つんつん−1
「咲耶ちゃーん、いってくるねー」
 二階の廊下の窓から顔を出すと、玄関のポーチでは雛子が大きく手を振っていた。その隣では可憐と鞠絵も手を振っていたが、こちらは年相応に控え目な動きだ。
 咲耶がそれに応えて手を振ると、雛子は何度も飛び跳ねながらさらに大きく手を振るった。その様を見て、年長の二人がくすくすと笑う。
「そんなに飛び跳ねていたら疲れてしまって、すぐネムイネムイになってしまいますよ」
「そうよ、雛子ちゃん。今日はお兄ちゃんと一緒じゃないから、おんぶはしてあげられないのよ」
 なおも跳ね続ける雛子に苦笑しながら、二人がやんわりとたしなめた。
「だって、ヒナはうれしいことがあると、体が勝手にピョンピョンしちゃうの。今日は可憐ちゃんと鞠絵ちゃんに新しいお店へ連れてってもらって、新しいヌイグルミを買ってもらうから、だから、今はすっごくピョンピョンするの」
「だめよ、ヒナちゃん。ピョンピョンはお家に帰って来てからにしなさいね。今日は鞠絵ちゃんが一緒だから迷惑かけちゃダメなのよ」
 咲耶の言葉で雛子はぴたっと止まり、おずおずと鞠絵を見上げた。
「ゴメンね、鞠絵ちゃん。ヒナね、鞠絵ちゃんがご病気なの忘れちゃってた」
 一転してしょげかえった様子の雛子に、
「ううん、いいのよ。病気っていっても、お外を出歩くぐらいなら全然大丈夫。そのぐらいの体力がないと退院はできなかったと思うし、それにミカエルもついてるもの」
 鞠絵の後ろに控えていたゴールデンレトリバーが、同意するかのように一声吠えた。
「ヒナちゃんのこと、よろしくね。本当は私が連れてかなきゃいけないのに」
「いいえ、雛子ちゃんだったら大歓迎です。前から鞠絵ちゃんとお話してたんです。連れていったらきっと喜んでくれるって」
 可憐はそう言って鞠絵と視線を合わせ、お互いに微笑みかけた。
 こうして遠目から眺めると、この二人は本当によく似て見える。
 姉妹だから似ていて当たり前なのだが、あまり年齢差の無い十二人姉妹ともなれば、各々を取り巻く大人たちの人間関係は複雑怪奇なものとなる。十二人の中で同じ両親を持つ姉妹は何人いるのだろうか。
 血の繋がり云々を別にしても、可憐と鞠絵の間には共通点が多い。年齢相応の体形といい、フリルをふんだんにあしらったロマンチックなワンピース姿といい、二階からではとっさに見分けるのも難しい。鞠絵から眼鏡とミカエルを取り除けば、どこから見ても“本当の”姉妹だ。
「さあ、そろそろ行きましょうか。せっかくの休日がもったいないですわ」と鞠絵が促した。
「うん、いくいくいくいくー。ヒナ、欲しいものがいーっぱいあるの。えっと、新しいクマさんに、それと……」
「お洋服、でしょう? 本当はお洋服を買いに行くんですもの」
 可憐の言葉に雛子と鞠絵がうなずき、それを合図に三人は歩き出した。
 大きな身振りで話し続ける雛子に苦笑混じりで応える二人という構図は先ほどと変わっていない。あの調子が続くとしたら、可憐の負担は相当に大きくなるだろう。鞠絵に雛子を背負うだけの体力はなく、かといってミカエルの背中へ乗せるには雛子は大き過ぎる。今が冬で、犬ぞりでも引かせられれば話は別だが。
「私もついていけばよかったかな……」
 咲耶は窓枠にもたれかかってひとりごちた。
 途中で料理教室帰りの白雪と合流するとは聞いているが、やはり不安は残る。
 体力では可憐よりも白雪のほうがはるかに上だ。十三人分の料理を作るには相当のバイタリティが要求されるが、白雪はいとも簡単にやってのける。苦にする様子など見たことがない。
 問題はむしろ身長の低さだろう。頭の大きなリボンで誤魔化してはいるが、年下の衛には既に追い抜かされ、花穂とはほぼ横並び。雛子とは頭一つも差がないのだ。雛子の重さには耐えられても、あまり差の無い体格では背負おうにも無理がある。
 眠りこけた雛子の傍らで途方に暮れる三人の姿を想像し、咲耶の心はかすかに疼きだした。
