つんつん−2
ソファーへ投げ込んだビデオテープは、ぼよんと一つだけ弾んですぐにおとなしくなった。
そんな様を見届けて、咲耶は間仕切り壁を押し開く。そして何気なく深呼吸をし、思い切りむせた。
リビングへ足を踏み入れた時には特にこれといった臭いを感じなかったので、亞里亞が敏感過ぎたのだろうと油断したのが悪かった。気管から全身へと、突き刺すような痛みが拡散していく。
手を口に当て、咲耶はその場へしゃがみ込んだ。空気が気管を行き来するたびに、焼けつくような痛みを感じる。何度も目をしばたたかせるうち、涙が頬を伝わり落ちた。
「まあ、咲耶さん。どうかなさいましたか?」
スリッパが床を擦る音に顔を上げると、そこには春歌の顔があった。紺色のワンピースの上から割烹着を羽織り、腰をかがめて咲耶の様子を心配そうにうかがっている。
「大丈夫ですか」
咲耶の苦しむ様子を見かねてか、春歌が咲耶の背中をそっとさすった。彼女の手が何度か往復するうち、咲耶の苦しさも次第に治まってきた。
「ねえ、春歌ちゃんは平気なの。これ」
「何が、ですか?」
何を言っているのか理解できないという風に、春歌が首を傾げる。
「この部屋、すごい臭いしてるじゃないの」
春歌は形の整った鼻を二度三度と動かして、
「ああ、それは即席のザワークラウトを作っているからですわ」
それって何? と聞こうとした拍子に大きく息を吸い込み、咲耶は再びむせ込んだ。
「咲耶さん、今は無理に喋らないで。今、お水をお持ちしますから」
春歌はそう言い残し、来た時同様に素早い摺り足で去っていった。
喉を鳴らしてグラスをあおるごとに、水の冷たさが喉の不快感を洗い流していく。
グラスをテーブルに置き、咲耶は大きく一息ついた。
「ふうん、キャベツの酢漬けね」
椅子の背もたれに身体を預けて咲耶が言う。
「ええ。日本語に直訳すると『酸っぱいキャベツ』ですわね。でも、本当は何ヶ月もお塩で漬け込んで、じっくりと作るんです。今のようにお酢を煮立てて作るのは即席の作り方で、お味もちょっと違ってきますけど、その、こちらに来てからずいぶん経ちますし――」
「懐かしくなった?」
「ええ、まあ……そういう感じでしょうか」
咲耶の対面に座った春歌はキッチンの方をちらりと見やった。
明朗快活な春歌らしからぬ歯切れの悪さを、咲耶は少しだけ不審に感じた。
「あー、何となくわかるな、それ。日本人が海外へ行くと、梅干しとかお味噌汁が懐かしくなるってやつね」
「そう、ですわね……」
春歌の表情が曇る。今の例えはまずかった。梅干しではなく酢キャベツを懐かしく思う春歌は日本人じゃない、と言っているようなものだ。
咲耶はあわててフォローを入れる。
「あ、ねえ、そのザワークラウトってどういう食べ方するの? お漬物だから梅干しみたいに……って、ドイツじゃお米は食べないんだっけ」
「わたくしの家庭では毎日必ず一回は食べていましたけど、向こうの方々にはあまり一般的ではありませんわね。デザートなどで食べたりしますけど」
「へぇ、お米をデザートに」
よほどに奇妙な顔をしていたのか、春歌がくすりと小さく笑った。
「ミルヒライスって言いまして、牛乳で炊いてお砂糖やシナモンで甘く味付けしていただくんです。確かにおいしいのですけど、わたくしにはやはり普通に炊いた方が好みですわ。日本人はやはり、ご飯に梅干しと決まってますものね?」
「そ、そうよね。日本人はやっぱりご飯に梅干しね」
身を乗り出して殊更に同意を求める春歌の気迫に、咲耶は何度も繰り返しうなずいて追従する。
