ゆらゆら
「姉や、あらのがわ、って泳げるの?」
亞里亞のいきなりの問いに、何気なく枝毛を弄っていた千影は顔を上げた。
「あらのがわ」
千影は聞き覚えのない川の名を口にして眉根を寄せた。優に三畳はある広大な湯面へ視線を這わせているうちに、亞里亞の問いの意味がふとひらめいた。
「もしかすると、きみが言っているのは天の川のことかな。フランス語ではVoie lactee(ヴォア・ラクテ)だったと思うが」
亞里亞は千影に微笑みを返した。
「はい、それです。あらの、あら……あま……」
「あまのがわ」
「――あまの、がわ」
再び亞里亞がくすくすと笑った。その幸せそうな顔につられるようにして、千影も小さく笑った。
「天の川か」
真顔に戻った千影がつぶやいた。
「さて、どうだろうね。星の海はとても冷たいと聞いているが」
「冷たい? アイスクリームよりも?」
「ああ、アイスクリームの何倍も冷たいらしいね。具体的には、そう……凍り付いたバナナで釘が打てるほどだ」
亞里亞は顎を軽く上げて天井に目をやった。何事かを想像している風だったが、やがて大きく身ぶるいをし、勢いよく千影に抱き付いた。波しぶきが千影の目を襲った。
「亞里亞はね、固いバナナはキライなの。寒いのもキライキライなの」
千影はとりあえず目元を拭っただけで、あとは亞里亞の好きにさせた。
雛子に影響されたらしく、感情を表現する際に体全体を使うようになってきた。
悲しい時にすすり泣くのは相変わらずだが、何か怖いこと、恐ろしいことに直面した時には一目散に駆けよって来る。どちらか一人だけならばまだしも、何かある毎に二人一緒で行動するものだから、抱き付かれる側は正直たまったものではない。それでも分別はあるらしく、小さな姉たちには決して飛び付かない。決まって千影か咲耶か春歌か、あるいは兄がそのターゲットだ。
『二人の信頼の証だ』と兄は言う。姉として、誠に喜ばしい限りではある。
ただ、裸で互いに肌を密着させているこの状況は、何度体験したところで慣れることはない。いくら姉妹の間柄でも、これはいささか無防備に過ぎる。理性を己の拠り所としている千影が困惑するのも当然だ。
少女の柔肌が持つ独特の感触に、千影の心臓は早鐘のように鳴っていた。いま自分の腕に当たっているのは亞里亞の胸の突起らしい。動こうにも動けない。
千影は嫌な汗が額から流れ落ちるのを放ったまま、亞里亞が離れるのを待った。
「しかし、何だってこんなに時期に聞くんだい? 七夕はまだ一月も先の話だが」
ようやく自由の身になった千影は、肩を回しながら素朴な疑問を繰り出した。
「あのね、今日、学校で教えてもらったの。おりひめさまとひこぼしさまが七月七日にだけ会えるって。そのほかの日は天の川をはさんでいて会えないって」
「ああ、そうか。フランスには天の川の伝説が無かったんだね」
亞里亞はこくんと首を振った。
「それで、七夕の日には笹のお飾りをして、お願いごとをたんざくに書くの。亞里亞、いまからとっても楽しみです」
「ふむ。もしかすると『大きなショコラが食べたい』などと書くつもりではないだろうね」
「――姉や、すごいです。どうして亞里亞のお願いごとがわかったの?」
ほんの冗談のつもりだったとは言えず、千影は唇の端を軽く歪めて苦笑いした。
「織姫や彦星はサンタクロースじゃないんだ。プレゼントはもらえない。叶えてくれるお願いは、例えば『勉強がもっとできるようになりますように』とか、そういうものだけなんだ」
「でも、鈴凛ちゃんが言ってたの。鈴凛ちゃんは毎年、“しきんえんじょ”が欲しいって書いてるって。だから、亞里亞は大きなショコラが欲しいですって書こうと思ったの」
「まったく仕方が無いな、鈴凛くんは」
千影は思わず頭を掻いた。鈴凛の物欲の前には風情もなにもあったものではない。
「ショコラだったら白雪くんに頼めばいいじゃないか。せっかくの七夕の日なんだから、もっと違うお願いをしたほうがいい」