 今なら走って追い付くこともできる。あの子たちが苦労するってわかってるんだから、ここは黙って見過ごせない。ここは長姉としての責任を果たさなくちゃ。それにお兄様もきっと誉めてくれるはず。『さすがは咲耶ちゃんだね』って。
 その一方でこうも思う。どうして私がそこまでしなくちゃいけないの。私が骨を折るのは少しでも長くお兄様と一緒に暮らすためであって、立派な“お姉ちゃん”になるためじゃない。他に適当な人間がいないから、仕方なく長姉の立場に甘んじているだけ。ドイツから来たばかりの春歌ちゃんや、陰気で根暗で何を考えてるのかさっぱりわからない千影に任せておけるわけないでしょう。“咲耶お姉ちゃん”はいつも皆のこと考えてるんだから、たまにはただの“咲耶ちゃん”でいたいの。
 考えながら、咲耶は窓縁に身体をあずけた。外へ投げ出された両腕はぶらぶらと動き、いたずらに空気を掻き回す。
 やがておもむろに窓を閉めると、自室に戻った。戸棚のビデオテープを手にし、リビングへと向う大階段に足を向ける。
 別に“はじめてのおつかい”というわけでもないし、雛子以外の三人はそれなりに分別のつく年齢だ。何かあった時に電話する程度の機転はあるだろう。ならば、このまま家に残っていたほうが何かと都合はいい。それに皆が出払っている今なら、気兼ねなくリビングのテレビを使うことができる。
 テレビはリビングに置いてある一台のみで、番組が重なった時に備えてビデオデッキが三台接続されている。もっともこの三台が同時に稼動したことはなく、その内の一台が料理番組を毎回欠かさず録画する白雪専用となっている。
 同居の際に兄が出した条件の中に『テレビは皆で使う一台だけ』というものがあった。顔を合わせる機会をできるだけ多く持とうという、兄なりの考えだったのだろう。もちろん、咲耶には否応もなかった。当初はチャンネル権絡みで争いになるのではと不安に思ったものだが、いざ蓋を開けてみればテレビは意外なほどに不人気だった。それもそのはず、兄と離れていた頃はテレビが最大の娯楽だったが、一緒に暮らす今では兄と過ごすひとときが何よりも楽しみなのだ。トランプやチェスが頻繁に登場する一家団欒はかなりアナクロ的ともいえる。
 そのおかげでテレビは今やちょっとした邪魔者扱いだ。皆がチェスを取り囲んではああでもないこうでもないと盛り上がっているところへ水を差すわけにもいかず、電源を入れる機会すら与えられない。誰もが楽しめるアニメ映画やサッカーの代表戦などは例外としても、それ以外はビデオが頼りだ。録画しておいても、リビングに誰かがいればやはり遠慮せざるを得ない。
 実際のところ、どうしてもテレビが見たいというわけでもない。学校生活をより円滑にするためにただ何となく、という程度のものだ。年齢の高低を問わず同級生と交わす会話のネタといえば、趣味に恋愛、テストの出来、そして昨晩のテレビ。
 咲耶にしてみれば飛車角落ちどころではない。歩だけで将棋をするようなものだ。極度のブラコンで有名な咲耶に今さら恋愛話が振られることはなく、趣味といえばファッション関連がほとんど。それも、どうすればより兄に気に入られるかを咲耶が一方的にまくし立てるのみで、会話として成立しているかは極めて怪しい。今思い返しても、自分によく友人がいるものだと不思議に思うぐらいだ。数少ない友人を手放さないため、手駒を増やしておくに越したはない。
 咲耶は指折り数え、家に残っている人数を確認する。
 可憐と鞠絵と雛子はついさっき出ていった。白雪はそれよりも前に出掛けている。花穂と衛、鈴凛と四葉はそれぞれ外出したのを確認した。鈴凛、四葉ペアには兄も同行している。事前の“談合”では今日が鈴凛の番だったが、どうも四葉が強引に割り込んだらしい。