『日本人』の部分を強調しているのは咲耶の気のせいばかりではない。咲耶にしてみれば、ドイツに住み暮らしていた春歌がドイツの食べ物を懐かしむのは当然とばかり思っていたのだが、どうやら違うらしい。誰よりも日本人であろうとする彼女にはよほど気に触れるものだったようだ。
咲耶が日頃から疑問に思うのはその点だ。なぜそこまで日本人であることにこだわるのだろうか。己の出自を明かにするため、異文化圏内で過剰気味に振舞うのは理解できる。
だが、来日してからもとなると話は違ってくる。
同じ帰国子女である四葉や亞里亞が現地での生活に順応し切っているのに対し、春歌は頑なまでに己のスタイルを守り通している。和装中心の私服、伝統芸能を主とした習い事、そして、大和撫子を自ら標榜する言動。時代にそぐわない様式を執拗に守り続けること自体が、『和』という言葉から逸れているように咲耶には思えるのだ。
「では、試しに食べてみませんか? ご飯にはあまり合わない味ですけど」
春歌は咲耶の返事を待とうともせずに、椅子から立ち上がった。
「さ、どうぞ召し上がれ」
差し出された小皿には、しんなりと横たわったキャベツが小さく盛られてある。キャベツは生で食べる主義の咲耶は少し躊躇いながらも一切れを口にした。
「あの、どうですか」
春歌は割烹着の裾を不安げに揉みしだく。
「酸っぱい」
噛むたびに広がる酸味に顔を顰めながら咲耶が答える。
「咲耶さんって、酸っぱいのは苦手でしたか?」
「そんなことはないんだけどね。さっきの咳で喉にしみるから、それでちょっと辛いだけ」
春歌はうっすらと微笑み、少し安心した風で腰掛けた。
「でも、本当はお塩にじっくりと漬け込むものですから、本当のお味とはいえませんわ。だからといって輸入食材店の瓶詰めでは物足りませんし……」
誰に話す風でもなく、あらぬ方向を向いて春歌はひとりごちた。
「おばあさまから作り方を教わったんです。『郷に入れば郷に従え』が口癖で、日本のことを教えていただく一方でドイツのことも他にたくさん教わりました。本当はわたくし、嫌でした。日本人であることに誇りを持ちなさいと言われたすぐ後に、向こうの郷土料理の作り方を説明されるんです。おばあさまは間違ってますって、何度も言いかけました。どうして媚を売るような真似をなさるんですかって。でも、必ず決まって言われたんです。『郷に入れば郷に従え』って」
一息にそう言うと、春歌は何かに気付いたかのように首をすくめた。
「いやですわ。わたくしったら、何を話しているんでしょうね」
見る間に春歌の顔が赤く染まる。
「あの、忘れてくださいね。久しぶりにドイツの味を食べたせいで、少しおかしくなってしまったみたいです」
「どう言えばいいのかわからないけど」
咲耶がおずおずと口を開いた。
「春歌ちゃんは、やっぱり自分のことを日本人だと思ってる?」
「……それは、どういう意味でしょうか」
瞬時に春歌の目が細められる。
「そういう意味じゃなくって、その、何て言うかさ。もし、おばあさんから日本のことを教わらなかったら、今のような春歌ちゃんになってたのかなって」
今までを見る限り、彼女はドイツに郷愁を感じる自分を恥じているように見える。
春歌がドイツ語を喋る姿をまだ咲耶は見ていない。学校で習う英語ならばともかく、この家の中でドイツ語を使う機会も全く無いのだが、春歌にあっては独り言ですらも発していないのだ。少なくとも誰かの視線のある場所では。
「それは、決まっていますわ」
組んだ手をテーブルに乗せ、咲耶を正面から見据えて春歌が言い放つ。
「例えおばあさまがどうあったとしても、今のわたくしと変わりありません」
