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耳元で小さくチリチリと音がする。ハンダごてのヒーターに通電している音だ。握るグリップが次第に熱くなる。
机へ突っ伏すように身構えた鈴凛は、こて先とハンダを慎重に近付けて行く。目標はメカ鈴凛用のプリント基板。
電子工作の基礎ともいえる作業だが、やはりいつになってもこの瞬間は緊張する。こて先は数百度の高温。火傷もさることながら、部品を傷める可能性が怖い。さらに下手をすれば基板そのものが台無しになるのだ。替えの効く家電やPCの類ならまだしも、一品物ともなれば絶対に失敗は許されない。いつも以上に緊張する。
鈴凛は息を止め、手の動揺を抑えた。頭の中に響く心音はシリアスなドラマのワンシーンのようで、さらに緊張が増す。
だが、それと同期するように、少しずつ指先が疼き出す。作業へ集中しようにも、痛みは次第に増すばかり。
鈴凛はため息と共に手を止め、痛みの根源を睨みつけた。左手の人差し指に真新しい絆創膏が巻きついている。
「ったく、あのバカ……」
スイッチを切ってテーブルに置くと、またため息が出た。
作業着の袖をまくり上げ、大きく一度伸びをする。長いこと同じ姿勢だったせいか、身体のあちこちが軋んだ。うんと伸びたところで弛緩し、椅子にぐにゃりともたれ掛かる。作業はまだ途中だが、再開する気にはしばらくなれそうもない。鈴凛は息を緩く吐き出しながら、剥き出しになった天井のパイプを目で追った。鋼管の迷路をあてもなくさまよう間に、少しずつ痛みが引く。
溶けたハンダから立ち上る白煙を見れば、素人目にも危ないとわかろうというものだ。亞里亞や雛子はもちろん、ミカエルであっても気づくはず。
ところが、それをあっさりと無視してみせるのが『あのバカ』――四葉なのだ。
鈴凛の姿を見ればところかわまわず駆け寄って来る。ボールを追って道路に飛び出す子供と何ら変わりがない。いや、好奇心が人一倍旺盛な分、さらに性質が悪い。『ペンキ塗りたて』と張り紙すれば手形をつけ、張り紙を外してもまた手形をつける。
大儀そうに頭を巡らせた鈴凛は、壁に残る手形を見てまたひとつため息をついた。さっきからため息ばかりだ。自覚症状はないが、どうやらよほどに疲れているものらしい。
「それにしても、あのバカよつは……」
時計を見ると、午後三時を回っている。四葉を叩き出してからちょうど一時間。ひとりになれたおかげでかなり作業が進んだ。食後特有の眠気も、四葉に突き飛ばされてできた火傷の痛みで紛らわせることができたのは、ちょっとした皮肉というものだ。
「さぁて、一息入れちゃおっかな」
弾みをつけて立ち上がった鈴凛は、壁際のスチールラックへもたもたと歩み寄る。最下段のダンボール箱へ手を突っ込み、スピードくじよろしく手をかき回して探ると、触れたペットボトルを勢い良く引き抜く。
「――ミルクティーか」
期待していたものと違う。
ペットボトルの先端で箱を引っ掛けて寄せると、中を覗き見た。思っていた以上に中身が減っている。カップラーメン、パックご飯とレトルトカレーのセット、電子レンジ用のリゾットが残り一個ずつ。あとはペットボトルが五、六本転がっているだけだが、それもミルクティーとレモンティーしか残っていない。スポーツ飲料やオレンジジュースも入れておいたはずなのに。
鈴凛は思わずがっくりと膝をついた。犯人はわかりきっている。
「いつもいると鬱陶しいし、かといって目を離すとこれだもんね……」
鈴凛のラボは一階にあるが、キッチンからはかなり遠い。日中はともかく、夜更けに床板をぎしぎし踏み鳴らして通うのは相当に億劫というものだ。それに寒い。白雪や春歌に嫌な顔をされながらも自腹で買い置きしているのはそのためなのだが、買った先から食い潰されたのではたまったものではない。
箱の前にトラバサミでも仕掛けてやろうかしら。そんなことを考えながらペットボトルへ口付ける鈴凛の耳に、廊下の軋む音が届いた。寂しくなって戻ってきたのだろうか。それなら好都合――
鈴凛はボトルのキャップを閉めながら立ち上がると、扉へ向けて大きく振りかぶった。いわゆる問答無用というやつだ。
息を飲んで見守る中、ゆっくりとドアノブが回り、スチールの扉が重々しく開く。
片足を上げて投球フォームに入ろうとした、そのとき。
「鈴凛ちゃん、いる?」
ひょこっと顔を覗かせたのは咲耶だった。鈴凛の姿を見るなり、怪訝そうな表情を浮かべる。
「何、そのカッコ?」
「あ、ええっと、その……ストレッチ?」
「ストレッチ? って、聞いてるのはこっちよ」
「別にいいじゃないの、そんなことぐらい。ちょっと細かい作業やっててさ、気が滅入ってたのよ。いやいやマジで」
慌てて手を振る鈴凛にうろんな表情で見返す咲耶だったが、一応は納得したようだ。
「んで、どったの? 何か用?」
「あ、それそれ。今、白雪ちゃんのお菓子でお茶するところなんだけど、鈴凛ちゃんもどうかなって」
「ええっ、お茶?」
鈴凛はスローモーな投球モーションで、手にしたペットボトルを突き出してみせた。
「――ごめん、もう飲んじゃった」
「うわ、タイミング悪っ……でも、そんなに減ってないんじゃない?」
