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 〜 鈴凛と四葉の場合 〜


 ある週末のよく晴れた昼さがり。リビングの床に寝転がった鈴凛は、昨晩の夜更かしの分を取り返そうと、雑誌を布団の代わりに惰眠を貪っていた。
 南側に面したリビングには冬の低い日差しが奥まで入り込み、ストーブを点けなくても十分に暖かい。おかげで今はそれなりに人が集まり、暖かいを通り越して汗ばむぐらいになっている。加えて時計はもうすぐおやつの時間。キッチンから漂ってきたバターの香りが部屋の空気を常夏の楽園に染めていた。
 程なくして白雪の声が響く。
「みなさーん、お茶の時間ですのー」
 その呼び掛けにそれぞれが手を止めて立ち上がり、わらわらとテーブルを取り囲む。その中に兄の姿はない。もしこの場に居合わせたとしたら、素足を晒け出したまま眠りこけるなどといった愚行は思い付きもしなかっただろう。
『あの一件』以降、鈴凛の兄を見る目は厳しい。何しろ行為が行為なのだ。ミカエルにお手をしているのを見ただけで、また何か企んでいるのではとつい疑ってしまう。
「……アニキのバカ」
 鈴凛も大きく伸びをしてから、付箋だらけの雑誌を放り出して駆け寄った。
「今日のスィーツはマドレーヌですの」
「可憐も少しだけお手伝いしたんですよ」
 二人の差し出した皿には早くも人垣ができている。
「んー、いい匂い。食欲をそそられる香りね」
「ちょうど小腹が空いたところでしたわ」
 やや出遅れた格好の鈴凛は、隙間から手を伸ばすしかなかった。と、不意に足元で何者かが纏わり付いてくる。一瞬身構えるが、そんなわけないと思い直して目を下に向けた。
 見ると、ミカエルがお行儀良くお座りしている。鈴凛と目が合うなり、尻尾を振り回しながら忙しげに身じろぎした。
「何? ミカエルも欲しいの?」
「ダメよ、ミカエル。あなたは食べられないの」
 振り向きながら鞠絵が言い放つと、ミカエルは雷か何かで打たれたようにしゅんとうな垂れた。しかし、それでもなお諦めきれないのか、いかにも未練がましい面持ちで人間とテーブルの足を縫うように歩き始める。
「ねぇ、鞠絵ちゃん。ダメなのはわかるけど、ちょっと厳し過ぎるんじゃない?」
「そうでしょうか? わたくしとしては別に普通ですけれど」
「んー、何て言うか、前はもうちょっと優しかったような気がしてさ」
 鈴凛の指摘に対し、鞠絵は曖昧に微笑むだけだった。その笑みが妙にきな臭く感じられ、鈴凛はつと目を逸らせてしまう。
 最近の鞠絵はどうもミカエルに対して厳しい。以前はどちらかといえば放任がちでミカエルの好きにさせていた――それでも、並の忠犬よりは遥かに献身的だった――のが、今は鞠絵の側から率先して指示を与えるようになった。決して酷使しているわけではないが、以前が穏やかだっただけにその変化がより大きく感じられてしまうのだ。
「でも、少しだけなら構いませんよね?」
 割り込むように顔を突き出した春歌に鞠絵が頷き返す。
「ええ。ほんの少しだけなら」
「ですって。よかったですわね、ミカエル」
 春歌が欠片のついた指先をテーブルの下に潜り込ませると、足元でふぁさっと空気の動く気配がした。
「いつも思いますけど、ワタクシたちと同じものが食べられないというのは少し可哀想な気がしますわ。同じ屋根の下で暮らしていますのに」
「そうですね。でも、だからといって甘やかしていては結果としてこの子のためになりませんから」
「難しいよね、そこらへんは。人間と同じ食べ物が良くないだなんて、ミカエルにはわからないだろうし」
 鈴凛の言葉に鞠絵は静かに相槌を打った。
「ミカエルにはただの意地悪としか映っていないのでしょうけれど、長く一緒に過ごすためにも厳しくしなくては」
「そのうち、きっとわかってくれると思いますわ」
 言いながら春歌が眉根を寄せたのは、何も同情の念によるものばかりではなさそうだ。ぺこんぺこんと、舌で大きく舐め回す時の音が聞こえてくる。
「ヒナちゃん、亞里亞ちゃん。花穂ちゃんと衛ちゃんも。早くこっちにいらっしゃい」
 咲耶が不意に声を張り上げる。何事かとその視線の先を追うと、年少組の四人が床に置かれた何かを取り囲むように座り込んでいる。
「続きは後からできるでしょ。お茶が冷めちゃうから早く」
「まだダメ。亞里亞ちゃんが考え中なの」
 振り返りもせずに雛子が答える。鈴凛は俄然興味を掻き立てられた。
「あの子たち、さっきから何してるの?」
「チェスだ」
 唐突に口を挟んだのは千影だった。
「チェスって、あのチェス?」