春歌はなおも咲耶に厳しい視線を注いでいたが、やがて目を逸らせ、ぽつりと呟いた。
「どうして、そんなことを聞くんですか」
「だって春歌ちゃん、やたらとアピールしてるでしょ。自分が日本人だってこと」
「それはいけないことなんですか? 自己主張することが、そんなに」
「そうは言ってないわ。けど……」
今度は咲耶が視線を外した。
「さっきからの春歌ちゃんを見てるとドイツが嫌いだっていう風にしか聞こえなかったから、それで気になったの。生まれたり育ったりした場所が嫌いって、そういうの、すごく悲しいじゃない」
「ええ、それは……」
春歌がテーブルに目を落とす。
「ねえ、私がヒナちゃんと一緒に住んでたって話、聞いたことある?」
「はい、何となくは耳にしていますけど」
春歌は怪訝そうに咲耶を見つめている。
「正確には、住んでたというより押しつけられたって感じかな。どういう事情でそうなったのか私も知らないんだけど、しばらく私の家で預かることになって。パパもママも留守にしてばかりだったから、私がほとんど面倒見たわ。学校が終わったら一目散に帰って、ずっとヒナちゃんと一緒。友達と遊んだ記憶なんて全然ないもの、その頃の私って。晩ご飯は家庭科で習ったばかりのお味噌汁とご飯だけで、ヒナちゃんと別れるまでの半年はずっとそれが続いたの」
咲耶はそれとなく春歌の様子を見たが、どうやら神妙に聞き入っているらしい。
「その時のヒナちゃん、まだ三歳ぐらいだったけど、よく覚えてるって言うの。『楽しかったね』って、そう言うのよ、時々。幼稚園にも行けなくて昼間はずっとテレビだけが相手の生活、楽しいはずなんて全然ないのに」
「何が幸せかなんて、人それぞれですわ。良かれと思ったやったことが、その人に大きな苦しみを与えることも多々あるものです」
顔を俯かせたまま、だが、きっぱりと春歌が言い切った。
「わたくし、昔はいじめられていました。小学校へ上がる前のことですけど、その時は地元の幼稚園に通わされてまして。ですから、いじめといっても大したことではないんです。今思い返すと、本当に些細なことですし。でも、その頃は本当に辛かったんです。両親やおばあさまを心底恨みました。早くドイツに馴染めるようにとの思惑があったのでしょうし、それは幼心にもわかっていました。それでもやはり、あの時は……」
春歌は肩で大きく息をした。顔を上げ、ゆるゆると微笑んでみせる。
「ところで咲耶さんは、ドイツの人にどういうイメージを持っていますか?」
「そう、ね……」
突然の問いに戸惑いながら、咲耶は脳内に散らばるイメージをまとめあげる。
「質実剛健というか堅物というか、そんな感じかな」
春歌は咲耶にうなずいてみせた。
「ええ、そうですわね。まさにその言葉通りの人たちです。杓子定規、とも言いますわね」
それが何か? と言い掛ける咲耶を目で制し、春歌は続けた。
「皆、いい人たちなんです。わたくしが出会った方は、皆いい人たちばかりでした。とても誠実で、一度約束したことは絶対に守る、そんな人ばかり」
春歌はそう言いながら、懐から油取り紙を一枚取り出した。訝る咲耶を尻目に、春歌はそれを丁寧に折り畳み始めた。
「あの日からこれがわたくしの日課になりました。今はもう、目を閉じながらでも折ることができます。でも、もう遅いんです。つまらない見栄を張ったせいで、幼稚園時代のわたくしはずっと嘘つき呼ばわりされました。約束を違えたのですから、それは当たり前のことでしょうけど」
そっと開かれた春歌の掌中には、優雅な折り鶴がその姿を表わしていた。