「うん、まあ、一口だけだから」
「ふぅん。じゃあ、ちょうどよかったじゃない」
と、咲耶はウインクしてみせた。
「どうする? 手が離せないなら無理にとは言わないけど」
「アニキはいるの?」
その問いに咲耶の頬がふっと緩んだ。
「お兄様は、可憐ちゃんと鞠絵ちゃんの両手に花でお出掛け。あ、春歌ちゃんと衛ちゃんもいなかったかな」
「そっか。んー、どうしよっかなー」
ペットボトルごとぐるんぐるん腕を回した鈴凛は、前に伸ばした状態で動きを止め、泡立ったミルクティー越しに作業机を見た。今日の予定ではあと数枚ほど。このまま邪魔が入らなければ夕飯前には終わってしまう。
「予定より早く進んでるし、せっかくだからお付き合いしちゃおっかな。アニキがいないんならリラックスできるだろうし」
三度の食事はともかく、慣れないアフタヌーンティーとなると作法に自信がない。一挙一動が兄の目に入っているのかと思うと、途端にいたたまれない気持ちになる。
亞里亞は別格としても、皆それなりに育ちがいいだけにやはり慣れている。人前であぐらをかいては春歌にたしなめられている鈴凛だが、兄にがさつと思われておもしろいはずがない。
「そうそう。いつも、こんなコンクリだらけの辛気臭い場所にいるんだから、たまには優雅なひとときを過ごさないとね」
したり顔で頷く咲耶に、鼻を鳴らして反論する鈴凛。
「聞き捨てならないなぁ、それ。アタシにとっては、神聖にして犯すべからず、な場所なんだから」
鈴凛は脱いだ作業着を投げ捨てると、傍らのチャイナシャツに袖を通した。
「とか言って、四葉ちゃんは顔パスなんでしょ? 怪しいわねぇ。いつも二人で何やってるのよ」
戸口から顔を覗かせたままで、咲耶はニヤニヤと笑う。鈴凛は唇を尖らせながら、のしのしと歩み寄った。
「別にそんなんじゃないってば。ほっといても勝手に入ってくるし、かといって鍵掛けたら扉叩いてやかましいしさ」
「そうやって否定するところがますます怪しい」
鈴凛は咲耶の頭へ目掛け、ゆっくりとペットボトルを振り下ろす。ぺこん、と間抜けた音を立ててボトルがたわんだ。
「冗談やめてよ。あの子だけでも大変なのに、学校じゃ小森さんにまでロックオンされてんのよ?」
中性的な容姿の鈴凛は、さばけた性格もあって男女の別なく人気を得ているが、その中でも別格といえるのが彼女だ。
鈴凛のことを『お姉さま』と呼んで憚らないうえ、事あるごとに世話を焼きたがる。ノートの代書、目覚まし時計の代わり。授業中はまだいい。しかし、それが体育や自由時間となるとまた状況が変わる。『お姉さま、口元にご飯粒が』『お姉さま、額に汗が浮かんでます』『お姉さま、その……ブ、ブルマから、はみ出て……』『あのチェキっ子がまた……お姉さま。私、今度こそはぎゃふんと言わせて来ますから!』
鈴凛は、三人仲良く職員室に呼び出された日を思い出し、眉間に縦皺を作った。
「小森さんって……ああ、眼鏡を掛けたあの百合っ子?」
「だーかーらー、百合とかレズとかそんなんじゃ――」
うんざり顔の鈴凛に、いやらしい笑みを浮かべた咲耶が割り込む。
「ホント、モテる女って辛いわよねぇ。お姉さん、同情しちゃう」
咲耶は、露骨に顔を顰める鈴凛の肩を抱き寄せ、わざとらしい口ぶりでやんわりとなだめた。
じっとりと横目で咲耶を見た鈴凛は、ため息を置き土産にすたすたと歩き出した。少し遅れて咲耶が続く。
「ごめーん、そんなに怒らないでってば」
追いついた咲耶が再び肩に手を回そうとするが、鈴凛は巧みにそれをすり抜けて束縛を許さない。何度か繰り返すうちにようやく諦めたらしく、咲耶は黙って隣に並んだ。
二人はしばらくの間、無言で歩いた。廊下はまだ先が長い。
咲耶が不意に口を開いた。
「まあ、何にしても、姉妹の間で仲がいいっていうのはいい事よ。すごく」
「ライバルが減るから?」
間髪入れず突っ込む鈴凛に、咲耶が唇の端を吊り上げた。
「ズバリ言うじゃない。……ま、それも少しあるけど」
そう言って、ふと真顔に戻る咲耶。思わず口を開き掛ける鈴凛だったが、おもむろに口を閉ざして大きくひとつ頷いた。
「――前から気になってたんだけど、千影ちゃんと仲直りしないの?」
「もうしてるわよ。とっくの昔に」
「へ?」
二人は同時に足を止め、互いに向き直った。
「いや、何て言うか、あんまりそういう風に見えないんだけど。アタシの目からは」
「まあ、それはそうね。あの子の逆恨みのようなものだし」
鈴凛は、リビングの片隅に陣取って座る千影の姿を思い浮かべた。以前に比べて幾分柔らかくなった印象を受けるが、それも亞里亞がいる間だけのこと。ひとりで本を読んでいるときなどは、近寄りがたい雰囲気を発散させている。
「まあ、何となくわかるような――」
鈴凛の呟きに、咲耶の自嘲めいた呟きが重なる。
「もっとも、私が仲直りしたつもりになってるだけかもしれないけど」
「えっ?」
思わず顔を上げると、咲耶は既に数歩先を歩いていた。
「どうしたの? 早く行かないとお茶が冷めちゃうでしょ」
肩越しに振り返った咲耶の声に、先ほどの翳りは微塵も感じられない。
「――そうだね」
鈴凛は小さくかぶりを振り、揺れるツインテールを追った。
