてもいい?」
「それはダメですの。火を使ってるから、雛子ちゃんにはまだ早すぎますの」
「じゃあ、どれぐらいたったら?」
「もう少し大きくなったら」
「でも、白雪ちゃんは――」
 ヒナとそんなに背が変わらないのに、と言おうとしましたが、言うとすごく機嫌が悪くなるのでやっぱり止めました。今はかかとの高いスリッパのせいで白雪ちゃんのほうが頭半分ぐらい違うのですが、はだしになると実はあんまり変わらないのです。
「さ、雛子ちゃんはテーブルで座って待っててくださいですの」
「生地をまーるく流すぐらいならできるよ。前にやったことあるもん」
「フライパンはホットプレートと違いますの。雛子ちゃんがもう少し大きくなったら」
「もう少しって、あと何センチぐらい? 花穂ちゃんに追いついたら?」
「身長じゃなくて、年の話ですのっ!」
 とうとう白雪ちゃんを怒らせてしまいました。
「姫は中学生で、まだ小学生の花穂ちゃんや衛ちゃんより年上ですの。それなのに、並んで歩くと知らない人からはいつもいつもいーっつも姫のほうが妹に見られてしまって、同じぐらいに見られるのならともかく、卵もちゃんと割れない二人と一緒されるなんてそんなのおかしいですの」
「だけど、亞里亞ちゃんもキレイに割れないよ」白雪ちゃんがぎろりとにらんだのであわててつけたしました。「ヒナもちゃんと割れないけど」
「とにかく、姫のことをちゃーんと見てくださるのはにいさまだけですの。姫のこの小さな身体を後ろから前からと全身でやさしく包み込んで時には激しく、時にはもっと激しく、時にはもっともーっと激しく上下に……いやーん、もうっ! にいさまってば、は・げ・し・す・ぎ!」
 白雪ちゃんが腰をくねくねと振るのにあわせて、フライパンから煙がもくもくとのぼりはじめます。
「――白雪ちゃん、フライパンフライパン!」
 キッチンに駆け込んできて叫んだのは咲耶ちゃんでした。白雪ちゃんが慌てて火を止めたころには、キッチンじゅうががこげ臭くなってしまいました。
「あらあらあら、姫としたことがうっかりミスですの」
「どうしたの? 火事になったら大変じゃない」
 咲耶ちゃんはそこで初めて雛子ちゃんがいることに気づきました。雛子ちゃんと白雪ちゃんを交互に見た咲耶ちゃんは「邪魔しちゃダメでしょ」と、雛子ちゃんにだけ怖い顔をしました。「ガスコンロはホットプレートと違うんだから」
 しかられると思っていなかった雛子ちゃんは、くちびるをへの字に曲げてぷんぷんと怒りました。
「ヒナ、じゃまなんかしてないよ。お手伝いしようって思っただけだもん」
 咲耶ちゃんが白雪ちゃんのほうに向き直ると、今度は白雪ちゃんがくちびるをへの字に曲げてこう言いました。
「だって、雛子ちゃんと亞里亞ちゃんの二人分ならフライパンの方がずっと早いですの」
「亞里亞ちゃん?」
「向こうで寝てるよ」
 こげ臭いのがまだ届いていないのか、亞里亞ちゃんはソファーでぐっすりと眠ったままです。
「あら。まだ制服のままなのね」
「ヒナね、亞里亞ちゃんにちゃんと言ったんだよ。上着がシワになるから着替えてからお昼寝しようねって」
 すると咲耶ちゃんは何かに気づいたような顔になって、雛子ちゃんの頭にそっと手を置きました。
 ちょうどそこへ、可憐ちゃんと鞠絵ちゃんが帰ってきました。キッチンに入ってきたとたん、まゆげの間にシワができます。
「これ、何の臭いですか?」
「ホットケーキ、になるはずだったもの」
 まっさきに咲耶ちゃんが答えて、白雪ちゃんのほうに向き直りました。
「ところで、私たちの分ってあるかしら」
「もちろんですの」
 咲耶ちゃんは、今度は可憐ちゃんと鞠絵ちゃんのほうを向いてこう言います。
「二人ともお腹空いてるでしょ?」
「はい。一応は」
「半分ほど頂ければ、わたくしはそれで」
「じゃ、これで決まりね」
 パンと手を鳴らした咲耶ちゃんは、いつもの調子でみんなに指示を出し始めます。