 残るは三人だが、千影は例によって自分の部屋に閉じ篭っているだろうから、カウントに入れる必要はない。今朝も一人だけ朝食に遅れてきて、食べ終えるとすぐに引き上げていった。そしてお昼には降りて来ない。いつもの話だ。
 亞里亞は寝かしつけさえうまくできれば問題はない、はずだ。一度ぐずらせてしまうと、スローモーな挙動のせいで時間が際限なく奪われてしまう。リビングの陽だまりの中で眠っていることが多いので、今に限っては少しばかり都合が悪い。残る春歌は言えばわかる、話がちゃんと通じる相手なのでこれは本当に問題ない。
 これで邪魔は無くなった。全く理想的なテレビ日和だ。せっかくの秋晴れをテレビの前で過ごすというのも不健康な気がするが、こういう機会でもなければリビングのソファは一人占めできない。妹たちの目を気にすることなく、文字通りにのびのびできる。
 もう一つ、可憐たちを追わなかったのには理由がある。
 咲耶にはあの少女趣味な服がどうしても受け入れられないのだ。
 リボンやフリルを嫌っているわけではないが、流行の最先端を追い求めようとする咲耶にはどうしても古臭く思える。小さかった頃によそ行きとして着せられていたこともあり、後退や停滞といったネガティブなイメージを感じ取ってしまうのだ。
 物心のついたその時には一人出歩き、自分よりもずっと背の高い女の子たちに混じって服を選んでいた。背伸びし過ぎた買い物袋の中を見ては義母がため息を吐いていた記憶がある。
 ふと咲耶は思う。あの子たちの少女趣味は、姉である自分が先走りすぎた反動なのだろうか。
 咲耶は常に兄を追い続けている。
 しかし、咲耶がどれだけ走ったところで決して追い付くことはない。白いワンピースでモンローウォークをしてみせても、パンツスーツ姿でモデル歩きをしても、兄は黙ってただ微笑むばかりだ。手を差し伸べはするが、立っている場所からは決して動こうとはしない。あと半歩まで咲耶は近付ける。残りの半歩を踏み出そうとした時に“兄妹”という厳然たる壁が立ち塞がるのだ。
 咲耶は兄の隣に立ちたいと願う。半歩後ろ、妹という定位置ではなく、彼の隣で腕を取って歩きたいのだ。このままでも歩いてはいける。それはしかし、兄妹の絆にただ牽かれているだけにすぎない。
 そう、だからこそリボンやフリルは排除しなくてはいけない。
 いつの朝だったか、髭を剃る兄と鏡の中で視線が合った。一瞬驚いた表情を見せ、照れ笑いを浮かべながらも手を動かす兄に、咲耶は少なからず衝撃を受けた。兄はもうそんな年齢なのだ。リボンやフリルのままでは大人になれない。大人の男性と釣り合わない。
 早く、早く大人になりたい。大人になれば親の言い成りにならずに済む。誰にも邪魔されずに、干渉されずに、兄と二人だけで生きて行ける。
 だが、そのためには今の共同生活をできるだけ続けなくてはいけない。とりあえずは親元を離れることができた。今はさしずめ助走期間だ。自分の魅力を少しづつ、少しづつにアピールし、チャンスをうかがう。そしていつかは跳ぶ。
 だん、と踊り場の床板が鳴った。
 四段を一気に飛び降りると足への衝撃もさすがに大きい。つま先からじわじわと痺れが這い上がってきた。
 咲耶は足をかばうようにして、踊り場へ腰を下ろした。壁にはめ込まれたステンドグラスが咲耶を極彩色に染める。
 十三人による同居を始めてから一ヶ月半が経ち、表面的にはどうにか落ちついてきた。山と積まれていた些細な問題――生活習慣の違いによる摩擦――も次第に減り始め、率先して調停を引き受けてきた咲耶の負担も軽くなってきた。鈴凛の協力が無ければこれだけスムーズにはいかなかったはずだ。
 しかし、真に安穏とした生活の前にはまだまだ難物が多い。
 顔見せの段階が過ぎ、そろそろ自分のポジションというべきものが定まってくる頃だ。この家の中で自分はどのように振舞えばいいのか。誰に近付いて、誰を遠ざけるのか。自分のどの部分を表に出して、裏へ隠すのか。全ては兄の心を惹くため。それぞれの自己主張は今以上に激しくなるはずだ。
