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その後、白雪がミルクティーを淹れ直し、ようやくお茶会が始まった。
三時を回った太陽は大きく西に傾ぎ、横合いから入り込む陽光が部屋中を染める。見渡す顔のどれも陰が濃い。どこか、影絵を連想させる。
「それでね、衛ちゃんってば――」
花穂はずっと衛の話ばかりしている。当の衛がいないせいか、いつになく饒舌だ。今に限らず、話題の主がいないほうが話はしやすいものだ。衛は今頃、不意のくしゃみに襲われているに違いない。
「でも、それぐらいは全然普通じゃない――」
適度に相槌を打ち、会話をリードするのは咲耶の役目だ。話題をどんどん引っ張り出し、皆が退屈しないよう、均等に振り分けてゆく。姉妹のまとめ役を自称するだけあって、この辺はさすがにうまい。咲耶がいなければ、こんなに和やかな空気が生まれていたかどうか。
対照的に、あまり存在感がないのが千影だ。時折、亞里亞の問い掛けに答えるだけで、自発的に口を開こうとしない。ドレスの一件を引き摺ることもなく、いつも通りの佇まいというべきだろうか。
よくよく注意してみると、皆に話を振っている咲耶も千影だけは避けて通っている。かといって険悪な空気が流れているわけでもなく、ふたりは平静そのものだ。この辺は付き合いの長さがそうさせているのだろう。千影からは「物心つく前からの因縁」と聞かされているが。
鈴凛はふと、扉を振り返った。
長いといえば、四葉との関係もそうだ。
初めて出会ったのは十年近く前のこと。
ジジのお友達だよ、と会わされた白髭の紳士。羽織ったトレンチコートの陰からひょこっと顔を覗かせていたのが四葉だった。
祖父同士が友人だったせいか、ふたりが仲良くなるのにほとんど時間は掛からなかった。
「リンはね、七月うまれ。えっと、ヨツバちゃんは?」
「ええっと、ヨツバはJune……六月だから、ヨツバが少しおねえチャマ」
そう言って、年上風を吹かれたのを覚えている。その後、四葉に手を引かれるままに歩き回って迷子になったことも。四葉があまりにわんわん泣くものだから、心細いのを堪えて必死で慰めたというおまけもあるが、何しろ四葉のことだ。もう覚えていないに違いない。
四葉は、あの頃から何も変わっていない。髪の括り方も、怪しげな日本語も、勝手に突っ走って周囲を顧みないところも。そして、その尻拭いをするのが自分ということも。体だけが大きくなったと言っても過言ではない。
廊下の外は静かだ。何も聞こえない。暴れ飽きてどこかへ行ったのか、泣き疲れて眠ったのか。あるいはその両方ともか。
「気になる?」
突然、横合いから咲耶の顔が割り込んだ。唇の端に緩い笑みが浮かんでいる。
「な、何が?」
「またまたとぼけちゃって」
と、肘の先で突っつく咲耶。
「気持ち悪いなぁ。……その、ドア壊れてないかって思って」
「ふぅん。で、それだけ?」
「それだけ、って……」
鈴凛は当惑気味に前へ向き直った。
めいめいに会話の花を咲かせる姉妹たち。何かの拍子に袖や裾が翻ると、影色をしたレース模様が平面上で踊る。
ふと見渡すと、自分のチャイナシャツが場違いに思えるほど、誰もが綺麗に着飾っている。亞里亞は言うに及ばず、着回しに頓着しなさそうな千影でさえも。
「――どうしたの?」
「へっ?」
花穂に言われて初めて、鈴凛は自分が立ち上がっていたことに気づいた。
「あー、えっと……まだやらなくちゃいけないこととか、思い出してさ」
「もう行っちゃうの? 花穂ともっとお話しようよ。だって、いっつも四葉ちゃんが邪魔するんだもん」
「あんまりわがまま言っちゃダメよ。そもそも、私が無理言って連れて来たんだから」
咲耶がたしなめると、花穂は少しつまらなさそうに「はーい」と返事をした。
「それに、もう四時過ぎてるし。……んー、そろそろお開きかな。あんまり遅いと、晩ご飯が食べられなくなっちゃうでしょ?」
「はいですの。今夜のメインディッシュは姫特製、麻婆豆腐ハンバーグ」
「ヒナ、ハンバーグ大好き!」
雛子がバンザイをすると、亞里亞もその真似をして両手を高々と上げた。その隣で、腕組みをした千影がもそもそと呟く。