咲耶と千影の間に何が横たわっているのか、鈴凛は知らない。知っているのは、二人がうんと小さな頃に何かあったのだということだ。それは、あの日――千影が亞里亞の『姉や』になった日――の口論の内容からわかる。確か、ママがどうとか言っていたような。
鈴凛は自分が養子だということを、ずっと幼い頃から知っていた。
いつになく真面目な顔で始めたジジの告白を、今でもよく覚えている。
だが、悲しいだけの思い出ではない。なぜなら、そのときの鈴凛は、
「じゃあ、リンもあの子と同じなのね」
と、整備台を兼ねた充電ベッドに横たわる、少女型のアンドロイドを指差したのだ。
義父も義母も優しかった。時々遊びに来るアニキはもっと優しかった。だが、ジジはもっともっと優しかった。そんなジジのラボには、幼年期の全てがあった。
ジジがなぜ、幼い自分にあんなことを告げたのか、今となっては知る由もない。あるいは、血の繋がりだけが受け継がれるものではないと、そう教えたかったのかもしれない。
確かに鈴凛は、ジジから様々なものを受け継いだ。有形無形を問わず、彼が生きて来た中で得たあらゆるを――技術や知識や人の繋がりを、血の繋がらない孫娘に遺してくれた。亡くなってからも義父母の態度は変わらなかった。研究や発明で詰まれば、ジジの知り合いに当たることができた。そしてあの日、幼い自分が指差したアンドロイドは、鈴凛の成長に合わせて外装を変えながら今も共にある――ジジのもうひとりの孫娘、メカ鈴凛として。
鈴凛はふと、恐怖に駆られることがある。本当の親を知らない自分が、こんなに幸せでいいのだろうかと。
前を歩いていた咲耶が急に立ち止まり、下を向いて歩いていた鈴凛はその背中へぶつかりそうになった。
「どしたの?」
と問い掛けて間もなく、うんざりするほど聞き馴染んだ叫びがリビングから聞こえてきた。
「まーた誰かの邪魔してるのね……」
ひとりごちる鈴凛に、咲耶が振り返った。
「また?」
鈴凛が絆創膏を巻いた左手をかざすと、咲耶はひどく納得した面持ちで何度も首を振った。
「大変ね、鈴凛ちゃんも。よりによって刃傷沙汰?」
「ったく、どこからそんな言葉が出るんだか」
肘で突っ込もうとする鈴凛だが、咲耶は上体をくねらせてそれを避ける。
「ただの火傷。ハンダごて使ってるところに後ろからドーンって」
「火傷? そっちのほうが大変じゃない。下手すると跡が残っちゃうでしょ、それって」
咲耶はそう言いながらも、無造作な手つきで鈴凛の指を取る。その途端、ズキンと痛みが走った。
「いててて、痛いってば」
「あ、ごめん。そんなに痛いんだったら、オリーブオイルでも塗っておけば? 確か火傷にも効いたと思うけど」
「いいよ別に。これぐらいの傷ならいつものことだし、どうせすぐに機械油で汚れちゃうんだから」
咲耶は腕組みをし、どこか呆れた様子で鈴凛を見つめる。
「鈴凛ちゃんがそう言うならいいけど。でも、もう少し見た目に気を使ってもいいんじゃない?」
「わかってるって」
咲耶は好意で言ってくれている。それ自体は嬉しい。だが、機械弄りに怪我は付き物だ。どれだけ気をつけていても切り傷、擦り傷は当たり前。火傷や血豆も珍しくない。治る端から傷を作っているので、ほとんど普段使いのアクセサリーのようなものだ。
だが、咲耶にはそれが惜しくてたまらないらしい。細くてしなやかで綺麗な指だと何回言われたことか。できることなら取り替えてしまいたい、とも。
他人に言われるまでもなく、鈴凛は自分の手が好きだった。細く長い指は、狭く小さな場所をも苦にしない。太く節くれだった指には難しい場所でも、鈴凛なら難なく入り込める。そのおかげでジジには何度も誉められた。この傷だらけの手を「働き者のいい手だ」と。
「――大変ね」
黙って手をさすり続ける鈴凛に、咲耶はやさしげな笑みを向けた。
「そんなでもないよ。もう慣れちゃったし。……咲耶ちゃんのほうこそ、大変じゃない?」
「ううん。慣れちゃったから、そんなでもないかな」
二人は顔を見合わせて笑い、やがて、どちらからともなく早足で歩き出した。
再び疼く火傷に少し顔を歪めながら、鈴凛は幼い頃からの疑問を思い浮かべていた。
そういえば、パパやママの話って一度も聞いたことなかったっけ。あの子から。
*
「咲耶ちゃん、おそーい」
リビングに足を踏み入れるなり、不機嫌そうな雛子の声が二人を出迎えた。フリルのついた黄色いワンピース姿で椅子に腰掛け、床に届かない足をぶらぶらさせている。
雛子がむくれるのも無理はない。円形のテーブルには白いテーブルクロスが掛かり、中央には三枚重ねのティースタンド。段ごとにケーキやスコーンが盛られ、ふんわりと漂う甘い匂いが鈴凛の鼻をくすぐる。こんなおあずけ状態で鈴凛たちを待っていたのだから、雛子ならずとも機嫌を損ねようというものだ。テーブルを取り囲む顔――雛子、亞里亞、千影、花穂――は、みな一様に曇っている。
「まったくだ。これなら、ミカエルに任せたほうがよほどに早かっただろうね」
苛立ちを押し殺したような千影の声が続く。向き直った鈴凛はその異様な姿に思わず、あっ、と声をあげた。
「千影ちゃん、その頭は……?」
「見ればわかる」
千影は頬を膨らませながら、忌々しげに吐き捨てる。
「そりゃ、わかるけど。でも、それって――」