春歌はそれをテーブルの上に置き、ふうっと息を吹き掛けて咲耶の方に押し流した。折り鶴は盤面をくるくると滑りながら咲耶の前で足を止めた。
咲耶はベージュ色の折り鶴を摘み上げ、しげしげと眺めた。翼は先端までピンと伸び、余計な皺は一つも見当たらない。ここまで折り目正しい鶴は見たことが無い。
「きれいね、これ」
「おばあさまからの直伝ですわ」
そう答える春歌の口調に得意げな色が加わる。だがそれも一瞬のことだ。
「おばあさまが折っているところを見ただけなのに、あの頃のわたくしはそれだけで作れる気になっていたんでしょうね。わたくしが皆とは違う、大和民族あることを証明しようとして、それで……」
春歌は一度言葉を切って深呼吸する。
「それから毎日ずっと鶴を折り続けて最終的には教室を鶴だらけにしたのですけど、一度約束を破ったわたくしへの評価は変わりませんでした。朝、教室に入ると『嘘つきが来たぞ』って」
「子どものすることとはいえ、ちょっとひどいんじゃない。それ」
「そんなことありませんわ。紙で鶴が折れる、と一度口にしたからには何がなんでもやり遂げなくてはならなかったのですから。向こうはそういう性格なんです。こちらでは、たかが折り紙ぐらいで、って言われるのでしょうけど、あちらはそういう捉え方をしません。どんな小さなことであっても約束は約束だと」
「……で、その後はどうなったの」
「いえ、それっきりでしたわ。幼稚園を出た後は日本人小学校に通いましたので。あれから彼らに会ったことはありませんし、恐らくこれからもないでしょう。それでも、わたくしには忘れ難いのです……何年経っても」
いつの間に折られたのか、春歌の手から油取り紙の鶴がこぼれ落ちた。春歌はそれを摘み、息を吹いて宙に飛ばした。折り鶴は空中で華麗に一回転するとふわふわと漂い、やがて音も無く静かに舞い降りた。
「それからわたくしは決めたのです。誇りを持って生きようと。誰にも後ろ指を指さされることのないよう、常に自分を磨き上げようと」
凛とした表情で春歌は力強く言い切った。が、次の瞬間、彼女の頬がだらしなく緩んだ。
「そう、そうやって魅力を増していけば、兄君さまもきっとわたくしの方を向いてくださるはずですわ。だって、そのためのお稽古事ですもの。殿方は料理が得意な女の子が好きなものと決まっております。おばあさまもそう言ってらしたから、間違いありませんわ。あら……そういえば、兄君さまの好物って何なのでしょう。咲耶さんはご存知ですか? わたくしと同じだったらよろしいんですけど……。もし、同じ食べ物でしたら二人で半分に分けて、いいえ、一度は兄君さまに全部お渡しして、それから兄君さまの手ずから食べさせていただくとか。ああ、そんな、いけませんわ! いくら兄君さまでも、口移しでなんて……そ、そんなこと、とてもわたくしには……!」
激しく身をよじらせて己の妄想へ浸る春歌の姿に、咲耶は掛ける言葉も無かった。その動きがあまりに激しいので春歌の椅子がぎしぎしと悲鳴を上げる。
手持ち無沙汰になった咲耶は小皿を引き寄せ、仕方無しに酢漬けのキャベツを口にした。
酸味を飲み下して二口目を取り上げたその時、咲耶の脳裏にあるものがよぎった。
先ほどまでの春歌は何と言っていただろうか。『一度口にしたからには何がなんでもやり遂げなくてはならなかった』。約束を守れなかった過去に悔いを残す春歌が同じ轍を踏むとは思えない。公言した事は絶対にやり遂げようとするだろうし、また、自分に不可能なことは口にも出さないはずだ。ということは……。