 中でも咲耶が気にしているのが春歌だった。
 大和撫子を標榜するだけあって普段の態度は丁寧そのものだ。兄はもちろんのこと、年上の咲耶や千影に対しても一定以上の敬意が表れている。突然増えた妹たちを前にしても丁寧な物腰に変わりは無い。万事につけて冷淡な態度をとる千影とは対照的だ。千影を鋭く尖った氷とするならば、春歌は穏やかにゆらめく炎に例えられるだろうか。
 ただ問題は、その勢いが時折強くなり過ぎることだ。
 祖母からきっちり仕込まれたとかいう家事全般は、とても高校生の仕業と思われないレベルだ。
 皆が手を抜いてしまいがちな掃除にしても、ホームドラマに出てくる典型的な姑よろしく、部屋の端を指でなぞっては汚れ具合を確認し、黙々と雑巾を掛けていく。それを見た他の妹たちが何も思わないはずがない。以降、掃除に手を抜く者はいなくなった。
 また、礼儀作法にも詳しい。座り方一つをみても、春歌のそれは背筋がピンと伸びていていかにも見栄えがいい。これがまた、崩した座り方が多数を占める中では一際目立つのだ。
 どちらにしても春歌は自らの態度で示しているだけで、何も言ってこない。ただ、それだけになおプレッシャーとして感じる部分はあるし、もう少し慣れてくれば実際に口へ出して咎めてくることもあるだろう。
 近くに立てばほんのりと暖かいが、不用意に近付くと強烈な照り返しを受ける。何もなければ穏やかだが、ひとたび風向きが変わればたちまちに煙たくなる。他の姉妹たちにとって、春歌の存在は焚き火にも例えられるだろう。多くの恩恵をもたらす一方で、わずかな油断が災害を招きかねない諸刃の剣。
 今のところはプラスの部分が大きく、これといった被害者も出ていない。ただ一人、白雪をのぞいては。
 厨房を唯一の拠り所としていた白雪にとって、春歌の来日は黒船の来襲に等しかった。『お食事は姫が全部賄うですの』と強硬に主張したが、兄によって退けられた。恐らくは白雪への負担を考えて春歌との分担制を取り入れたのだろうが、やはり白雪としては面白くないはずだ。突然湧いて出た姉に自分のお株を奪われるなんて。
 春歌の主張によるものならともかく、他ならぬ兄によって押しつけられたのだから白雪としては複雑だ。兄に直接不満をぶつけるわけにもいかないし、新参者との姿勢を崩さない春歌を邪険に扱うわけにもいかない。
 加えて、料理の腕前は折り紙付きときている。
 自由奔放なレシピの白雪とは系統が違い、春歌が作るのは基本に忠実な和食がメインだ。とはいってもドイツで使っていた食材は日本のそれとかなり違うらしく、必然的に白雪が即席講師となる。『さすがは白雪ちゃんですわ』と満面の笑みで返されれば、それ以上何も言えなくなってしまう。
 白雪の抱え込んだジレンマは相当なものだ。兄にも春歌にも矛先を向けられないとなると、あとは料理そのものへぶつけるしかない。ここで暮らし始めてからの白雪は今まで以上に料理漬けで、歩きながらでも常にレシピブックを眺めているといった有り様だ。彼女の熱の入れ具合は誰が見ても明らかのようで、今日のショッピングにしても気晴らしになればと可憐と鞠絵が誘ったものらしい。
 ただし、それはあくまで対処療法に過ぎない。原因を取り除かない限りはいつ白雪がパンクしてもおかしくはない。白雪自身の心の問題だけに、他人の咲耶には手の打ちようがないのだ。
 咲耶はぐったりと踊り場に倒れ込んだ。深呼吸を繰り返し、考え疲れた脳に酸素を供給した。吐き出した息で細かな塵が光の中に踊る。
 それにしても、と咲耶は思う。私はいつからこんなに悩むようになったのかしら。
 今までも悩みがなかったわけではない。むしろ、ずっと思い悩んでいた。どうすればお兄様を振り向かせられるのかしら。私一人だけのものにはどうしたらいいの? そして、もしお兄様と私が実の兄妹だったら私は……私は、どうするの?