「白雪ちゃんはそのままホットケーキお願いね。今からホットプレート出すのも面倒だから、可憐ちゃんも隣で焼いてもらった方がいいかしら。もちろんフライパンで。鞠絵ちゃんは食器とかお願いできる? ついでにバターとメープルシロップも」
「ねぇねぇ、咲耶ちゃんは?」
「私?」
 咲耶ちゃんは、腕組みをしていた手を雛子ちゃんの肩に乗せて、笑顔で言いました。
「私はヒナちゃんと一緒」


 二人がかりでも亞里亞ちゃんは起きなかったので、先に亞里亞ちゃんの着替えを取りに行くことにしました。こげ臭いのがダメでも、ちゃんと焼けた甘い匂いならきっと目を覚ましてくれると思ったからです。
「身長って、牛乳をいっぱい飲んだら大きくなるんだよね」
「そうね。カルシウムをいっぱい取ると骨の成長にいいみたい。牛乳の他にも小魚とか」
「じゃあ、白雪ちゃんって牛乳とか小魚とかって好きじゃないのかな」
 すると咲耶ちゃんは、雛子ちゃんの後ろに回りこんで、おんぶするときのように両腕を回してきました。
「さっきはごめんね。白雪ちゃん、お料理に関しては結構頭固いから」
「ううん。ヒナは平気だよ」
「ホントに? 無理なんかしなくていいのよ。さっきのは私が悪かったんだから」
「そんなことないよ。悪いのはヒナだもん。ヒナがまだ一番のおちびちゃんだから、白雪ちゃんもヒナの言うこときいてくれなかったの」
「んもう。そういうのを無理してるって言うのに」
 言いながら咲耶ちゃんが頭をなでてくれます。いつもならうれしいはずなのに今はあまりうれしくなくて、逆に少し悲しいぐらいです。
「でも、咲耶ちゃんがみんなの中で一番おっきいから、だからさっきは言うこときいてくれたんでしょ?」
「そんなことないわ。まだお兄様がいるじゃない」
「でもでも、おにいたまも咲耶ちゃんの言うことはちゃーんときくよね。いっしょにお買い物に行ったときとか」
「それはまあ、バーゲンなんて男の人には退屈だって思ったから。あんな修羅場にヒナちゃん連れて行けないし、ミスドで待っててね、ぐらいは」
「いいなぁ、咲耶ちゃんは。ヒナも早く咲耶ちゃんみたいになりたいな」
「そんなに急がなくても、いつかは私みたいになれるわ。姉妹なんだから」
 雛子ちゃんは急に悲しくなってしまって、逃げ出すみたいに咲耶ちゃんの腕から抜けました。
 咲耶ちゃんと初めて会ったとき、咲耶ちゃんは今の花穂ちゃんと同じぐらいの年でした。そのころはまだ、亞里亞ちゃんや可憐ちゃんたちとは会っていませんでしたが、ツインテールの短かった咲耶ちゃんのように、目がよくてまだメガネをかけていない鞠絵ちゃんや、あぶないからといって包丁を使わせてもらえなかった白雪ちゃんがいたはずなのです。同じ年で比べたら、視力は1.5でカッターを使って鉛筆を削れる今の雛子ちゃんのほうが少しだけ大人かもしれません。
 でも、雛子ちゃんはみんなの中で生まれるのが一番遅かったので、亞里亞ちゃんでも誰でもみんなお姉ちゃん。雛子ちゃんがどんなにがんばっても絶対にみんなを追い越せないのです。亞里亞ちゃんがどんなに甘えんぼさんだとしても、亞里亞ちゃんより背が大きくなったとしても。
「ヒナは今すぐ大人になりたいのに」
 今はまだ小さな雛子ちゃんは、咲耶ちゃんの腕があっという間につかまえてしまいました。


  *


 次の日も雛子ちゃんと亞里亞ちゃんだけが早く終わって、二人はいっしょに帰ってきました。
 昨日と同じようにテレビを見ながらみんなが帰ってくるのを待っていると、亞里亞ちゃんはやっぱり制服のままで眠ってしまいました。
「亞里亞ちゃん、亞里亞ちゃん。制服のままで寝たらダメだよ。着替えてからにしなきゃ」
 雛子ちゃんがどれだけゆさぶっても亞里亞ちゃんはなかなか起きようとしません。だんだんイライラしてきた雛子ちゃんは、おもいっきりふきげんな声でこう言いました。
「亞里亞ちゃん。ヒナの言うこときかないと、ヒナ、亞里亞ちゃんのことたたいちゃうよ?」
 すると、亞里亞ちゃんがうっすらと目を開けます。
「雛子ちゃんは、どうしてじいやみたいなこと言うの?」
「だって、亞里亞ちゃんがヒナの言うこときかないんだもん。亞里亞ちゃんこそ、どうしてヒナの言うこときかないの?」