「そうとも。盤上の格闘技たるあのチェスだよ。試しに教えてみたらたちまち上達してしまってね。今では私と対戦してもなかなかいい勝負をしてくれる」
 千影が言うからにはもちろん亞里亞しかいない。言葉の内容も含め、鈴凛は思わず唸り声を出してしまう。千影には悪いが、亞里亞の普段の言動を見る限りロジカルな思考が得意とは思えない。姉バカという可能性も十分に考えられる。
「へぇー、あの亞里亞ちゃんがね。ちょっと意外」
「いやに引っ掛かる言い方だね」
 さすがに千影は鋭かった。フンと鼻を鳴らして不快感を露わにする。
「嘘だと思うならその目で実際に確かめてくるがいいさ。ただし、亞里亞くんの邪魔はしないように。私の指示に従ってもらうよ。遠巻きにそっと眺めるんだ」
「はいはい」
 鈴凛は肩をひょいっと竦めた。そういうところがまさに誤解の原因となっているのだが。
「待ちなさい、千影」
 先導しようと前に出た千影の手を咲耶が掴む。
「手に持ったそれは何?」
 二人の間にたちまち不穏な空気が漂い始める。
「皿だが、それが何か?」
「ついでにマドレーヌも乗ってるわね」
「それぐらい、見てわかるだろう」
「で、これをどうする気?」
「きみの目は節穴かい? 持って行くに決まっているじゃないか」
「どこに? まさか、向こうに持っていくつもりじゃないでしょうね」
「雛子くんの分もちゃんとある。贔屓はしないよ」
「食べながらチェスをやらせる気? ダメよ、そんなお行儀の悪いこと」
「だからといって、空腹のまま続けさせるわけにいかない」
「さっきから言ってるじゃない。続きは後にしなさいって」
「熱戦に水を差すなど野暮の骨頂だ。それともきみは、サンドイッチの成り立ちさえも知らないのかい?」
「さっきの台詞、そのまま返すわ。マドレーヌがサンドイッチに見えるなんて節穴さんもいいところね。大体、油っぽい手で駒なんか触ったら後片付けが大変じゃないの」
「それはそれ、これはこれだ。とにかく、今の亞里亞くんにはマドレーヌが必要だ」
「何でそんなにマドレーヌに拘るのよ。いいから後にしなさいって」
「マドレーヌにはマドレーヌ分が含まれているんだ!」
 その瞬間、ミカエルを含む全ての視線が千影に集中した。年少組も肩越しに振り返ってこちらの様子を窺っている。千影は「何でもない」とでもいう風に向こうへ手を振り、視線の数をとりあえず減らした。だが、まだまだ咲耶たちが残っている。千影は取り繕うように咳払いする。
「あ、いや、その……何だ。いわゆるひとつのシュークリーム分みたいなものだ」
 呆れ顔の咲耶が無言で鈴凛に目を移す。横目で千影を睨むとそちらからは目配せが返ってきた。鈴凛はため息をつき、ぼりぼりと頭を掻く。
「ありなんじゃないの? ブドウ糖が脳の活動に欠かせないのは確かなんだし」
「ほら見ろ。私の言った通りだ」
「何がほら見ろよ。バカじゃないの?」
「はいはい。いい加減、その辺にしといたら?」
 鈴凛は仕方なく二人の間に割って入った。このままだと延々と続けてしまいかねない上に、残る姉妹たちはとっくにお茶会モードへ突入していた。この程度の口論など日常茶飯事で、皆の間ではすっかりお馴染みなのだ。
「どっちも大人げなさすぎ。アタシが言えた義理じゃないけど、もうちょっとお姉ちゃんとしての自覚を持ったらどう? 口喧嘩する方がよっぽど悪影響じゃない」
 二人は互いに「こいつのせいだ」と言わんばかりに睨み合い、やがてぷいっと顔を背けた。
 鈴凛はやれやれとかぶりを振ってから妹たちの様子をちら見する。こちら側の騒動には気付いていないらしく、人も駒もほとんど動きを見せない。
「よっぽどの熱戦ってワケね。なるほど」
 近寄ろうと身を乗り出すと千影に腕を掴まれ、その千影の腕を咲耶が取る。再び睨み合いを始めた隙に、鈴凛はこっそりとチェス盤に近付いた。そして、対戦の邪魔にならないよう、爪先立ちして真上から盤を覗き込む。キングの周囲を他の駒がびっしりと取り囲んでいるあたりはさすがと言うべきか。大方、キングが兄の代わりとか何とか吹き込まれたのだろう。
 何気なく眺めているうちに、鈴凛はあることに気付いた。四人は四方から盤を取り囲んでいるが、雛子と亞里亞、衛と花穂とでそれぞれ向かい合わせになっている。なおかつ、キングがいるのは雛子と亞里亞の側。つまり、この二人の間で戦いが行われているのだ。
 亞里亞の白い指が一際大きな黒い駒をつまみ上げたと思うと、雛子の側へ一直線に動かす。進路上にあったポーンをそっと押し退け、盤上から取り去った。大胆不敵なクィーンの単騎駆けに残る三人の表情が一様にこわばる――ん? 三人?