「でも」
亞里亞は顔をうつむかせて水面に口を沈めた。千影の提案に不満なことを隠そうともせず、口から息を吐き出しては細かな泡を立てた。
「わかったよ。お風呂から出たら一緒に頼みに行こう。きっとみんなも賛成してくれるはずだ。七夕の予定は咲耶くんに聞かないとわからないが、多分パーティーか何かをするんじゃないかな」
「パーティーだったら、亞里亞は大きなショコラケーキが食べたいです」
そう言いながら亞里亞は、上目遣いにじとっと千影を見つめる。
「それは白雪くんとの交渉次第だな。努力してみるよ」
「だったら、七夕のお願いは違うのにします」
「そうだな、うん。そのほうがいい」
千影は心の中でため息を吐いた。
余計な事を吹き込んだ鈴凛も鈴凛だが、亞里亞の近視眼的な言動は以前から気になっている。それでも欲望の対象がお菓子に限定されているあたりは亞里亞らしいというか、あるいは年齢に比較して幼すぎるのか。
「で、どんなお願いにするのかな」
「姉やは、どんなお願いにするの?」
「私? 私は、そうだな――」
亞里亞の切り返しに千影は一瞬口ごもった。
しばらく逡巡したのちに、「みんながこのままずっと一緒に暮らせますように、って書くつもりだよ」
それを聞いた亞里亞の表情がパッと輝き、
「亞里亞もね、同じこと考えてたの。このままずーっと、ずーっといっしょにいられたらとってもとっても素敵なの」
と、一気にまくしたてた。
そうはいってもスローモーな普段に比べてのことなので、これでようやく人並みの早さになったといえる。
懸命な亞里亞にいとおしさを覚えた千影は、手を伸ばして亞里亞をなでた。亞里亞が再び笑顔を咲かせる。
「だからね、せっかくだから亞里亞は、違うお願いをします」
「ふむ。思ったよりも欲張りさんだね、亞里亞くんは」
「姉や、亞里亞をからかっちゃいやです」
亞里亞が軽く唇を尖らせた。
「亞里亞のお願いは、おりひめさまとひこぼしさまがいっしょに暮らせるようになることなの。ふつうの川だったらひこぼしさまは泳いでおりひめさまに会いにいけるけど、天の川はとっても冷たくて泳げないって姉やが言うから」
言いながら亞里亞は、何度となく目をしばたたいた。その目元は微かに濡れて光っている。
「亞里亞は兄やと姉やと雛子ちゃんと、みんなといっしょに暮らしていてシアワセです。でも、おりひめさまとひこぼしさまは離れ離れ。大好きな人と離れて暮らすのはとってもさびしくて、とっても悲しいから……」
くすんくすんという亞里亞のすすり泣きが、大きな浴室の空気をかすかに震わせた。
千影は無言で人差し指を突き出し、亞里亞の涙をすくい取った。亞里亞は小さく肩をすくめて驚いた。
「ちょっと待っていてくれないか。きみに見せたいものがあるんだ」
亞里亞は怪訝そうな表情を浮かべたが、ややあって首を縦に振った。
千影は静かに湯船を出て、扉の脇にある照明のスイッチにたどり着いた。
「いいかい。電気を消すよ」
灯が消えると同時に、ざぱん、という水音が立った。「姉や」と呼ぶ亞里亞の不安げな声が暗闇の中から木霊した。千影は早足で戻った。
「すまない、もう少しの我慢だ」
自分を心配そうに見上げる亞里亞を横目に捉えながら、手早くロールスクリーンを巻き上げて窓を開いた。
「お星さま、きれい……」
亞里亞が歓声をあげた。
梅雨どきの夜空とは思えないほどの静天。二人が身じろぎする度に、水面へ乗り移った星明りがゆらゆらと踊った。
加えて新月の夜ということで、星たちはいつも以上に光り輝いていた。
「見えるかい? あの白い帯が天の川だ。その右側にあるのがベガ、織姫の星で――」
「姉や、どれを指差してるの? お星さまがたくさんあってぜんぜんわからないの」
千影はしばらく考えたのち、亞里亞を手招いた。湯をかき分けて亞里亞が近付くと、その肩を柔らかく抱き寄せて彼女の後ろに回った。千影の足の間にすっぽりと亞里亞が収まった格好だ。