咲耶はうろんな目で春歌を見つめた。上ずった声で『ああ、兄君さま』『そんな、いけませんわ』としきりに繰り返す彼女。何も知らなければただの妄言と切り捨てることもできるが、春歌の背後に隠れているものを知ってしまった今では見過ごすわけにもいかない。
計算か天然か。どちらにしても、口にした事は必ずやり抜こうとする春歌なのだ。
射るような咲耶の視線に、春歌の動きがピタリと止まった。
「あ、あら……。わたくしったら、なんてはしたない真似を。咲耶さんも止めてくださればいいのに」
春歌は頬を赤く染め、袂で顔を隠す真似をした。これまでは何気なく見過ごしてきた春歌の挙動も、今となっては己の猜疑心をいたずらに煽るばかりだ。
咲耶の心に自己嫌悪の情が湧き上がった。春歌の視界から逃れるかのように椅子を引いた。
「キャベツ、ごちそうさま。白雪ちゃんが帰ってくるまでまだ時間あると思うけど、換気しておいたほうがいいんじゃない? また何か言われちゃうから」
「あ、咲耶さん。一つだけ」
立ち上がり、足早に去ろうとする咲耶を春歌が引き止める。
「雛子ちゃんと暮らしていた時に、他の誰か、周りの大人の方へ助けを求めることはできなかったのですか? お食事にしても、お外で食べるとか、買って食べるとか」
咲耶は立ち止まり、数瞬の間を置いて重々しく口を開いた。。
「そんなこと、あの頃は考えもしなかった。大人はみんな、パパやママと同じだって決めつけてたから。素面で家にいるパパは見たことがなかったし、包丁を握ったママを見たこともなかった。私がずっと食事の支度をしてたのって、結局はママに対する当てつけのつもりだったのかも。今思い返せばだけどね」
無言で立ち竦む春歌に小さく手を上げて、咲耶はダイニングを出た。
廊下を出てからの咲耶の足取りは重かった。
よりにもよって自分たちの身の上話を当て付けに使うなんて。不幸中の幸いは雛子のことだ。情の深い春歌だけに、雛子には今まで以上の愛情を注いでくれるだろう。それは悪くない。
だが、この家全体で見た場合は違う。良くも悪くも今の彼女は姉妹の中から抜け出ている。春歌のくしゃみ一つが台風へと発展しかねない今のパワーバランス下では、何が災厄をもたらすかもわからない。
おまけに、あの妄想癖がただの虚言などではないことも知ってしまった。派手な身振り手振りを交えて大っぴらに繰り広げられるので、てっきり何かの冗談とばかり思っていたのだが。「一生添い遂げる」だの「命に代えてもお護りします」だのと毎日のように身をくねらせているものだからそう思って当然だ。むしろ本気にするほうがどうにかしている。
そういう咲耶自身にしても、事あるごとに兄の腕へ絡みついては耳元で囁き掛けている。
――お兄様、ラブよ。
意味ではない、言葉にして出すこと自体が大切なのだ。咲耶が口にするたび、兄は戸惑い気味の笑顔を見せる。今はそれだけでいい。ただの冗談でいい。振り向いてくれるだけで、私を見てくれるだけでいい。あれもこれもと欲張っては何もかもが崩れてしまう。今はみんなが一緒に暮らせればそれだけで幸せ。あんな日々はもう二度と過ごしたくない。わがままを言わないだけでそれが避けられるのなら、私はどれだけでも我慢する。
廊下の角へ差し掛かったところで咲耶は人の気配を感じた。
「盗み聞きとはいい趣味ね、千影」
「それは誤解だな。聞こうとして聞いていたわけじゃない、勝手に聞こえてきただけだ」
千影は太陽を避けるような形で影の中に佇んでいた。手には水差しを持っている。
「だったら何でそんなところにいるのよ。用があるなら堂々と入ってくればいいじゃない」