「うぅ、また取られちゃった」
「まだ大丈夫だよ、雛子ちゃん。ここのビショップでナイトが取れるから」
「でも、それだと亞里亞ちゃんのルークに取られちゃうよ。ほら、ここのルーク」
 しょげ返る雛子に対し、衛と花穂が口々にアドバイスを送る。しばらく考えた挙句に雛子が駒を動かすと、今度は一転して口をつぐむ二人。それでようやく違和感の正体に気付いた。
「ちょっ、これってまさか……」
 千影を顧みると、彼女が重々しく頷いて返す。これは亞里亞一人に雛子たち三人が立ち向かうハンデマッチなのだ。
 鈴凛は我知らず唸り声をあげていた。なるほど、道理で千影が姉バカと化すはずだ。どんな経緯でこの対戦が組まれたのかは知らないが、千影が遠巻きに見ているということは他ならぬ亞里亞自身の意思によるものか。
 しかし、盤上の攻防を見ているとそれも納得できてしまう。がむしゃらに敵の駒を追い回すといった初心者特有の動きは見られず、フェイントや焦らしを交えて巧みに雛子側を切り崩している。なかなかの試合巧者だ。ビショップを囮にクィーンで奇襲を掛けた一手に鈴凛は再び唸り声を出す。この実力なら三対一も当然だ。クィーンに拘りすぎるきらいはあるが、仮に自分とハンデ無しで戦ったとしても簡単には勝たせてくれないだろう。
「衛ちゃん、どうしよう。このままだと負けちゃうよ」
「うーん……あっ、この場所はどう? ナイトとルークと同時に狙えるし」
「そこはダメだよ。だって、亞里亞ちゃんがさっきからじっと見てるもん。今みたいに女王さまがぴゅーって走ってきて、また取られちゃうよ」
 最初のうちこそ微笑ましく見守っていた鈴凛だが、次第にイライラし始める。状況が不利なせいか、三人の頭には駒を取る以外の選択肢がないらしい。対する亞里亞の方といえばクィーンを中心にすっかり迎撃体勢が整っていて、このままではまさに思うツボだ。ある意味、黒い駒がよく似合っている。
 顔を上げて咲耶たちの方を見ると、千影と揃って首を横に振る。あくまで口出しは禁止らしい。鈴凛は仕方なく盤上に目を落とした。駒の数そのものは互角だが、戦況はどう見ても雛子側が不利。何より、ルークを二つとも失っている点が痛い。ルークは、キングと協調させれば単体でチェックメイトまで持っていける重要な駒。クィーンが残っていれば話はまた別なのだが――
「……あれ?」
 両者の駒を確認しながら、鈴凛は思わず目をこすった。雛子サイドの陣地に初期配置のままでクィーンが忘れ去られている。最強の駒がなぜ放置されているのだろうか。
「クィーン使えばいいのに」
 ひとりごとに真っ先に反応したのは花穂だった。
「あっ、鈴凛ちゃん」
 続けて残る三人が顔を上げる。
「鈴凛ちゃん、ジャマしちゃダメだよ。これはね、ヒナと亞里亞ちゃんのしんけんしょうぶなの」
 唇を尖らせながら主張する雛子。隣では衛が苦笑いを浮かべている。鈴凛は雛子に頷き返してから、猫なで声で疑問をぶつけた。
「でも、クィーンを使わないのって勿体なくない? 一番強い駒なんだしさ」
「やっぱり、鈴凛ちゃんもそう思う?」
 と、代わりに答えたのは花穂だった。
「花穂もね、クィーン使ったほうが絶対にいいと思うの。キングより強いし、キングと違って取られても平気だし」
「じゃあ、使えばいいのに。ハンデじゃないんでしょ?」
「うん、それはそうなんだけど」
 衛が意味ありげに雛子へ視線を移す。すると、雛子がそれに反発するように声を張り上げた。
「ヒナもそれぐらいわかってるよ。でもね、ヒナは女王さまが好きじゃないの。だって、王さまは一番えらくておにいたまなのに、女王さまはそれより強いんだもん。そんなのぜったいにおかしいよ。えらい人が一番強くなきゃいけないのに。みんなはそう思わないの?」
「それはそうだけど、でも、チェスはそういうルールなんだからさ」
「衛ちゃんの言うとおりだよ。どうしてもイヤだったら、クィーンを取られたら負けにするとか」