「ああ、もう。何やってるのかなぁ、私」
 久しぶりに一人でのんびり過ごすはずが、結局はいつもと同じになってしまった。どうも、この屋根の下にいる限りは長姉という立場から逃れられないらしい。
 今から出掛けようかとも思ったが、あれこれ考えていたおかげですっかり気分が削がれてしまった。削られて痩せた箇所には代わりにやるせなさが降り積もる。
 一呼吸するごとに薄暗い感情が雪だるま式に増えていくのを感じた。次第に息苦しくなる。
 何度も喉を鳴らし、胸の奥底からこみ上げてくるものを押し戻そうとするが、咲耶の意思とは裏腹にそれは今にも飛び出しそうだった。
 咲耶はとっさに自分の首を両手で押さえつけた。
 本当は言いたくて言いたくて仕方がないのだ。考えていること、思っていることをパック詰めにしておくなんて全く性に合わない。昔のように、何でも生のままで出せればいいのに。
 姿を見た途端に駆け寄って、腕を取ってすがりついて、上目遣いで見つめて、そして囁く。ほんの半年前までは当たり前のようにしていたことなのに。一番上のお姉ちゃんになってしまった今ではもうできない。
 首に手を当てたままで上体を起こし、素早く辺りを見回した。誰もいないことを確認すると再びあお向けに寝転がる。
 今なら大丈夫。誰もいない。うん、大丈夫。……だから、言ってもいいよね。本当は言いたくなんかないけど、もう我慢できないの。ごめんさない、お兄様。でも、これはお兄様が悪いのよ。
 咲耶は大きく息を吸い込み、首から手を離した。
「お兄様のバカ!」
 予想よりも大きな声に一瞬後悔するが既に手遅れだった。
「バカ、バカバカバカバカバカ! お兄様のバカッ!」
 ずっと溜め込んでいただけにその勢いは凄まじかった。矢継ぎ早に言葉が飛び出していく。
「鈍感! にぶちん! 唐変木のスカポンタン! あんぽんたん! おたんこなす! お兄様のことだから、私がこんなに悩んでるなんて全然気付いてないんでしょ! もう、お兄様の大バカッ! ストレスでハゲちゃったりなんかしたら絶対に、一生責任取ってもらうんだから!」
 久々の開放感に全身が火照っていた。
 目を閉じて息を整える。何度も深呼吸をするうちに、後悔の感情がじわりと染み透ってきた。途端に胸の奥がちくちくと痛みだす。思わず両腕で自分を抱きしめた。
 一時の感情に任せて、私は何てバカなことをしたんだろう。よりにもよって、お兄様の悪口を大声で叫ぶなんて。もし、誰かに聞かれでもしたら――。
 悶々として寝返りを打った咲耶の目に、白い何かが写った。
 反射的に息を潜め、ゆっくりと静かに起き上がる。階段の下のほうに目を凝らすと、白いフリル地が廊下の角に這っていた。しばらくそのままで様子を見ていると、今度はゆるやかにカールした銀髪が次第にその姿を見せ始める。
「そこにいるの、亞里亞ちゃんでしょ? ドレスの裾が見えてるわよ」
 先手を打って咲耶が声を掛けると、銀色の髪はひくっと一度揺れた。
 やがて観念したかのように、亞里亞がそうっと半分だけ顔を見せた。フランス人形のようなドレスに身を包み、小さく鼻をすすりながらじっと咲耶を見つめている。
「ねえ。もしかしてさっきの、聞こえてた?」
 咲耶の問いに黙ってうなずく亞里亞。
 がっくりとうなだれては頭を抱える咲耶を前にしても、亞里亞は無言のままだった。
 何も言おうとしない亞里亞を不審に思い、咲耶は顔を上げた。
「どうしたの、亞里亞ちゃん? お腹でも痛いの?」
 今度は首を横に振った。
「それじゃあ――」
「あのね」
 蚊の鳴くような声で亞里亞が切り出した。
「さっきの誰にも言わないから、亞里亞のこと、叱らない?」
 思い掛けない亞里亞の発言に咲耶は面食らった。
「まさか、叱るわけないじゃない。むしろ叱られるのは私のほうなんだし。でも、どうしてそんなこと言うの?」