「姉やの胸、やわらかいです」
千影は小さく咳払いをして亞里亞の言葉を掻き消した。
「――ほら、これでわかるだろう。あれがベガで、その下の方にはアルタイル。織姫と彦星だ」
千影は自分の右腕を、亞里亞の肩の上から差し伸ばしてそう言った。
「はい、あれがおりひめさまのお星なのね」
亞里亞は千影の胸にもたれ掛かり、甘えたような声を出した。
「まだ他にも名前の付いた星はあるんだ。デネブにアルタイル……あの赤い星はアンタレス、さそりの心臓だ」
「亞里亞は“さそり座の女”だから、あれが亞里亞のお星さま?」
千影は軽く笑いながら「そうだね」と応えた。
千影は大きく一度息を継いで、
「たしかに織姫と彦星は天の川で分けられているけど、彼らの周りにはたくさんの星たちがいる。一人ぼっちでいるわけじゃないから、二人ともそんなに寂しくないと思うんだ」
亞里亞は黙ってうなずいた。
「一年に一回しか会えないのはとても辛いことだろうね。でも、間が空けば空くほど、会った時の嬉しさも増えていくんだ」
「亞里亞はずっとフランスにいたから、日本に来るまで兄やに会ったことがなかったの。初めて会った時はとっても嬉しくて、亞里亞の心臓が止まりそうになりました」
囁くような亞里亞の言葉の内容に、千影は不覚にも涙をこぼしそうになった。慌てて目頭を押さえた。
「そうか、そうだったね。きみたちとは本当に、遠く離れていたからね」
千影は目の前の銀髪を見つめた。
かつて亞里亞と兄との間に横たわっていたいくつもの国境を思えば、ベガとアルタイルの16光年などは無きに等しい。織姫と彦星の逢瀬は空想で補うことができても、亞里亞を始めとする欧州生まれの三人には突き崩すことのできない壁だったのだ。
「フランスのお家にはたくさんの人がいたからさびしくはなかったけど、亞里亞はやっぱりみんなといっしょがいいです」
「ああ、私もそう思うよ」
千影は窓の外へ目を向けた。
こうして星空を眺めるのはどれぐらいぶりだろうか。
同居を始める前までは毎晩のように夜空を見上げていた。数多の光の中から自分の星を定め、その周囲の星を数えていた。自分が孤独ではないと確認するかのように、一つ、また一つと。
「一人じゃない。だから、きっと大丈夫さ」
「姉や?」
千影の微かな呟きが亞里亞の耳へ届いたらしい。その肩越しに一対の瞳が千影を見つめていた。
「――いや、なんでもないよ。織姫さまも彦星さまも『会える日が待ち遠しい』って、周りの星たちに言ってるんじゃないのかな」
亞里亞は大きな笑顔で千影に賛意を示した。
「姉や、あの青いお星さまは?」
「あれか、あの星はね――」
千影は急に口をつぐんだ。
「残念だけど続きはまた今度だ。私たちが長く入り過ぎていたものだから咲耶くんが心配しているらしい」
脱衣場の方からくぐもった叫び声が上がった。激しくドアを叩く音がそれに混じっている。
「さ、上がろうか」
「はい、姉や」
千影が先に出て、亞里亞に腕を差し出した。何のためらいも見せずに絡み付く亞里亞の白い手。あとどれだけの間、こうして手を取り合って温もりを感じられるのだろうか。
兄が一人とその妹が十二人。
いつまでもこんなママゴトのような生活が続くはずはない。互いに遠く離れる日が必ずやってくる。つかの間の逢瀬を楽しんだ天空の二人が元の場所へと帰っていくように、この家族は再び大きく隔てられてしまうのだ。16光年よりもはるか遠くに。
それならば今はただ、私たちの7月7日が永遠に繰り返されることを祈ろう。そして、いつ明日がやってきてもいいように、今日の全てを刻み込んでおこう。
「姉や、少し笑ってます。何かうれしいことがあったの?」
千影の手を引いて先を行く亞里亞が振り返った。
「いや……私も今から七夕が待ち切れなくてね」
浴室に再び光が点り、水上の星空は消え失せた。
Fin.
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