 衛と花穂がなだめに掛かるが、雛子はどうしても納得できないらしく、ぶんぶんと首を振り続けるのみ。一方の亞里亞はといえば、そんな三人の様子を不思議そうに眺めているだけだった。
「あーあーあ、ごめんごめん。もう口出さないからさ、うん。後は頑張ってね」
 気まずい空気と咲耶たちの視線に耐えかねた鈴凛は、謝罪もそこそこにリビングを飛び出した。直後、マドレーヌを食べ損ねたことを思い出すが今さら遅い。仕方なく、自分の部屋へ戻ることにした。おかげでこちらまでクィーンが嫌いになりそうだ。
「それにしても、クィーンの何があんなに気に食わないんだか」
 言葉の内容こそもっともだが、そこまで嫌うにしてはいささか弱い。それに、クィーンではなく『女王さま』という呼び方が少し引っ掛かる。
「女王さま、ね」
 口に出してみた途端、鈴凛は急に嫌な予感に襲われた。
 半月ほど前、脱衣室で兄が雛子に押し潰されるという事件があった。兄が踏み台の代わりになり、その上で雛子がバランスを崩したのだというが、今改めて思い返すといくつか思い当たる節がある。具体的に言うと、兄が言葉巧みに雛子をそそのかした上で自ら進んで踏み台になったのでは、ということだ――全く腹立たしいことに。恐らくは恍惚のあまりに女王さまとか何とか口走ってしまったのだろう。そうでなければ、雛子があんなにも『女王さま』という言葉に拘るはずがない。
 その可能性へ触れるにつれ、鈴凛の心は自己嫌悪に苛まれる。
 もしもあの時、彼の願いを文字通りに蹴り飛ばしていなければ、雛子に手を出すような真似はしなかったかもしれないのだ。あくまで、かもしれない、という仮定形なのだが。進んで資金援助をしてまで足を舐めようというド変態が、本当にそれだけで満足するかと問われれば限りなく自信がない。愛情表現の一つの形としてつま先に到達したのならともかく、彼の場合はただの足フェチという説が濃厚だ。完全に把握したわけではないが、姉妹のうちの何人かは既に何らかの被害を被っている……はず。亞里亞と白雪は自ら打ち明けているし、衛と春歌と千影はほぼ確実だ。あまり自信はないが、ミカエルに厳しく接し始めたタイミングからして、鞠絵も少し怪しい。もはや手当たり次第の様相を呈しつつある。
「……バカ」
 それはむしろ、自分に向けての言葉だった。
 鈴凛は疲労困憊といった態で大儀そうに手を伸ばし、ドアノブを回す。が、なぜかロックされていてビクともしない。カギは掛けなかったはずなのに。
 何度も試していると、ドアの向こうから人の動く気配がした。一瞬ビクッと身構えるが、驚きはすぐに苛立ちへと変わった。リビングにいた顔ぶれを思い出すまでもない。
「――誰デスか?」
「鈴凛に決まってるでしょ。アタシの部屋なんだから」
 限りなく不機嫌な声で答えるが、その程度で怯むような四葉ではない。
「ホントに四葉の妹の鈴凛ちゃんデスか?」
「はいはい、ホントのホントに鈴凛ちゃんですよ。……誕生日が一ヶ月も違わないんだけど」
「ホントのホントのホントに鈴凛ちゃんなら四葉のこの質問に答えられるはずデス。注意一秒、ケガ?」
「……生えない」
「やっぱり、四葉の妹の鈴凛ちゃんデス!」
 ドアがいきなり内側に開いたので、身体を預けていた鈴凛はもんどりうつように倒れる。しかも、こういう時に限って四葉の身のこなしが軽く、鈴凛はそのまま床に叩き付けられてしまった。
「鈴凛ちゃん、ひとりで何してるデスか?」
 その場にしゃがみ込んだ四葉が恐る恐る顔を覗き込む。もはや怒る気力もなく、鈴凛は床に倒れたまま四葉を睨みつける。
「……そっちこそ人の部屋で何してるのよ。それにその合言葉も」
「だって、二人だけのヒミツじゃないとホントに鈴凛ちゃんかどうかわからないデスよ」
「秘密も何も、レトロでクラシックなギャグじゃない。ちょっと頭を使えば誰にでもわかるんだし」
 万が一にも誤解されてしまったら後が面倒だ。もっとも、四葉の言葉を鵜呑みにする人間はほとんどいないのだが。