「だって、雛子ちゃんはじいやじゃないもの。雛子ちゃんこそ、どうして雛子ちゃんの言うことをきかないといけないの?」
「どうしてって、亞里亞ちゃんはそんなこともわからないの? 制服がシワになるからって、ヒナは昨日も言ってあげたのに」
「昨日姉やに聞いたら、シワになったらいつでもお洗濯してくれるって。だから、このままでも平気なの」
「そんなのズルい!」イライラがガマンできなくなって、雛子ちゃんはとうとう叫んでしまいました。「ヒナはちゃんとおりこうにしてるのに、亞里亞ちゃんはいっつも姉や姉や姉やって。亞里亞ちゃんばっかりズルいよ。それに、昨日だって咲耶ちゃんに言われたらちゃんと起きたくせに。ヒナのこと、妹だからってぜったいバカにしてるもん」
 それでも亞里亞ちゃんは、目をこすってむにゃむにゃと言うばかりでちっとも起き上がろうとしません。
「甘えんぼで赤ちゃんみたいな亞里亞ちゃんなんて、ヒナがこうしちゃうんだから!」
 雛子ちゃんは亞里亞ちゃんの足をかかえて、強引に靴下を脱がせ始めました。亞里亞ちゃんはソファーにしがみついて足をじたばたさせますが、すっかり怒ってしまった雛子ちゃんの前ではほとんど意味がありませんでした。
「一人で着替えできない亞里亞ちゃんが悪いんだからね?」
 両方とも脱がせてしまうと、寒いのかこわいのか、亞里亞ちゃんは横になったままでぶるぶるとふるえていましたが、やがて、ひざを内側に曲げてウサギさんのように丸くなると、そのままの格好でまた眠ってしまいました。
「あっ、亞里亞ちゃん!」
 びっくりしたのは雛子ちゃんです。これで亞里亞ちゃんが怒って立ち上がってくれれば、雛子ちゃんとしては一応言うことをきかせたことになるのですが、無視されてしまってはまるで意味がありません。
「亞里亞ちゃん、亞里亞ちゃんってば。イジワルしたのあやまるから、ちゃんと起きてよ」
 本当に眠ってしまったのか、それとも亞里亞ちゃんなりにイジワルのお返しをしているのか、亞里亞ちゃんはやっぱり起きようとしません。
 肩をゆさぶりながら何度もあやまっているうちに、雛子ちゃんはだんだん腹が立ってきました。悪いのはどう考えても最初に言うことをきかなかった亞里亞ちゃんのほうなのに、どうしてこっちからあやまらなきゃいけないのでしょうか。
「もうっ! 亞里亞ちゃんなんか知らないんだから!」
 雛子ちゃんは脱ぎ終わった洋服などをくしゃくしゃとまとめて抱え、リビングを飛び出してしまいました。
「いいもんいいもん。ヒナのほうが亞里亞ちゃんよりずっと大人だもん」
 どすどすと大きな足音を立てながら、雛子ちゃんはお風呂場のほうへ歩いてゆきます。
「ヒナは大人だから、お洗濯ぐらいひとりでもできるんだよ」
 実は一度もやったことがないのですが、洗濯機の使い方はみんながやっているのを見て覚えています。洋服を中に入れたら、洗剤の粉をスプーンで二杯ふりかけてスイッチを押すだけ。あとは、洗濯機が止まったあとに物干しでかわかせばカンペキです。
「ちゃーんとお洗濯できたら、ヒナはもう大人だってわかってくれるの」
 咲耶ちゃんは「無理なんかしないの」と言ってあんまりいい顔をしないかもしれませんが、やさしいおにいたまならちゃんとほめてくれるはずです。思い浮かべるだけで、クシシシ、とひとりでに笑い声が出てしまいます。
 ところが、いざ洗濯機のスイッチを入れようというときになって、こまったことが起きてしまいました。洗剤が空っぽだったのです。
「うー、どうしよう。洗剤を入れないと、ヒナのブラウスも亞里亞ちゃんの靴下もキレイにならないよ」
 雛子ちゃんはあたりをきょろきょろと見回して新しいのを探します。春歌ちゃんのお買い物について行ったときに、何個もまとめてカゴに入れたのをちゃんと覚えているのです。十三人分のお洋服を毎日洗っているからといって、それが全部なくなってしまうとは思えません。
「あっ! あった!」
 ところが、洗剤の青い箱はタオルのしまってある棚の上に置かれてありました。雛子ちゃんはもちろん、おにいたまよりも背の高い棚です。