「ところで豆腐はどっちにの言葉に掛かるのかな? 麻婆豆腐をハンバーグに掛けるのか、それとも麻婆あんの豆腐ハンバーグなのか――」
「そんなのどっちでもいいでしょ。……さ、お片づけお片づけ」
咲耶の号令で、鈴凛を除く全員が一斉に動き出した。
「あ、アタシも――」
「鈴凛ちゃんはこっちのお片づけ」
咲耶に両肩を掴まれた鈴凛は、そのまま扉のほうへと押し出される。
「だーかーらー、そんなのじゃないってば」
「何言ってるの。このままだと、四葉ちゃんが戻りにくいでしょ」
いい加減、四葉の尻拭いはウンザリだ。何かあるとそう仕向ける皆にもウンザリだ。
「いいの! ……これぐらい、たまにはいい薬よ」
鈴凛は戸口の木枠に手を引っ掛け、咲耶に抵抗した。首だけを巡らせて睨みつける。
「だいたい、あの子ってバカなのよ。言っても聞かないし、同じ失敗は何度でもするし。ミカエルのほうがよっぽど賢いんじゃない? おまけに金魚のフンみたいにいっつもベタベタくっついてくるし。何かあったらすぐに泣きついて来て、仕方ないからフォローしてあげたら、また違うところでトラブル作ってる。ホント、昔っから全然変わってないんだから。あのときだって、初めて来た場所で右も左もわからないのにアタシを引きずり回してどんどん先に進んで、疲れたーだの、おなかすいたーだのってピーピー泣いちゃってさ。ジジが持たせてくれたビーコンがなかったら、本当に遭難してたかもしれないし」
「へぇー、そうなんだ」
駄洒落ともつかない返事と共に、咲耶の足が鈴凛の膝裏にあてがわれた。そのまま膝がかっくんと折れ曲がり、バランスを崩した鈴凛は廊下へ転げ出される。
「それだけ知ってるんなら、ますますもって好都合。じゃ、そっちのフォローはよろしく」
一方的にまくし立てた咲耶は、ウインクひとつを残して扉を閉めた。
鈴凛はしばらく呆然と座り込んでいたが、大きく息を吐きながら立ち上がり、よろよろと歩き始めた。
「やれやれ、ホントに世話の焼けるお姉チャマですこと……」
思えば、初めて会ったときからふたりの役割は何も変わりがないのだ。四葉は引っ掻き回す役、自分はそれを元に直す役。時には一緒になって羽目を外すこともあるが、それでも最初に頭を下げるのは決まって鈴凛だ。
四葉の子守りから解放されたい、とまでは言わないが、もう少し負担が減ってほしいとは思う。
大人へ近づくにつれてやりたいことは増えていくのに、一日は24時間のまま。眠気と闘いながら少しずつ睡眠時間を削ってきたが、それも限界に近い。授業中の居眠りを駆使してどうにか保っているという感じだ。この辺は、受験とは無縁の中高一貫校ならではといえる。
こんなときにふと思い返すのは、ジジの不眠不休ぶりだ。いつ何時に目覚めても、ラボには必ず明かりが点っていた。次々に浮かぶアイディアに急かされて眠れない、とはジジの言葉だが、それを裏付けるように、ラボの片隅には畳を積み上げただけの簡素な寝台が作られてあった。もっとも、そこで眠る姿すら見ていない鈴凛なのだが。
いや、寝顔なら見たことがある。
それはある雨の日の朝だった。いつまでも起きてこないジジを起こしに行ったときのこと。ジジは、いつもの作業着姿で製図台に突っ伏していた。
「ねぇ、ジジ。そんなところで寝てると風邪引いちゃうよ?」
呼び掛けても起きないジジに苦笑いしながらそろそろと近寄る。寝ているジジを起こす機会なんてそうそうない。というより、これが初めてだ。めったにないチャンス。どうせなら、少しびっくりさせてみよう。
足音を忍ばせて背後から歩み寄る。しかし、すぐに足が止まった。何かがおかしい。
大判の白い紙いっぱいに展開された無数の直線と数字。その中を一本の線が横切っている。それはまるで、夜空を走る流星のごとく力強い。だが、その意味がわからない。ジジは何のためにこの線を描いたのだろうか。
訝しみながら進めた足に、小さく何かがぶつかる。目を落とし、その正体を確かめた瞬間、鈴凛は全てを理解した。
それは、ジジが愛用しているシャープペンシルだった。肌身離さず持ち歩き、いつも胸ポケットに差している、ジジお気に入りの。