「ややっ、こんなことしてるヒマはないのデシタ。見つかる前に中に入ってクダサイ。早く早く!」
「どうせまた怪盗クローバー絡みなんでしょ。はいはい自演乙」
「今回はそんなのじゃないのデス。いいからはーやーくー」
「やだ。めんどくさい」
 ぐったりと横たわったままの鈴凛に対し、四葉は「これだから鈴凛ちゃんは」とか何とかぶつぶつ言いながら腕を掴み、ずるずると引き摺って中に連れ込んだ。そして戸口に張り付き、慎重に外の様子を窺ってからドアを閉めた。
「ふぅ。もう少しでバレてしまうところデシタ」
 寝転んでいても仕方ないので、鈴凛はよっこらしょと起き上がった。そして、窓際に広がる光景に思わず眉を顰める。
「……バレるって、何が?」
「それは鈴凛ちゃんにも秘密なのデスよ」
「そう? もうバレバレだと思うけど」
「そ、そんなハズはないのデス。じゃないと、鈴凛ちゃんのお部屋にセッティングした意味が――」
 向き直った四葉に対し、鈴凛は顎をしゃくって窓の方向を指す。そこには釣竿と滑車を組み合わせた仕掛けがセットされていた。竿の先は外に伸びていて、その上の軒先には金ダライが吊り下げられている。恐らく、釣竿の先と連動して落ちるようになっているのだろう。誰がどうみても罠だ。引っ掛かる方がどうにかしている。
「一応聞いてあげるけど、これは何?」
「うぅ……バ、バレてしまっては仕方ないのデス。これこそが美少女探偵四葉ちゃんが開発した対ミカエル用の……って、最後までちゃんと聞いてクダサイ!」
 胸を張って偉ぶる四葉を尻目に鈴凛はすっかり撤収モードに入っていた。
「二階からこんなもの落としたら危ないじゃないの。それに、何かの拍子に花穂ちゃんが間違えて引っ掛かったらどうする気?」
「それなら心配ゴム用なのデス。ゼッタイにミカエルしか引っ掛からないデスから。あ、ドッグフードでフィッシングするほど四葉は甘くないデスよ。ミカエルの習性を生かしたナイスでベリーグッドなトラップデスけど、花穂ちゃんなら間違えて引っ張っちゃうかもしれないデスね」
「はいはい、もうわかったからさ」
 またいつものが始まった、と何気なく窓の外を覗いた鈴凛は、仕掛けられていた『エサ』にさあっと顔色を失った。
「な、何よこれ……」
 それは紛れもなく靴下だった。鈴凛は思わずがっくりと膝をつく。四葉がどこまで知っているのかわからないが、これでは全く別のものが釣れてしまう。
「どうデスか? これだったらミカエルにしか通用しマセンよ」
 デザインから察するに恐らくは鞠絵のもの。無断で借用してきたに違いない。鞠絵のことだから笑って済ませてくれるとは思うが、それより何より気掛かりなのは彼の存在だ。
「最近のミカエルにはちょっと負けてばかりの四葉デスが、今回はいつもと違うのデス。四葉の部屋からならバレてしまうかもしれないので鈴凛ちゃんのお部屋から、しかも洗濯機から借りてきた鞠絵ちゃんの靴下には魅惑スメルがいっぱいで、並の犬なら絶対服従したくなること間違いなし。今日という今日はミカエルをギャフンと泣かせてみせるデス!」
「えーっと、あの、その……い、いくらなんでも靴下に引っ掛かるほどミカエルはバカじゃないって。いやいやホントに」
 引っ掛かるとしたらむしろ彼のほうだ。あの執着ぶりから察するに、16トンハンマーが吊り下げられていても果敢に挑むことだろう。靴下を手に幸せそうな死に顔を浮かべた轢死体を想像してしまい、鈴凛は心の中で頭を抱えた。
「だからさ、悪いことは言わないから絶対に止めたほうがいいと思う。って言うか今すぐ中止。ね? 今ならおやつのマドレーヌがまだ残ってるかもしれないし」
「どうしてそんなに靴下がダメなのデスか?」
「べ、別にそういうわけじゃないけど、だってほら、少し前に缶入りドッグフードの賞味期限切れを見破ったことあったでしょ? だから、この程度の小細工に引っ掛かるって思えないしさ」
 小細工呼ばわりされたのが気に入らないのか、四葉はますますムキになって反論する。