 雛子ちゃんはいっしょうけんめいつま先立ちしますが、小さな雛子ちゃんでは全然手が届きません。
「ヒ、ヒナは大人だもん。だから、ぜったいにぜったいに取るんだもん」
 と、そのとき。雛子ちゃんを追い越すように別の手がにゅっと伸びてきました。
「僕が取ってあげるよ」
 それはおにいたまの声でした。
「あっ、おにいたま!」
 おにいたまは洗剤の箱をひょいっと持ち上げたと思うと、伸ばしたままの雛子ちゃんの手にのせてくれました。
「はい、これ」
「ありがとう、おにいた――」
 お礼をいいそうになった雛子ちゃんは首をぶんぶんと横に振りました。今は全部自分でやらなくては意味がないのです。
「やっぱりダメ! ヒナが自分で取るんだもん」
「えっ?」
 洗剤を押し返されたおにいたまは不思議そうな顔をしています。
「だって、ヒナはもう大人だもん。だから、何でもひとりでやらなくちゃいけないの」
「どういうこと? よくわからないから、おにいたまに説明してくれないかな」
 そこで雛子ちゃんは、昨日からの出来事を最初から全部教えてあげることにしました。亞里亞ちゃんが着替えもしないですぐにお昼寝してしまうことや、それを注意してあげたのに全然言うことをきいてくれないこと。そして、イジワルな気持ちになって靴下をぬがせてしまったことも。
「ヒナ、まちがってないよね? イジワルしちゃったのはよくないし、あとであやまらなきゃいけないけど、でも、亞里亞ちゃんよりもヒナのほうが正しいんだよね? ね?」
「勝手に靴下を脱がせたのはダメだけど、他は雛子の方が合っているかな」
「うんっ、やっぱりそうだよね!」
 おにいたまに賛成されてうれしくなった雛子ちゃんは、その場でぴょんぴょんと飛びはねました。でも、すぐに悲しい気持ちになってしゅんとうつむいてしまいます。
「でもね、亞里亞ちゃんってばヒナの言うことぜんぜん聞いてくれないの。ヒナが妹だからって。それに、亞里亞ちゃんだけじゃなくって白雪ちゃんもそうなんだよ? ヒナがまだ子供だからって、フライパンでホットケーキ焼かせてくれないの。身長だけなら白雪ちゃんも小さいのに……」
「なるほど。それで」
 おにいたまはうんうんとうなずきました。
「でも、それは仕方ないことだと思うな。亞里亞も白雪も、だけど」
「どうして? だって、ヒナのほうが亞里亞ちゃんよりもお姉ちゃんっぽいのに」
 すると、おにいたまは腕組みをして、少し考えてからこう言いました。
「雛子は、自分で靴下を履いたり脱いだりできる?」
「くつした?」
 どうしてそんなことを聞くのかなと、雛子ちゃんは首をかしげました。
「ううん、ぜんぜん。ヒナはね、自分のことは自分でちゃんとやれるもん。……髪だけは咲耶ちゃんに手伝ってもらってるけど」
「誰かに履かせてもらいたいなーとか、考えたことない?」
「ううん。だって、咲耶ちゃんはそんなことしないんだもん」
 雛子ちゃんがそう答えると、おにいたまは一瞬だけ残念そうな顔をしました。
「そっか。じゃあ、やっぱり亞里亞のほうがお姉ちゃんだね」
「どうしてなの? 亞里亞ちゃんのほうがヒナよりもずっとずっとずーっと甘えんぼさんなのに」
 おにいたまはその場にひざをついて、ぷんぷんと怒りだした雛子ちゃんの頭をなではじめました。
「実はね、亞里亞はただの甘えんぼさんじゃないんだ」
 今度は雛子ちゃんが質問する番でした。
「どういうこと? だって亞里亞ちゃんは、千影ちゃんにいっつも手伝ってもらってばっかりなのに」
「そう見るのが普通だよね。でも、逆に考えてみるのはどうかな。亞里亞ちゃんが、千影ちゃんに手伝わせてあげてるって」
「ねぇ、おにいたま。イジワルしないでヒナにちゃんと教えて」
 雛子ちゃんはおにいたまの袖をぐいぐいとひっぱりました。
「だって、何でも自分でやるのが大人だよね?」
 するとおにいたまは、首をゆっくりと左右に振りました。