「ジジ、起きてよ。今日もまた、たくさん教えてくれるんでしょ……?」
冷たい肩にそっと触れ、覗き込んだジジの顔。それは、寝顔ではなく――
「鈴凛ちゃん?」
背後から投げ掛けられた甲高い声に、鈴凛はびくっと跳ね上がった。
「どうしましたですの? 廊下にぼんやり立ちっぱなしで」
急いで目元を擦ってから振り返った鈴凛は、照れ隠しも兼ねて少し乱暴に言い放った。
「別に何も。……で、何か用?」
白雪は鈴凛の顔をまじまじと見つめたあと、手にしていた紙ナプキンの包みを突き出した。
「これ、四葉ちゃんの分。お口に合うかわかりませんですけど」
「あ、ありがと」
「食べてもらえば、姫が正しいってわかります。姫はいつだって、おいしいって言ってもらうために頑張ってますの」
相変わらずケンカ腰な口調に戸惑いながら、鈴凛は受け取った。
「いつもおいしいって食べてるから、きっと大丈夫じゃないかな――」
ポケットにねじ込みながら言い、慌てて付け加える。
「ええと、さっきはホントにゴメンね。あの子にはアタシが言い聞かせるからさ」
俯いて頭を掻く鈴凛の耳に、ネコの威嚇音にも似たため息が聞こえた。
「……どうして、鈴凛ちゃんが姫に謝ったりなんかするんですの?」
「へっ?」
不意に眉間がぴりぴり痛み出す。顔を上げると、冷ややかな視線が鈴凛を待ち受けていた。頬を膨らませた白雪は、己の感情を隠そうともしない。
「四葉ちゃんとケンカしたのは姫ですのよ? それなのに、どうして鈴凛ちゃんが謝るの?」
「いや、それはその」
思ってもみなかった言葉に鈴凛は一瞬声を詰まらせた。そういえば、どうしていつも一緒にいるのだろう。
「やっぱり、姉妹だから――」
「じゃあ、姫は何ですの? 姫だって鈴凛ちゃんの妹なのに」
静かな声が鈴凛を遮った。問い詰めるかのような視線が鈴凛を射貫く。目を外せなくなった鈴凛は、ただ唇を噛み締めて受け止めるしかなかった。
「みんな……みんな、ずるいですの。四葉ちゃんには鈴凛ちゃんがいて、亞里亞ちゃんには千影ちゃんがいるのに、姫には誰もいませんの。誰も、誰も姫のことなんか……」
吊り上った目尻がたちまちに緩んだと思うと、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ始めた。
俯き、肩を震わせながらすすり泣く姿に、鈴凛は今度こそ言葉を失った。
鈴凛の見知っている白雪は、「おいしい」という賞賛の声に笑って応える姿。屈託のない笑顔の背後に、こんな感情を隠していたなんて。
鈴凛は、俯きながら嗚咽を漏らす妹に手を伸ばした。
触れた肩がひくっと大きくわななき、反射的に白雪の顔が上がる。眉を歪めた泣き顔を見て、一瞬手を引きそうになった。思えば、こうして白雪に触れるのは初めてだ。
しかし鈴凛は、無言の問いに答えないまま、白雪の肩を掴んでぐっと抱き寄せた。
「なっ、何するですの……?」
「いいから!」
思わず息を飲むほどにか細く、華奢な肩だった。四葉よりも一回りは小さい。こんな身体のどこに、三度の食事を作るエネルギーが秘められているのかと疑うほどに。
白雪の頭に手を回した鈴凛は、身をよじって抵抗する妹をさらに抱き締めた。背の低い白雪の頭は、鈴凛の肩に寄り掛かる格好。大きなリボンを掻き分けて頭をゆるゆるとなでると、白雪の全身から緊張が解け、ため息がほうっと漏れ出た。シャツが熱く湿る。
鈴凛は密かに安心した。慰める方法はこれしか知らない。少なくとも、四葉はこれで泣き止んでくれる。いつでも。
「その、ゴメン、気付いてあげられなくて。何て言っていいかわかんないけど……あんまり、無理しないほうがいいと思うよ」
白雪は、返事をする代わりに顔をごしごしと擦り付けた。ネコを思わせるその仕草に軽く笑いながら、鈴凛は白雪の頭をさらに強く抱き込む。
「だから、そういうのを無理してるって――」
「無理なんか、してませんの!」
くぐもった叫びが腕の下から聞こえた。
「姫はもっともっと頑張って、マダムに認められないといけないんですの。鈴凛ちゃんや四葉ちゃんみたいにいっつもベタベタなんかしてたりしたら、全然……全然間に合いませんの」
「マダムって、そんなに大切な人なの?」