「そのリクツなら四葉のほうが正しいデスよ。臭いにビンカンだからこそ鞠絵ちゃんの靴下を用意したのに。最近の鞠絵ちゃんはミカエルにソックスハンティングさせてマスから絶対に引っ掛かってくれるのデス」
「そうは言うけどさ、ミカエルの脚力だったら靴下だけ持ち逃げされると思うよ。確実に罠にはめたかったら落とし穴にするとか。で、餌は普通にドッグフードで。これなら確実に足止めるでしょ? ね、そうしよそうしよ」
「鈴凛ちゃん……」
 不審げに目を細めた四葉がずいっと距離を詰める。
「四葉に何か隠し事してマセンか?」
 鈴凛はぎくっとして、詰められた分だけ後ろに下がる。
「き、気のせいよ気のせい」
「だけど、今ぎくっとしマシタよね? その態度がいつもの鈴凛ちゃんとゼンゼン違って怪しいデス。靴下より鈴凛ちゃんのほうが臭うデスね」
「そんなことないってば。四葉ちゃんのほうこそいつもより神経質なんじゃない?」
「ほら、やっぱり変デスよ。こんなときに四葉のことを『四葉ちゃん』って呼ぶなんて、鈴凛ちゃんにしては珍しいデス」
「そ、そうだっけ……?」
 言い訳すればするほど泥沼にはまり込んでゆく。おまけに今日の四葉は言うことがもっとも過ぎる。
「さあ、鈴凛ちゃん。素直にハクジョウするのデス。生えてない以外にもまだ秘密があるのデスか?」
「だからそれはただのギャグだって――」
 次の瞬間、何の前触れも無く軒先から金ダライの姿が掻き消え、わずかな間をおいて鈍い金属音が響き渡った。
「やった! ヒットしたデス!」
 確かめようと窓辺に駆け出す四葉。
 一方、鈴凛は焦燥感の頂点にあった。もしも彼が犯人だとしたら、間抜けにも金ダライの直撃で地面に伸びていたとしたら。……いや、ここは逆転の発想だ。要するに四葉にさえ知られなければいい――決断を下すまでに要した時間、わずかにコンマ数秒。
 四葉が下界を覗き込もうとしたまさにその時、鈴凛のタックルが四葉の下半身に決まった。二人はもつれあいながらバタリと倒れる。
「いっ、つつ……四葉ちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫デスけど……それよりどうして四葉の邪魔するデスか! いくら鈴凛ちゃんでもやっていいことと悪いことがありマス!」
「まあまあまあ、いいからちょっと落ち着いてよ」
 口でなだめながらも、両腕は四葉をしっかりと抱え込んだまま離さない。そんな鈴凛に四葉がぽかすかと拳を下ろす。
「いててて。痛い、痛いってば!」
「痛いのは四葉だって同じデス。それよりどうしてこんな事したデスか? 四葉が一週間も考えたスペシャルなプランだったのに、さっきからずっと四葉の邪魔ばっかりして……こうなったら、お返しに鈴凛ちゃんのも邪魔してあげるデス!」
「わ、わかった。わかったから、まずは大人しくしてよ」
 鈴凛をしがみつかせたままで床を這う四葉に、鈴凛の声は焦りを隠せなかった。体力や体格の差もあって普段なら易々と押さえ込めるはずなのに、つまりはそれだけ本気で怒っているということだ。四葉の矛先が逸れたのはいいとしても、今の四葉なら窓からPCを投げ捨てるぐらいはやりかねない。実に悩ましいところだ。兄の秘密に、果たしてそこまでの価値があるのだろうか。
 ハッと我に返ると、四葉が冷静な目で鈴凛を見下ろしていた。
「――やっぱりこっちが気になりマスね」
「わっ、外はダメだってば」
 鈴凛は慌てて四葉を抱き止める。が、四葉はぴくりとも動こうとしない。
「ど、どしたの?」
「……鈴凛ちゃんはどーしても窓の外を見せたくないみたいデスね」
「うっ……」
 鈴凛は言葉を失った。窮地に立たされたとか以前に、四葉に一本取られたことの方がよりショックだった。
「さあ、答えてくだサイ。窓の外には一体何があるデスか?」
「べっ、別に何もないわよ」
「じゃあ、鈴凛ちゃんのこの腕は何デスか? お口はウソつきでも身体は正直デスね」
「いやいやいやだってその、もしも何かあってからじゃ遅いでしょ? ほら、外は変質者がいっぱいで危ないって」