「あのね、じいやが『人様の秘密は軽々しく口にするものではありません』って言ってました。だから、亞里亞もさっきのことは誰にも言わないの」
「ふうん。なかなかいい事言うのね、その、じいやさんって。それで、亞里亞ちゃんは言いつけをちゃんと守るんだ?」
 咲耶の問いに亞里亞は、
「前にね、じいやの秘密をみんなの前でお話しちゃって、お尻叩かれたことがあったの。だから……」
 不安そうな表情を浮かべ、じりじりと壁に身を隠そうとする。
「うん、大丈夫よ。叱らない、叱らない」
「本当? 本当に叱らない?」
 と、亞里亞はなかなかに用心深い。
「じゃあ、亞里亞ちゃんはどうすれば信じてくれるのかな」
「え? あの、えっと……」
 意表を突かれたらしい亞里亞はたちまちに口篭もった。
 一部の例外を除き、亞里亞は自らの意思を明らかにはしない。自分の欲求や希望は口にするが、具体的に何をどうしたいのかが全く言えないのだ。寒ければ『寒い』と言うだけで、カーディガンを手渡せば首を横に振り、窓を全部閉めても首を横に振り、熱いココアを入れても首を横に振る始末。その時は結局、リビングに入ってきたミカエルへ抱きついて一件落着となったのだが、とにかく一事が万事こういう具合なのだ。テレパシーでも使わなければ到底やっていけない。フランスの上流階級で生まれ育ったというが、側に仕えていた人間の苦労ぶりがうかがえる。
 ちなみに例外というのは食べ物関連全般で、食材の産地などをリクエストしては厨房の二人を辟易させている。
 亞里亞はもじもじしながらあちこちに視線をさまよわせていたが、やがて、
「よく、わからない……」
 みるみるうちに表情が曇り、小さくしゃくりあげ始めた。
 咲耶は慌てて階段を駆け降りた。
 最近は亞里亞への問い掛けを意識的にしているが、まだこれといって目立った成果は出ていない。小学校も中学年という年齢になって、自分の意志を他者に伝えられないようではこの先が思いやられる。年下の雛子のほうがよほど大人びて見える。
 日本での生活にまだ慣れてないという言い訳もそろそろ通用しなくなる。通常の学校生活が送れないと判別されればまた厄介事が増える。
 今は少しでも亞里亞の成長を促さなくてはならない。咲耶の焦りは募る一方だった。
「ごめん、ごめんね、亞里亞ちゃん。別に亞里亞ちゃんを困らせようとしたわけじゃないのよ」
 亞里亞の前で膝立ちになった咲耶は、亞里亞の背中に腕を回してそっと抱き寄せた。やわやわと髪をなでるうちに亞里亞も安心したらしく、咲耶の肩に頭を預けてきた。
 長く雛子の面倒を見てきた咲耶にとって、この程度は別に何でもないことだった。しっかりと抱きしめ、自分が一人ではないと感じさせてあげれば、だいたいは泣き止んでくれる。咲耶自身の体験による対処法だ。悲しくて泣きじゃくっていたあの時、自分はどうしてもらいたかったのだろうか、と。
 それなりに大きくなった今の雛子にはあまり通用しなくなったが、どういうわけか亞里亞に対してはてきめんに効く。
 それどころか、亞里亞のほうから勝手にしがみついてくることもよくある。当初は年上に対して無差別に抱きついていたが、今では咲耶と春歌が主な標的だ。不思議とあまり兄には抱きつこうとしない。年長で甘えさせてくれるというのもあるだろうが、どうも身長の差がそうさせているらしい。亞里亞と並んで立つと、ちょうど心臓の位置に亞里亞の頭が来る。その点では千影も対象に含まれているのだが、よほど巧妙に立ち回ったのかうまく逃れたようだ。
 胸の中で喉を鳴らす亞里亞を見るたびに咲耶は思う。この子はどんな育てられ方をしたのだろう。
 母親とはあまり会えず、代わりにじいやと一緒だったとは亞里亞自身が話している。何かあるとすぐにじいやの名を持ち出すところを見ると、日常のかなりの部分を依存していたものらしい。亞里亞の呼び方からは初老あたりの男性と予想できるが、教育係を任せるにふさわしい人物だったとしても男性では母親の代わりが務まるとは思えない。