「普通の大人はそうだけど、もっと大人になって偉くなるとだんだん自分でやらなくなるんだ。例えば、そう……大きな会社の社長とか。座ったままでも『お茶』って言うだけで周りの人が持ってきてくれるし、車だって運転手さん任せだし」
「あっ、ヒナ知ってるよ。普通の人の行くファミリーレストランはそうじゃないけど、社長さんゴヨウタシのコーキューレストランはナイフやフォークが落ちたらお店の人を呼んで拾わせるんだよね?」
 そこまで言うと、雛子ちゃんはあることに気づきました。
「でも、それって亞里亞ちゃんとおんなじだね。亞里亞ちゃんは座ってるだけなのに、千影ちゃんが何でもしてくれるから……ありり? それじゃあ、ヒナよりも亞里亞ちゃんのほうが大人ってことになっちゃうよ?」
「そんなにびっくりするようなことじゃないよ。だってほら、咲耶だって皆の中じゃ一番年上なのに命令ばっかりで何もしてないし、鞠絵とミカエルもそうだよね」
「あ、そっか。おにいたまも同じだよね。晩ご飯のときはいつも最後のほうに来て、何もお手伝いしないで食べるから」
「いつも、ってことはないと思うけど」
 おにいたまはちょっとがっかりした感じで笑いました。
「とにかく、これでもうわかったよね」
「うんっ! 自分で何でもやる以外に、他の人に命令してばっかりでも大人なんだよね」
「そうそう、そういうこと」
 おにいたまはそう言って、床に直接あぐらをかきました。
「大人になりたいんだったら、早速おにいたまに命令してみない? どんな命令でもいいから」
「ヒナが、おにいたまに?」
「うん。例えば、おにいたまの足の上に座って『靴下を履かせて』って命令したらちゃんと履かせてあげるよ」
 雛子ちゃんはまた首をかしげました。
「何で? どうしてくつしたなの?」
「遠慮なんかしなくていいんだよ」
「ううん。そうじゃなくて、何でくつしたなの? くつしたぐらい一人でもはけるし、命令って他にもいっぱいあるよね?」
「雛子は大人になりたくないの?」
「なりたいけど、ヒナがなりたいのは亞里亞ちゃんじゃないの。咲耶ちゃんなの」
「で、でも、咲耶はいつもは何もしてないし――」
「そんなことないよ? 咲耶ちゃんは本当は何でもできるけど、みんなのためにわざとやらないだけだもん。咲耶ちゃんが本気を出したらね、白雪ちゃんよりもおいしいお料理が作れて、春歌ちゃんのお掃除よりも床をぴかぴかにしちゃうんだから」
「だけど、靴下も大事だよ? 足に合ったのを履かないとすぐに破れてしまうし、つま先にもよくないから」
 おにいたまはなぜか雛子ちゃんに靴下を履かせたがっています。いつもの雛子ちゃんだったらよろこんで『命令』しているところですが、今日ばかりは違いました。
「それはヒナがもっともーっと大人になってから。今は、普通に大人になりたいの」
「雛子はもう十分に大人だよ」
「あーっ! おにいたまウソついてる! さっきは亞里亞ちゃんのほうが大人だって言って、ヒナこと子供あつかいしたのに」
「そ、そうだっけ?」
「そうだよ。ヒナ、ちゃんと覚えてるもん。あとはね、『どんな命令でもいいから』って言ったのも覚えてるよ。だから、さっそくヒナの命令」
 雛子ちゃんは洗剤の箱をおにいたまに持たせて、棚の上を指差しました。
「最初は、その洗剤を元の場所にもどすの」
「せっかく取ってあげたのに?」
「いいから、ヒナの言うとおりにして。ほら、おにいたま。ぐずぐずしないの」
 咲耶ちゃんの真似をして腰に手を当てながら言うと、おにいたまは命令通りに、でも、ちょっと嫌そうに洗剤を置いてくれました。
「じゃあ次はね、たなの前でお馬さんのかっこうになって。ヒナが自分で洗剤を取るから」
「えっ?」
 おにいたまはびっくりした顔で雛子ちゃんを見ました。
「背中に乗るけど、大丈夫だよ。だって、ヒナはまだ子供でおちびちゃんで軽いんだもん」
「い、いいの?」
「命令してるのはヒナのほうだよ? 変なおにいたま」
「あ、そうか。そうだったね。まさか、雛子の方からそんなこと言い出すなんて思ってもみなかったから……」
 おにいたまはぶつぶつとひとりごとを言ってから四つんばいになりました。