「んもう、四葉は雛子ちゃんや亞里亞ちゃんや花穂ちゃんとは違いマス!」
「そりゃ、並の変質者だったら平気だと思うけど、今回のはかなり手ごわいと思うから」
「手ごわいって、鈴凛ちゃんの知ってる相手デスか?」
「まあね。知ってるも知らないも、何たってあのア――」
 慌てて口をつぐむがもう遅かった。四葉がギラリと目を輝かせて顔を近付ける。
「今、『ア』って言いマシタよね?」
「そっ、それぐらい誰でも言うわよ」
「ホワイトを切ってもムダなのデス。四葉の地獄イヤーはちゃんとお聞き通しデスよ」
「それを言うなら『お見通し』でしょ」
「今はそんな細かいことはどうでもいいのデス」
「じゃあ、アでも何でもいいじゃない」
「それとこれとは話が違うの! ああん、もうっ。こうなったら最終兵器の登場デス!」
 堪え切れずに声を荒げた四葉は、おもむろに鈴凛の頭上のゴーグルを引っ掴んだ。四葉の意図を察知し、鈴凛の顔が一瞬にして青ざめる。ゴーグルのベルトにはゴムが仕込まれているので、限界まで引っ張ったところで手を離せば――
「四葉がゴーグルから手を離すほうがいいか、鈴凛ちゃんが四葉から手を離すほうがいいか……鈴凛ちゃんにアルティメイトな選択デス」
 そう言う間にもゴーグルはじりじりと引っ張られる。
「ちょっちょっちょっちょっと待ってってば。……冗談でしょ?」
「うーん、それは鈴凛ちゃんの心掛け次第デスねー」
 四葉の力ではもういっぱいまで引いたらしく、手の震えがゴムベルトを通じてこっちにまで伝わってくる。
「さぁ鈴凛ちゃん、答えてくだサイ。アで始まる鈴凛ちゃんとお知り合いの変質者って一体誰のことデスか? さあ、さあ、さあさあさあ!」
 震えが見てわかるぐらいに大きくなってきた。ゴーグルといっても、花粉症対策に使われるようなプラスチック製の安物とは訳が違う。質量と運動エネルギーの関係を持ち出すまでもなく、当たれば痛い。想像すると涙がにじみ出てきた。
「あ……あぅ……」
「あ……?」
「あ……ア、アンタッチャブル、とか……?」
 何をバカなこと口走ってるんだか、と即座に後悔するが、四葉の反応は意外なものだった。
「アンタッチャブルって、あのアンタッチャブルデスか?」
 興味津々という風に四葉は首を傾げる。
「えっ? ……いや、あの、その、アタシが勝手にそう呼んでるだけで」
 鈴凛はここぞとばかりに言葉を合わせる。実際にはタッチするとかしないとかいうレベルではないのだが。
「じゃあ、鈴凛ちゃんはいつからアル・カポネになったデスか?」
「エリオット・ネスのアレは全然関係なくて、ほら、その、何ていうか……そういう組織? ほら、アタシっていろいろな秘密抱えてるじゃない? メカ鈴凛の設計書とか」
「生えてないのも?」
「……とにかく、そういう秘密を狙う連中がいるってこと」
「つまり、MI6とかCIAとかそういうのデスね!」
 すっかりその気になって上の空状態の四葉。適当に相槌を打ちながら、その手からゴーグルを離させることに成功する。ほっと一息ついたのも束の間、四葉が再び直球を投げ込んできた。
「あ、でもでも、それと靴下とどういう関係があるデスか? そんなスペシャルなエージェントがこんなトラップに引っ掛かるなんて」
「それはその、アレに決まってるわよ……えーっと、その、そ、狙撃とか?」
 四葉がごくりと唾を飲む音が聞こえた。
「これはつまり連中のデモンストレーションなのよ。すごい遠くからでもこんな糸ぐらい簡単に撃って落とせる腕前だって」
「り、鈴凛ちゃん……」
 鈴凛を見つめる目がたちまち潤んだかと思うと、四葉がひしっと抱き付いてくる。
「えっ、ちょっ、どうしたの?」
「……ごめんなさい、鈴凛ちゃん。さっきはあんなこと言って」
「な、何が?」
「鈴凛ちゃんは四葉を巻き込まないようにと思ってずっと隠していたのに、四葉はそんな鈴凛ちゃんの気持ちに全然気がつかなくって。四葉にタックルしたのだって、スナイパーに撃たれないためデスよね?」