「姉や、亞里亞とお揃いなの」
「あ、亞里亞くん……!」
その隣に座る亞里亞がうろたえる千影の腕を取り、自分の方へ引き寄せた。千影の顔がすぐに赤く染まる。
亞里亞の言葉通り、千影の頭には黒いレース地のヘッドドレスが被さっていた。そればかりか、彼女の全身を包んでいるのは亞里亞とよく似たデザインのドレスだ。頭と同じく、黒で統一されている。
「そんなにじろじろ見るな。私は見世物じゃない」
物珍しげな鈴凛の視線に、千影が眉を顰める。
「へぇー。さすがと言うか何と言うか、本当にお揃いね。しかもバッチリ似合ってるし。どっから見ても完璧なゴスロリ姉妹?」
苦虫を噛み潰したような千影をよそに、鈴凛はテーブルを回り込みながら率直な感想を漏らす。椅子の足が隠れるほどに膨らんだスカートは、なるほど、まさに亞里亞の好みそのものだ。
「似合う? 冗談はやめてくれ。こんな服、私のキャラクターに合わない。私はもっと――」
「姉や、ふわふわ嫌い……?」
亞里亞がたちまち表情を曇らせる。
「大丈夫よ、亞里亞ちゃん。姉やはね、素直に好きって言えないだけなの」
空いた椅子へ腰を下ろしながら、咲耶がやさしく声を掛ける。
「だって、もし本当にドレスが嫌いだったら、こうして本当に着たりしないでしょ? ……そうよね、千影?」
「そこで私に振るな」
意地の悪い笑みを浮かべる咲耶に対し、千影は渋面そのもの。
「姉やぁ……」
加えて、縋るような亞里亞の視線が容赦なく千影を貫く。千影の頭がパンクするのも時間の問題だ。赤い顔がさらに赤くなっていく。
鈴凛は咲耶と千影の間に座り、二人の視線をさえぎるように身を乗り出す。
「ところでさ、そのドレスってどうしたの? 何か、すっごい高そうだしさぁ」
「鈴凛ちゃんっていつもそれねぇ」
咲耶がやれやれと肩をすくめた。
「とかいって、咲耶ちゃんも気になるんでしょ?」
「まあね。正直な話」
「私もだよ」
いくらか平静を取り戻したらしい千影が、小さく手を上げる。
しばらくの間、忙しく視線が飛び交ったが、やがて亞里亞へ向けて収束した。当の本人は小首を傾げ、目をぱちぱちさせている。
千影が軽く首を振って促すと、その腕に頬を擦り寄せながら亞里亞が口を開いた。
「亞里亞がね、じいやにお手紙書いて、送ってもらったの」
一同が互いに顔を見合わせる。
「じいやって……ええと、メイドさんだっけ」
「ああ。どうもそうらしいね」
代わって頷いた千影が、さり気なく鈴凛に目配せした。
亞里亞は、ここへ越して以降もフランスの実家と頻繁に連絡を取り合っているらしい。千影曰く、手紙の体裁をした交換日記、とのことだが、あらかじめ封筒に印刷された宛先は国内のものになっている。一度、千影の依頼で調べたことのある鈴凛だが、結果は驚くべきものだった。
そこは、地図に載っていない架空の場所だったのだ。
にも関わらず、その住所から定期的に手紙や荷物が送られてくる。ミステリー以外の何物でもない。
四葉に首を突っ込まれないよう、表向きは追跡を諦めた鈴凛だが、水面下で密かに調査を続けている。千影もそれを知っていて、何かの拍子に催促してくる。亞里亞の姉という立場には納得できても、己の出自にはまだ納得できていないらしい。
鈴凛は、何気ない振りを装って小さくかぶりを振った。進展が無いという意味で。
「でも、採寸とかしてないんでしょ? それでピッタリなんだから、やっぱりそこらの出来合いとは違うわね」
「さい、すん?」
聞き慣れない咲耶の言葉に、亞里亞が姉を仰ぎ見る。
「サイズを測る、という意味さ」
「それなら亞里亞、ちゃんと『さいすん』しました」
千影が首をひねる。
「いや、しかし、私には覚えがないな……」
「姉やとお風呂に入ったときなの」
「お風呂? ますます覚えがない……」
本格的に頭を抱えて悩み出す千影に、亞里亞がいたずらっぽく笑い掛けた。
「姉や、忘れちゃったの? あのときの亞里亞はね、こうやってね――」
と、手のひらを大きく広げた亞里亞は、それをおもむろに千影の胸へ押し当てた。
その瞬間、千影の表情が凍りついた。
「ほら……姉やのお胸、亞里亞の手にぴったり! でもやっぱり、亞里亞より大きいの」
千影はぱくぱくと口を動かすばかりで、ほとんど声になっていない。
「姉や、思い出してくれた?」
「ダメだよ、亞里亞ちゃん。千影ちゃん、すっごく困ってるでしょ?」
なおも千影の胸を揉みしだく亞里亞の腕を、雛子が引っ張った。言われて、雛子と千影を交互に見比べた亞里亞は、引き攣った千影の顔にちょっと眉を歪めた。
くすん、と鼻をすする亞里亞の頭を、雛子がいいこいいこする。
「亞里亞ちゃん、いいこと教えてあげるね。おっぱいって、いきなりぎゅってつかむとすっごくイタいんだって! 前にね、咲耶ちゃんのおっぱいをぎゅってしたら、そういうふうに怒られちゃったの」
「なっ……ちょっ、ひ、雛子ちゃん?」
今度は咲耶が慌てる番だった。弾かれたように立ち上がり、雛子の両肩をがっちり掴んで教え諭す。
「あのね、そういうことは人前で言っちゃダメなのよ」
「そういうことって、なに?」
「いや、その、だから……とにかく、言ったらダメなの」
「どうして? 亞里亞ちゃんに教えてあげないと、千影ちゃんがイタいイイタいで大変なんだよ?」