「もういいよ。思いっきり踏ん付けて」
 さっきとちがって、おにいたまは何だかうれしそうです。
「う、うん」
 そんなおにいたまにちょっとだけ不安になりながら、雛子ちゃんはおにいたまの背中に乗ろうとします。まずは右足からそうっと。おにいたまの背中は大きくて広くて、ミカエルのように丸くなっていません。足の裏が全部背中にくっついています。
「もう片方もいくよ、おにいたま」
 雛子ちゃんは棚をつかんで支えにすると、勢いをつけて左足を上げました。両足で立った途端、おにいたまが「おうっ」と変な声を出します。
「おにいたま、大丈夫? ヒナ重くない?」
「だ、大丈夫。全然平気だから」
 平気と言っている割には苦しそうな声を出しています。
「ホントに大丈夫なの? おにいたま、はぁはぁ言ってるよ」
「そんなことないよ。ちょっと興奮してるだけだから。それより、背中の上をあちこち歩いてみて」
「どうして?」
「ほら、い、椅子とかの上に乗るときに、崩れないかどうか確かめるよね。そういう感じで踏み踏み」
「ふみふみって、こう?」
 雛子ちゃんはおにいたまに言われるままに背中の上を歩き回ります。足を動かすたびに「おうっ」とか「くうっ」という声が下から聞こえてきて、のぼったときにみしみしと鳴る古い階段のようです。
「おもしろーい。おにいたま、ホントの階段みたい。もしかして、『大人の階段のぼる』ってこういうことなのかな? ヒナはシンデレラじゃないけど」
「そ、そうだね。どちらかといえば、い、今の雛子は女王さま、かも」
「えーっ! ヒナは女王さまなんかイヤだな。だって、お話にでてくる女王さまはいっつもイジワルな役だもん」
「ご、ごめんごめん。それよりも雛子、そろそろ……」
 おにいたまが四つんばいの格好のまま、上を見ようとします。
「あ、そっか。ヒナ、早く洗剤取らなきゃ。ごめんね、おにいたま」
 おにいたまは返事する代わりに首を振りました。そろそろ本当に苦しそうです。
「もうちょっとガマンしてね、おにいたま。すぐに終わるから」
『大人の階段』の分だけ大きくなった雛子ちゃんですが、それでも棚の上にはもう少し届きません。つま先で立って、やっと指先が触るぐらいです。
「も、もうちょっと……もうちょっとで届くのに」
 つま先立ちで頑張っているうちに足元がぐらっとゆれて、雛子ちゃんは落ちてしまいそうになりました。
「もうっ、おにいたま! 今のおにいたまは階段なんだから、ぐらぐらでふにゃふにゃなのはダメだよ」
「……ご、ごめん。他のところはちゃんと、頑張ってるんだけど」
 おにいたまがそう言うと、足の下がまたちゃんとかたくなりました。
「そうだ、雛子。まだ届かない、だったら、ジャ、ジャンプしてみたら……? このままだと、おにいたま、もういってしまいそうで……」
「えっ? おにいたま、どこか行っちゃうの?」
「そっ、そういう意味じゃなくて、とにかく、早くしないとそろそろ限界が……」
「うん。ヒナ、ジャンプするね」
 雛子ちゃんは一度つま先で立ってから両手を伸ばし、洗剤の箱に狙いをつけます。本当にあとちょっとの距離です。
「行くよ、おにいたま。3、2、1、それっ!」
 うまく箱をつかんで着地したと思ったら、すとんと足元の落ちる感じがして、どすんと重いものの落ちる音がしました。
 下を向くと、おにいたまが腰だけを浮かせた格好ではいつくばっています。
「おにいたま、大丈夫? ケガしてない? 痛いところ、ない?」
 雛子ちゃんは背中から降りておにいたまの顔をのぞきこみます。おにいたまは雛子ちゃんに気づくと、うっすらと笑いました。
「雛子……洗剤は? 洗剤は取れたの?」
「うん、ちゃんと取れたよ。大成功だよ」
「……ああ、それはよかった」
「ねぇ、おにいたま。ヒナはもう、立派な大人だよね?」
「ああ、そうだね。ヒナは立派な女王さまだね……」
 女王さまじゃないよと言おうとした直後、おにいたまの腰が崩れて床の上にぐったりと伸び、それっきり返事をしませんでした。





 Next → 『鈴凛と四葉の場合』