「私はそこまで野暮じゃないさ。とても重要そうな話だったからね。一度邪魔が入ってはきみたちだって続けにくいだろう」
唇の端を歪め、無言で笑う千影。
「相変わらずいやらしい女ね。水だったらトイレでもどこでも汲めるでしょ。気が利くっていうのはそういうことを言うの」
腕を組み、咲耶は冷やかに言い放った。
「スライスレモンの一枚程度でも、入れるとこれがなかなかに乙でね。まさか、代わりに芳香剤でも入れろとは言わないだろうね。それとも、この程度のわがままも許してもらえないのかな」
と千影は、レモンだけが入った水差しを振って見せた。
咲耶はこみ上げてくる感情を懸命に押し留める。何度も深呼吸し、怒りの代わりにため息をようやくの思いで吐き出した。
「もういい。好きにすれば」
咲耶は顎で千影を促した。
「きみに言われるまでもない、好きにするさ」
間髪を入れずに千影が返す。
「いちいちうるさいわね。いいからさっさと行きなさいよ」
「そうか。じゃあ、うるさいついでに一つ言わせてもらおうか」
すれ違いざまに千影が立ち止まった。
「きみが今の生活をより良くしようと動いている、その努力は認める。だが、私に言わせればただの無駄骨だね。人生なんて所詮はなるようにしかならない。春歌くんもああいう生い立ちと知れたことだ。変に抗うと傷は余計に深くなる。まあ、ほどほどにしておくんだね」
咲耶の視界が怒りで赤く染まる。
「知った風な口……!」
瞬間的に激昂した咲耶は咄嗟に千影の胸倉を掴み上げた。
「私と同じ年のくせに、あんた何様のつもり? 二十年も生きてない分際で偉そうに説教なんかしないでよ」
「離してくれ。ブラウスの皺が取れなくなる」
わずかに眉を顰めただけの千影に、咲耶の感情も急速に冷めていった。咲耶が手を離すと、何事もなかったかのように千影が襟を直す。
「千影……。あんたはお兄様と一緒に暮らせなくなってもいいの? 今この時を逃がしたらもうチャンスは無いのよ」
「それはわかっている。兄くんと一つ屋根の下で暮らすのは長年の夢だった」
「だったらどうして」
「誤解してもらっては困る。私は兄くんと暮らしたいんだ。正直、他の皆はどうでもいい。きみも含めてね」
「千影……!」
再び掴みかかろうとする咲耶から、上体を反らせて逃れる千影。
「力づくかい? それこそ兄くんが見たら悲しむだろうね」
咲耶は歯噛みをしながら振りかぶった腕を下ろした。
「昔に兄くんを一人占めにしておきながら、今さら皆で仲良くやろうなんて虫が良過ぎる。次は私の番だろう? そろそろ譲ってくれてもいいじゃないか」
「千影、それは子供の頃の話で――」
「忘れたとは言わせない」
終始無表情を保っていた千影が怒気も露わに割り込んだ。
「私が何も言わなかったのをいいことに、兄くんを散々弄んだじゃないか。私が忘れるとでも思ったのかい」
「そんな。昔は昔、今は今でしょ?」
「いいや、今も昔も関係無い。きみは私から兄くんを奪った。それだけは確かだ」
そう言い捨てた千影は、踵を返して音も無く歩み去った。
千影の毒気にあてられた格好の咲耶は、しばらくその場でぼんやりと突っ立っていた。
やがてリビングの方向から春歌の声が聞こえ始めた。そのトーンは高く軽やかでいかにも楽しげだ。千影の声は聞き取れない。
咲耶は思わず一歩を踏み出しそうになり、あわてて引っ込めた。これでは千影と同じだ。
引いた足を軸にくるりと回った咲耶は、ゆるゆると階段を登った。
そのまま部屋へ戻り、ベッドに倒れ込む。枕を力いっぱい抱き締めて自分の匂いを嗅ぐうち、ビデオテープを置き忘れたことにようやく気付いた。