「姉や、それってホント?」
青い瞳を不安げに瞬かせ、亞里亞が姉を振り返る。
「あ、ああ。痛い。とても痛い」
上擦った口調で狼狽ぶりを隠せない千影に対し、亞里亞はどこかのんびりとしたものだ。
「でもね、亞里亞はちっともイタくないの」
亞里亞はそう言うと、千影の胸から手を離してゆるゆると両腕を上げた。触れ、ということなのだろうか。
傍観者の鈴凛は、もはや笑うしかなかった。
「大変ね、二人とも。まあ、アニキがいないのが不幸中の幸いってところじゃない」
「そういえば、お兄ちゃまって今日はどうしたの?」
興味津々といった感じに成り行きを見守っていた花穂が口を挟む。千影がハッと我に返り、もごもごと喋った。
「今日は、可憐くんと鞠絵くんのお相手……だったかな。ミカエルは留守番のようだが」
「ふぅん、そうなんだ。今の花穂ね、いつもより可愛いお洋服着たから、お兄ちゃまに見てもらって『かわいいよ』って褒めて欲しかったのになぁ」
花穂は臆面もなく言ってのける。
だが、いつもより可愛い洋服というのは事実だ。花穂にしては珍しく、フリルでいっぱいのブラウスに、これもまたフリルで縁取った若草色のスカート。ただし、スカートの丈は普段通りの短さだ。
そんな花穂が不意に顔を俯かせ、ぽつりとこぼした。
「でも……いいなぁ、亞里亞ちゃん。花穂ね、衛ちゃんに着てもらおうって思って可愛いお洋服用意したのに、衛ちゃん、自転車で逃げちゃったから……」
向き直った鈴凛の目に、花穂のむっちりとした太ももが映る。
「もしかして、スカート?」
「うん、スカートだよ」
「フリルでいっぱいだったりする?」
「そうだよ。上も下も、花穂のよりいっぱいついてるんだぁ」
「もちろん、そのスカートって短いよね?」
「衛ちゃんが動きやすいようにって、すっごく短いの」
「……スパッツ、穿かせてあげればよかったのに」
「でも、花穂は平気だよ? それに、フリルのスカートからはみ出てたらちょっとカッコ悪いもん……って、どうして花穂がスパッツ隠したってわかったの?」
「いや、だって……ねぇ?」
半笑いの鈴凛が一同を見回して同意を求めると、咲耶と千影の噛み殺した笑顔がそれに応えた。対照的に、花穂を含めた年少組は何が何やらという様子で顔を見合わせている。
「私が言うのも何だが、衛くんが逃げるのも無理はないね」
「えぇっ? 何で?」
花穂は心底驚いたように声を張り上げる。
「服もそうだけど、趣味や好みは人に押し付けるものじゃないのよ。……ま、何事も例外はあるけどね」
当てつけるような咲耶の口ぶりに、たちまち千影の目尻が吊り上がる。
「自意識過剰過ぎ。別に千影のことだなんて言ってないじゃない。ホント、あんたって素直じゃないわね」
「うるさい。余計なお世話だ」
と、再び始まる睨み合い。咲耶は背もたれに上体を預けて余裕の構え。千影はテーブルに身を乗り出して眼光鋭く。
つい先ほど本心を垣間見ただけに、鈴凛には咲耶の態度がどうにも解せなかった。
ケンカするほど仲がいいとはよく言うが、どちらかといえばそれは、双方向な関係にこそ当てはまる言葉だ。だがこの二人の場合、先に挑発めいた言葉を投げつけるのは、決まって咲耶の方からなのだ。
本当に素直じゃないのは咲耶ちゃんのほうかも。何となく、鈴凛はそう思った。
「まあまあ、二人ともさ。せっかくのお茶の時間なんだから、もう止めにしない? あ、続きをしたかったら、審判引き受けるから。今なら十分百円」
鈴凛が突き出した手を、咲耶が叩き落した。
「そんなことより、ヒナ、もうおなかぺこぺこだよぅ」
雛子がお腹を押さえてアピールすると、亞里亞と花穂もそれを真似してみせた。揃ってのポーズに、姉たちがようやく笑顔を見せる。
「ホントね。せっかくの焼きたてスコーンも冷めちゃって」
鈴凛はそう言われて初めて、二人の口論が未だ続いていることに気付いた。残響が邪魔をしてよく聞き取れないが、四葉のほうはしきりにアルファベットを連呼しているようだ。
「アタシ、見てくる」
鈴凛が腰を浮かせかけたちょうどそのとき、二人がキッチンカウンターの陰から姿を現した。
「姫には姫のやり方がありますの。四葉ちゃんは口を出さないで!」
「でも、アフタヌーンティーだけはどうしてもゆずれマセン! ミルクティーはゼッタイにM・I・F!」
白雪の抱えたトレーには、大ぶりなポットとティーサーバーがでんと乗っている。見た目にもかなり重そうだ。一式を手に平然と歩み来る白雪の回りを、四葉がうろちょろとまとわりつく。そんな四葉の腕にも、陶器のミルクピッチャーがしっかりと納まっているのが少しおかしい。
「白雪ちゃんのクッキングはすごいデス。リスペクトしてマス。だから、その代わりに四葉のやり方もリスペクトしてクダサイ」
「これはマダムから教わった方法ですの。尊敬するマダムを裏切るなんて、絶対にできませんの」
「ちょっと、さっきから何騒いでるの」
咲耶が眉を顰めると、白雪がため息混じりでトレーを置いた。
「四葉ちゃんったら、ミルクティーを淹れるときに――」
「ミルクが後なんてジャドウなのデス!」
白雪の横合いからすかさず四葉が噛みついた。白雪の頬がぷぅっと膨らむ。