 亞里亞に不足しているのは、善悪の区別なく包み込んでは抱きしめることのできる存在なのだろう。つまるところ、それは母性なのだが。
「あの、咲耶ちゃん。これ」
 咲耶から身を離しながら亞里亞がふところから取り出したのは、白いレースのヘッドドレスだった。
「さっきの秘密にしてあげるから、亞里亞のおリボン、つんつんしてるのなおしてほしいの」
「つんつん?」
 怪訝そうな表情をする咲耶へ、亞里亞はさらに手のひらを突き出した。
「触ると痛いとか、そういうのじゃないのよね?」
 亞里亞はうなずいて、
「手じゃなくて、お鼻がつんつんするの」
 咲耶は亞里亞の手からヘッドドレスを取り、慎重に臭いを嗅いだ。香水のほのかなバラの香りの中に、ほんの少しだけ刺激臭が混じっている。とはいっても、言われてようやく気付くレベルだ。
「つんつんっていうか、確かに変な臭いはする、かな」
 臭いの正体を確かめようとさらに深く吸い込む。二種類が混じった何ともいえない臭いに思わず咲耶はむせ返った。咳を繰り返す咲耶の背中を亞里亞がそっとさする。
「大丈夫?」
「あ、うん。ありがとう、亞里亞ちゃん。それにしてもこれ、何の臭いかしら。ねえ、このリボンってどこにあったの?」
 咲耶の問いに、亞里亞は廊下の奥を指差した。
「リビング?」
「本当はね、お食事するテーブルに置いておいたの。でも、さっき見に行ったらリビングのほうに来てました。おリボンさんもつんつんが嫌いだから、きっとひとりでに飛んできたのね」
「じゃあ、リビングの空気がその、つんつんしてたってことなのね」
「うん。動く壁のすきまからどんどん入ってきてたから、亞里亞はすぐに逃げてきちゃったの」
 唸りともため息とも取れる声を出しながら、咲耶は腕組みした。
 亞里亞の言う動く壁というのは、リビングとダイニングを区切る間仕切り壁のことだ。暖房を使う冬場になれば出番もあるのだろうが、今はまだそういう時期にない。異臭を発生させている犯人も一応は気を遣っているらしい。
 ダイニングとキッチンで発生する異臭といえば料理関係がおおよそだろう。
 過去には白雪がドリアンを切り分けたり、四葉がイギリスから持ち込んだ缶詰を開けたという実績がある。ドリアンの悪臭は予備知識があっただけに防ぐこともできたが、四葉の缶詰はほぼ不意打ちに近かった。四葉の説明では向こうで比較的ポピュラーな食べ物ということだったが、その臭いは咲耶のヨーロッパ観を変えるに十分過ぎた。千影も含めた皆が蜘蛛の子を散らすように逃げたのに対し、春歌と亞里亞は平然としたものだった。
 しかし、白雪と四葉が不在となると、後はシチュエーションそのものが思いつかない。残っているのは千影と春歌だが、果たしてこの二人のどちらかが犯人なのだろうか。
「あの、咲耶ちゃん」
 考え込む咲耶の袖を亞里亞が軽く引っ張った。気付いて見返すと、亞里亞の視線は右手に握りしめたヘッドドレスへ注がれていた。
「ごめん。私ったらついうっかり」
 咲耶は慌てて亞里亞の手を取り、ヘッドドレスを握らせた。亞里亞は手の平で何度も皺を押し伸ばすと、鼻を近付け、やがて頬ずりを始めた。
「さて、これからどうしようかしら」
 と言い掛けた咲耶の目に、くるりと背中を向ける亞里亞の姿が目に入った。
「亞里亞ちゃん、おリボンのつんつんはいいの? お洗濯とか」
 その声で亞里亞は振り返り、にっこりと微笑んだ。
「咲耶ちゃんの匂いでつんつん消えちゃったから、もういいの」
「私の匂い?」
 咲耶が自らの手や腕を嗅いで確かめている間に、亞里亞の足音は二階へと消えていった。


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