咲耶は鼻息でそれらを意識から吹き飛ばす。難敵二人と真っ向からぶつかったおかげか、頭の芯はすっかり痺れていた。今は何もかもが面倒だ。
扉をこつこつとノックする音に咲耶の瞼がぱちりと開いた。
目を擦りながら見上げた天井は、青黒い影と橙色の日差しが奇妙なコントラストを作っていた。
「ねえ、咲耶ちゃん。……ありり、いないのかな?」
舌足らずな声は雛子のものだ。戸惑いが足踏みとなり、それが廊下の軋みへと表れている。
「雛子ちゃん……?」
「あ、咲耶ちゃん、いたんだ。……ねえ、お部屋に入ってもいいかな」
「ん……いいわよ、別に」
しばらく眠っていたおかげか、先よりも幾分かは気分が良くなっていた。髪を整えながらベッドの端に腰掛ける。
「じゃーん!」
勢い良く入ってきた雛子は、両手をバンザイさせてその場でくるっと一回転してみせた。
「ねえねえ、買ってもらった新しいお洋服、かわいい? ヒナに似合ってる?」
裾口に大きなフリルをあしらったワンピースは、雛子の一挙一動でひらひらと可憐に踊る。差し込んだ光は雛子を夕日色に塗りたくっていた。
「うん、似合ってる」
「ほんと? やったあ。ヒナ、すっごくうれしいなぁ。あのね、このお洋服ってヒナが初めて一人で選んだんだよ。ヒナ、えらい?」
「うん。えらいわね、ヒナちゃん」
「くししし。ヒナ、またほめられちゃった」
雛子は満面の笑顔を見せ、今度は逆向きに回転する。咲耶へ見せつけるように、ゆっくりと。
「お兄様にはもう見せたの?」
「ううん。おにいたま、まだ帰ってきてないみたい。あ、でもね、このお洋服は咲耶ちゃんに一番に見せるつもりだったの」
「私に……お兄様よりも先に?」
「うん、そうだよ。だって、今までは咲耶ちゃんにお洋服選んでもらってたでしょ。ヒナは早く咲耶ちゃんみたいになりたいってずっとずっと思ってて、それで、今日はちょっとだけ咲耶ちゃんみたいになったから、おにいたまよりも先に見せてあげたかったの」
「……私みたいに」
「そうだよ。だってヒナはね、咲耶ちゃんみたいになりたいってずっと思ってるの」
咲耶はよろよろと立ち上がり、雛子の前でひざまずき、そっと抱き締めた。
「ありがとう、ヒナちゃん。……私、頑張るからね」
「咲耶ちゃん、ヘンなの。ありがとうを言うのはヒナのほうなのに。だって、ヒナがさびしいさびしい病で泣いてるときは、いつも咲耶ちゃんがきていっしょにいてくれたでしょ?」
咲耶の脳裏にとある光景が蘇った。薄暗いリビング、あの時もこうして抱き締めていた。ママに会いたいと泣きじゃくる雛子を、咲耶は気休め程度の言葉で慰めるしかなかった。
「……咲耶ちゃん、寒いの? 身体、震えてるよ」
「そ、そんなことないわよ。ヒナちゃん抱いてると暖かいから、全然寒くなんか――」
咲耶のその言葉に雛子からも腕が伸ばされた。衣擦れの音がざわざわと耳に響いた。
「こうしてると、ヒナがちっちゃかったときのこと思い出すよね。灯油が無くなってストーブ消えちゃったときって、咲耶ちゃんといっしょの毛布に入ってて」
「……うん」
「でも、それだけじゃ寒くって、咲耶ちゃんがヒナをぎゅうってしたらやっとあったかくなったの。だから、今はそのときのお返し。ねえ、今のヒナはあったかい?」
「……うん」
それが精一杯だった。
影で薄暗く染まった雛子の背中がたちまちに歪み出す。あっと思う間も無く、水滴が雛子のフリルの上で飛び散った。
Fin.
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