「いいえ、ミルクが後ですの!」
「ミルクが先! 先ったら先なの!」
「後! 後に決まってますの!」
叫ぶうちに興奮の度合いが増す二人は、怒りに染まった顔を互いに突き合わせる。
「先、ゼッタイに先! Milk In First! M・I・Fデス!」
「誰が何と言おうと、M・I・A! Milk In Afterですの!」
「M・I・F!」
「M・I・A!」
「M・I・F! M・I・F!」
「M・I・A! M・I・A!」
「もう、いい加減にしなさい!」
堪りかねた咲耶が、椅子を蹴って立ち上がった。咲耶は二人を交互に見ながら、
「お茶の入れ方ぐらいで姉妹ゲンカしてどうするのよ。ヒナちゃんと亞里亞ちゃんを見習って、もう少し仲良くできないの?」
直後、雛子と亞里亞に視線が集中する。二人は怯えたように肩を寄せ合った。
反論しようと口を開き掛ける四葉と白雪だが、真っ向から咲耶に睨まれてはどうすることもできない。不満たらたらといった表情で、互いにそっぽを向いた。
「だって、四葉ちゃんが悪いんですのよ? 姫がお茶の準備をしているときに邪魔しに入ってきて――」
「それは違いマス。白雪ちゃんが間違っていたのを見たから、四葉はそれを直してあげようとしただけで――」
「はいはい、それはもういいから」
鈴凛は両手を上下にひらひら振って、二人をなだめた。
「だいたい、ミルクを入れる順番ぐらいで何がそんなに違うのよ。おいしければどっちでもいいじゃない」
「鈴凛ちゃん、何を言ってるデスか」
四葉が、ちっちっと指を振る。
「そのおいしさが、ミルクを入れる順番で決まるのデスよ?」
「へぇー、そうなの?」
えっへん、と胸を張る四葉の前へ白雪が強引に割り込む。
「そうですの。お紅茶を先に入れてその後からミルクを注いだほうが、色合いの変化でミルクを入れた量もわかりやすくて、お好みの味を作りやすいですの」
やはり得意げに自説を披露してみせるのだが、四葉の体当たりによる逆襲を受けて、小さな白雪はあっさり弾き飛ばされる。
「あ、今の白雪ちゃんのは正しくないデスからね? 正しいのは四葉のほうデス」
「四葉ちゃんこそ、そんなデタラメ教えて恥ずかしくないんですの?」
「もう、何度言ったらわかるデスか? M・I・Fはそんなにアバウトではありマセン。あつーい中につめたーいミルクを入れると、ミルクの、ばん……ばんぱく……」
「たんぱく質」
「そう、それ! さすがは鈴凛ちゃん……ええっと、つまり、たんぱく質が熱で壊れてしまって、おいしくないミルクティーになってしまうのデス。これはロイヤルアカデミーの出した研究結果だから、ゼッタイにゼッタイにM・I・Fが正しいの!」
四葉は鼻息も荒く言い放つと、懐から取り出した手帳のページをめくりだす。
「ええっと、確かこのへんに……あっ、ありマシタ!」
革張りの手帳から引っ張り出されたのは、小さく折り畳まれた新聞の切り抜きだった。四葉はすっかり黄ばんだそれを丁寧に開き、得意げに鈴凛の鼻先へ突きつけた。
「どうデスか? これこそが、ミルクティーはM・I・Fのほうが正しいという証拠なのデス!」
「いや、どうって言われても」
鈴凛は四葉の手から切り抜きをもぎ取り、つらつらと目を通した。いくつかわからない単語はあるが、おおよそは理解できる。
ひとり頷く鈴凛の手元を、咲耶がひょいっと覗き込んだ。
「わかるの?」
「んー、大体は」
「へぇー、さっすが」
咲耶の腕が肩に回された。淡い香水の匂いがふわりと漂う。不愉快そうな四葉の鼻息が聞こえるが、敢えて無視した。
「留学しようと思ったら、これぐらいはできないとね」
「なるほど。……でも、お兄様はどうするの?」
「そーねー。一緒に連れて行こうかなー、なんて」
「兄やをつれていっちゃ、イヤ」
亞里亞がいやいやをしながら、くすんとしゃくりあげた。千影の鋭い一瞥を受けながら、鈴凛はぶんぶんと手を振って言い繕った。
「じょ、冗談よ、冗談。だいたい、アニキがみんなをほっぽり出すわけないじゃない。それに、亞里亞ちゃんには姉やがいるでしょ?」
「兄やは兄やで、姉やは姉やなの。それに、兄やはみんなの兄やだけど、姉やは亞里亞だけの姉やです」
亞里亞はそう言って、ひしっと千影に抱きつく。赤らめた顔をぷいっと背ける千影だが、表情を見る限りはまんざらでもなさそうだ。
「咲耶ちゃん。ヒナも、ヒナも」
雛子が椅子から滑り降りて、咲耶に駆け寄る。手を広げ、微笑みを浮かべながら迎え入れる咲耶。
「はいはい、ヒナちゃんもまだ甘えんぼさんね」
「ちっ、ちがうもん! ヒナは、亞里亞ちゃんのマネをしてるだけなの!」
そうは言うものの、雛子が咲耶を抱きしめる力は相当なものだ。少し辛そうな咲耶の表情が程度を物語っている。だが、咲耶は特に叱るでもなく、雛子の抱擁に甘んじている。
そんな姉妹の向こうに見えるのは、花穂の物欲しそうな顔。いつもべったりの衛がいないのでは、寂しさを紛らわせることもできない。
思えばみな、親元を離れる年齢ではないのだ。そもそも、里心のつかないほうがおかしい。血の繋がりさえもわからない姉妹の今を考えるに、かつての自分はどんなに恵まれていたのかがよくわかる。
義理とはいえ両親と暮らしていた。あの頃はジジも生きていた。