「もっ、もちろん当たり前よ。窓際なんて一番危ないんだから」
「それなのに四葉ってば鈴凛ちゃんの邪魔ばかりして……四葉は鈴凛ちゃんのお姉ちゃん失格デス」
 言いたいことはあるが、言うとまた収拾がつかなくなりそうなのでここは我慢した。
「――さぁ、そうとわかったらやることは一つデス!」
「四葉ちゃん、頭、頭」
 急に四葉が立ち上がるので、鈴凛は慌てて頭を下げさせた。
「やるって何を? わかってると思うけど、警察だけは勘弁ね」
「こういう時にコッカケンリョクがダメなことぐらい、ハリウッドで常識デスよ。だからこそ、四葉たちだけでどうにかする必要がありマス」
「『たち』って、アタシも含まれてる?」
「当たり前デスよ。四葉と鈴凛ちゃんのコンビならどんな敵が来たって大丈夫デス!」
 四葉は意気軒昂と宣言し、窓の外を指差した。
「というわけで、四葉はアンタッチャブルの尾行に行って来るので、鈴凛ちゃんは撃ち込まれた弾の痕を探してくだサイ」
「ちょっ、ちょっと待って」
 鈴凛は再びタックルをかまして四葉を押し倒す。
「んもう、どうして止めるデスか? 敵を知り己を知れば百点満点なのに」
 四葉は架空の強敵相手にすっかりやる気のようだ。一難去ってまた一難。まったく、どうしてこんなことであれこれ気を回さなきゃいけないんだか。それもこれも全てはあのバカのせいだ。人の気も知らないで、今頃はきっと戦利品にハアハアを息を荒げているのだろう。
「だから、外は危ないってさっきから言ってるじゃない」
「敵を知らないほうがもっと危ないデス。学校へ行ってる昼間に忍び込んできたらどうするデスか? お風呂に入っている最中やトイレの中も危ないデス」
「わかったからちょっと落ち着きなさいって。……ここはアタシが行くわ」
「そんなのダメデス。いけまセンデス。スニーク&チェキは四葉の得意技なのに」
「確かにそうだけど、でも、四葉ちゃんの身に何かあったら誰がアタシの秘密を守るの?」
 我ながら矛盾した言い分だと思うが、四葉の肩に手を置いてじっと目を覗き込むと、彼女は目をキラキラと輝かせながら頷き返した。
「わ、わかりマシタ。鈴凛ちゃんがそこまで四葉のことを思ってくれるなら……」
「いい? アタシが合図を送るまでじっとしてて。頭は低くして窓へ近付かないように」
「ラジャー! デス」
 四葉の敬礼に見送られ、鈴凛はそそくさと部屋を後にする。ピンチは切り抜けたといってもあの四葉のことだ。隠蔽工作を急ぐに越したはない。鈴凛は一足飛びで階段を駆け下りた。
 玄関で靴を履いていると、外から衛と花穂が連れ立ってやってきた。花穂はなぜか、鈴凛の顔を見るなり衛の背中に隠れる。
「あれっ、二人ともどうしたの? チェスは?」
「それなら亞里亞ちゃんの勝ちで終わったけど、鈴凛ちゃんこそどうしたの?」
「別に……ちょっと散歩だけど?」
「あ、そうなんだ。あはは、そ、そうだよね。そんなはずないよね」
 答える衛は、愛想笑いを浮かべながら花穂をかばうように中へ入っていく。怪訝そうな目で見ていると、衛があたふたと言い繕う。
「ところでアレってやっぱりミカ……あ、ううん。やっぱり何でもない。じゃ、じゃあボクたちはこれで!」
 と、二人はお風呂場の方へ去って行った。花穂は一言も喋らず仕舞いだった。
 何気なく見送った鈴凛だが、その目は衛のポケットからはみ出ていた何かを見逃さなかった。ついでに花穂がさりげなく自分の頭をなでていたことも。
「……まさか」
 踵を靴にねじり込むと、鈴凛は裏庭の現場へと急ぐ。
 そこにあったのは、大きく横滑りした足跡と人の形に凹んだ地面。近くには中心部の凹んだ金ダライが転がっている。
 程なくして得られた結論に、鈴凛はがっくりと膝をついた。
「ア、アタシの気苦労は何だったのよ……」





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