そして、幸せだったあの頃はもう戻ってこない。この先どんなに寂しくても、先へ進むしかないのだ。
「あぁっ! ナニしてるデスか白雪ちゃん!」
素っ頓狂な声に、姉妹は一斉に向き直った。
「何って、紅茶を淹れているだけですの」
白雪はすまし顔でしれっと言ってのける。四葉が訴え掛けている間に黙々と手を進めていたものらしい。並べられたカップには、それぞれ半分ほどの紅茶が注がれてある。
「だからっ、それは後なのデス! ミルクティーは先にミルクを入れるの!」
「もうその辺にしといたら? 今は白雪ちゃんに譲って、後でM・I・Fのを淹れればいいじゃない」
鈴凛は、かぶりを振りながら新聞記事を突き返した。
「鈴凛ちゃんまでそんなこと言う……。ホントにこれ読んだデスか?」
「はいはい、ちゃんと読みましたよー」
「だったらどうして? 鈴凛ちゃんの大好きな『ロンリ的』っていうのに、M・I・Fは合ってるはずデス」
「アタシはお茶を飲みに来たの。そういうのは後よ、後」
首を巡らせて意見を求めると、四葉を除いた全員が鈴凛に頷き返した。孤立無援となった四葉だが、まだまだやる気らしい。
「で、でも! カップにいきなり熱いのを入れたりしたら、割れちゃうこともあるデスよ」
「ティーカップならもう割れてますの」
ため息混じりの白雪に合わせ、花穂が照れ臭そうに頭を掻いた。
「花穂、また転んじゃったの……」
並べられたカップをよく見ると、揃いの白磁の中にひとつだけプラスチックのものがあった。花穂がいつも使っているカップだ。
血相を変えた四葉が花穂へ詰め寄り、胸倉を掴んでがくがくと前後に揺すった。
「よ、四葉ちゃん……くっ、苦しいよぉ……」
「どっ、どうしていつもいつもいーっつも転ぶデスか! 鈴凛ちゃん、花穂ちゃんを改造してあげてクダサイ!」
「悪いけど、それ無理。できたらとっくの昔にやってるって」
まとめて切り捨てる鈴凛に、花穂がしおしおとしょげ返った。
「そんなぁ、鈴凛ちゃんまで……」
そんな騒ぎを尻目に、白雪は着々と準備を進めて行く。
「亞里亞ちゃん、お砂糖はいくつ?」
「亞里亞は、よっつー」
湯気の立つカップに角砂糖を入れながら、
「M・I・Fもいいですけど、でも、亞里亞ちゃんのようにすごく甘いのを飲みたいときは、先にお砂糖を溶かさないといけませんの」
「なるほど、それも道理だね」
千影が亞里亞の頭をなでながら呟く。狭まる包囲網に、四葉が必死の形相で言い募る。
「だけど、それならミルクを熱くすれば――」
「バカねぇ。それじゃ、先でも後でも変わらないってことでしょ? 熱でたんぱく質が壊れる云々が議論の元なんだから」
「そ、それは……」
鈴凛の指摘に唇を噛み締める四葉。ちょっとかわいそうかな、と思いつつも鈴凛は先を続ける。
「あと、こっちと向こうとじゃ、水も牛乳も味が全然違うんでしょ。こんなのマズくて飲めないデス、って騒いでたのは誰だっけ?」
「あ、それと同じことをマダムから聞きましたの。ヨーロッパのお水はあんまりお料理向きじゃなくて、だから、蒸したり焼いたりする料理が多くて、煮るときも牛乳やワインを使うんですよって」
「そういえば、向こうは硬水が主流だったね。春歌くんが驚いていたよ。石鹸の泡立ちが違うって」
「こうすい? お水は、バラのお花からできてるの?」
亞里亞が首を傾げた。もっともな疑問に千影が笑いながら答える。
「その香水じゃなくて、硬いお水という意味の硬水さ」
「お水がかたいの? でも、それだと氷になっちゃうの」
「その水でお肉を茹でると硬くなる、という意味なんだ。……きみにはまだ難しかったようだね」
千影の言葉を裏付けるように、亞里亞はきょとんとした表情のままで姉を見上げている。
「ああああああ、もうっ!」
すっかり蚊帳の外に置かれた四葉が、どすどすと足を踏み鳴らす。
「四葉のこと、無視しないでクダサイ!」
鈴凛へ向き直った顔には、かすかに涙が浮かんでいた。
「べ、別に無視なんかしてないって」
「だったら、白雪ちゃんに何とか言って。ミルクが先デスって」
「そうは言っても、もうできちゃったものは仕方がないでしょ?」
ミルクティーの入ったカップは、既に全員の前へ配られていた。もちろん、四葉の分もある。
「いらない! こんなのいらないもん!」
しかし四葉は、乱暴にそれを押しのけた。あふれ出た薄茶色がテーブルクロスをじわりと染める。
「この、バカよつ――」
「姫への侮辱はマダムへの侮辱ですの!」
鈴凛が立ち上がるよりも早く、白雪が大声を張り上げた。
「あやまって。姫じゃなくて、マダムにあやまって!」
「どうしてデスか? あやまるのは四葉じゃなくて、白雪ちゃんのほうデス。白雪ちゃんが、四葉のママにあやまってクダサイ!」
突然飛び出た単語に、鈴凛はハッと息を飲んだ。
「そっちこそどうしてですの? どうして四葉ちゃんのママに姫があやまらないといけないの? 何の関係もないですのに」
「関係なくなんかないの! だってこれは、四葉がママから教わったやり方だもん」
「それなら姫だって同じですの。これはマダムから教わったやり方。誰が何と言おうと、絶対に譲れないですの」
「二人とも、いい加減にしてくれないか」
今度割り込んだのは、渋り切った千影の声だった。
「アフタヌーンティーだからと着替えてみれば――」千影はふと言い澱み、慌てて訂正する。「着替えさせられてみれば、この体たらくだ。私に骨折り損させるつもりかい?」
もって回った言い方に咲耶が眉を顰める。もちろん、千影は気づかない振りをした。
「これ以上続けるようなら、私は失礼させてもらうよ」
そう告げる千影の袖を、亞里亞がぎゅっと引っ張った。「もとい、私たちだ」
続けて鈴凛も手を上げた。
「悪いけどアタシも。まだ作業の途中だし」
「ええっ、そんなぁ」
途端に四葉の勢いが弱まる。
「そんなこと言わないでクダサイよ、鈴凛ちゃん」
「考えてみれば、アンタのほうがお姉ちゃんじゃないの。妹に譲ろうとか思わない?」
「鈴凛ちゃんは四葉の味方デスか? それとも敵デスか? ハッキリしてクダサイ!」
どっちでもない、と言おうとした鈴凛だが、
「アタシの言うこと聞いてくれたら味方になってあげる」
「――どうせ、白雪ちゃんに譲ってあげてー、って言うんでしょ?」
「ふぅん、よくわかってるじゃない」
「それはモチロン、四葉と鈴凛ちゃんの仲デスから……じゃなくて!」
と、四葉は再び地団駄を踏み始める。
「とにかく、ゼッタイにゼッタイに、ゼーッタイにこれだけはダメなの!」
ぶん、と振り下ろされた四葉の手が激しくテーブルを叩き、その衝撃で鈴凛と亞里亞のカップがひっくり返った。避ける間もなく、鈴凛の手にミルクティーが引っ掛かる。
「あっ、つぅ……っ!」
ビニールの隙間から浸入した液体が、カット綿にじわじわと染み込む。ただでさえ熱いというのに、火傷で腫れた肌にはあまりに刺激が強過ぎる。たまらず鈴凛は、力まかせに絆創膏を引き剥がした。
「いっ、てててて……ちょっと、何するのよこのバカ!」
「……亞里亞のミルクティー」
他方、亞里亞はと言えば、ドレスに広がる染みをただ呆然と見下ろすばかり。
千影が音もなく静かに立ち上がり、つかつかと四葉に歩み寄った。
「悪いが、ここから出ていくのはきみのほうだな」
冷ややかに告げると、四葉の奥襟をしっかと掴んだ。
「ちょっ……どっ、どうしてデスか?」
決して力の強いほうではない千影だが、亞里亞で鍛えられたせいもあってか易々と四葉を連れて行く。扉まで引っ張ったところで、四葉を廊下へ放り出した。
「そこで反省するんだね」
「そんなぁ! だって、ゼンゼンわざとじゃないのにぃ……。鈴凛ちゃん、何とか言ってクダサイ」
鈴凛は、再び痛み始めた指をぎゅっと押さえる。
「悪いけど、アタシも千影ちゃんに賛成」
言葉でダメなら身体に教え込むしかない。鈴凛が今までに得た教訓のひとつだ。
首を振って合図を送ると、千影が扉に手を掛けた。
「また、来世……」
しかし、今日の四葉はいつになく諦めが悪い。
千影のスカートの裾を掴み、締め出されまいと踏ん張り始めた。これに慌てたのは千影だ。
「は、離すんだ。せっかくのドレスが」
千影は四葉の手首を捉え、もう片方の手で本体を押さえようと腕を振る。
「フリフリの、ドレスが、キライなのは、とっくの昔に、チェキ済み、なのデス」
しかし四葉は、じたばたと床に踏み鳴らしながら千影の手をかいくぐり続けている。このままでは破れてしまうのも時間の問題だ。
鈴凛はポケットに突っ込んでいたペットボトルを手に立ち上がり、
「千影ちゃん!」
振り返った千影が上体を反らせたのと同時に、四葉へ目掛けて思い切り投げつけた。
その直後、四葉がもんどりうって倒れる音が響き渡り、それを遮るように千影が扉を閉めた。もちろん、鍵は忘れない。
「開けて! 開ーけーてーよー!」
起き上がったらしい四葉が力いっぱい扉を叩く。白雪が、続きになっているキッチン側の扉を閉めに走った。
咲耶が鈴凛に顔を寄せて囁く。
「いいの?」
「別に。……全然学習能力ないんだから、あのバカは」
騒音と共に揺れる扉をぼんやりと眺める鈴凛だが、ふっと我に返る。
「そんなこと、どうしてアタシに聞くのよ」
「だって、保護者でしょ? 四葉ちゃんの」
「冗談キツイなぁ、もう。アタシのほうがあの子より年下なんだよ?」
「でも、一ヶ月だけじゃない」
咲耶の言葉通り、鈴凛と四葉の生まれは一ヶ月と違わない。四葉が六月で、鈴凛が七月。もちろん、母親が同じなわけはない。本当の姉妹ではない、何よりの証だ。
鈴凛は本当の父母を知らない。訊けば教えてくれたのかもしれないが、訊かなかった。訊くつもりもなかった。
知りたいと思ったことはある。だが、真実を知ったが最後、今の幸せな暮らしが失われてしまうような気がして、それが何よりも恐ろしかった。
しかし、四葉はさっき、何と言って叫んだだろうか。
「ママ、か……」
鈴凛は思わずそうひとりごちた。咲耶が意味ありげにこちらを見たが、すぐ視線を外す。
そのうちに、千影が足取り重く戻って来た。
「伸びた……」
憮然とした面持ちで座り、がっくりとうなだれる。そんな千影の頭を亞里亞がなでなでした。
あまりの意気消沈ぶりに、咲耶がため息混じりで苦笑する。
「あんなこと言って、結構気にいってたんじゃない」
返事が無い。まるで屍のようだ。
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