何気なく発したつもりだったが、白雪はぴたっと口を閉ざす。どうやら図星らしい。
マダム・ピッコリ。白雪曰く、自分の料理の師だという。今の姫があるのも全部マダムのおかげですの、と公言して憚らないほどだ。
だが、白雪はまだ中学生なのだ。いくら背伸びしたがる年頃だといっても、少し大げさなようにも感じる。
もっとも、当の鈴凛もあまり人のことを言えた立場ではない。ジジに自分用の工具セットを買ってもらったあのときから、目指す道はずっと同じなのだ。
鈴凛はまだ会ったことがないが、仲のいい可憐の話によればプラチナブロンドが素敵な老婦人だという。白雪をそこまで惹きつけるマダムとはどんな人なのだろうか。
きっと、ジジに似てるはず。鈴凛はそう思った。
「ねぇ、教えてよ。白雪ちゃんにそこまで言わせるなんて気になるじゃない」
「ウソ! さっきまで、姫のことなんかどうでもよかったくせに……」
「そんなに拗ねないの。ほら、いーこいーこしてあげるから。ね?」
鈴凛はそう囁いて、白雪の髪を柔らかくなで回した。白雪の喉がくうっと鳴ったかと思うと、その身体がふるふると震え出す。
「どしたの?」
「――姫を、子供扱いしないで!」
突然、鈴凛の身体が突き飛ばされ、白雪がよろよろと後ずさった。鈴凛を見返す顔は怒りに赤く染まっていた。
「そ、そんなつもり――」
思わず伸ばした手を、白雪が勢い良く払いのける。
「姫はもう大人ですの! もう赤ちゃんだってできますのに……。確かに姫はみんなよりちっちゃいけど……でも、衛ちゃんや花穂ちゃんなんかより、ずっとずっとお姉ちゃんですの!」
白雪は目元をごしごしとぬぐい、くるっと踵を返して駆け出した。呆気に取られる鈴凛だけを残し、スリッパの音と後ろ姿が夕闇の中へ消えてゆく。
鈴凛は中途半端に残った手で力なく頭を掻いた。
「まいったなぁ……」
慰めるはずが逆鱗に触れてしまったらしい。やはり、対四葉用のなで回し作戦は通用しないということか。
大きくため息して髪を掻き上げ、悄然とその場を立ち去ろうという鈴凛の目に、あるものが映った。廊下の角からちらりと覗く、ドレスの裾。
「千影ちゃん?」
答えるように、みしっ、と床板が鳴った。
「――どうして私だと?」
ややあって返って来た声はかすれて低かった。
「だって、亞里亞ちゃんが盗み聞きなんてするわけないでしょ?」
「なるほど、もっともだな」
物陰から滑り出る千影。黒いドレスが廊下の薄暗さを反映してさらに黒い。
「出てくるタイミングを逸した。すまない」
「話、聞いてた?」
「聞こえてきた、と言うべきかな」
悪びれた様子もなく、千影はさらりと言ってのける。
鈴凛はため息でそれに応えた。皮肉屋だが口は堅い。そういう意味では安心できる相手だ。
「ねえ、どう思う?」
「何が?」
「ああいう返し方でよかったのかなって」
壁に寄り掛かった千影は腕を組み、視線だけを鈴凛に向けた。
「何ていうか、その、他にもうちょっとやり方があったような気がして」
「まあ、難しい年頃だからね」
他人事のような言い方に鈴凛は思わず口を曲げる。それを見た千影が薄く笑った。
「無論、私たちも含めてだ」
「じゃあ、千影ちゃんもアタシと同じことした?」
「だから何が」
「いーこいーこ」
形のいい千影の唇が一段と歪む。
「今の私なら、多分ね……」
千影は首を巡らせ、何気なく廊下の先を見た。その視線の向こうに何があるのか、鈴凛にもわかった。
「今が一番難しい時期さ。白雪くんは」
「どういう意味?」
「端的に言えば、心と身体のバランスが取れてない」
千影はちらっとだけ鈴凛を見て、すぐ視線を戻した。
「自分の意思に関わらず、身体だけが勝手に変化してゆく。誰だって不安になるというものさ。……きみにも覚えがあるだろう?」
鈴凛は黙って頷いた。
「ましてや白雪くんの場合、身長だけがほとんど変化ない。年下の衛くんには追い越され、花穂くんと横並び。亞里亞くんが追い越すのも時間の問題だ。周囲がどんどん伸びていく中で、自分だけがひとり取り残される。それで焦らないほうがおかしいさ」
「――いつも思うんだけど、千影ちゃんってホントよく見てるよね。そういう細かいとこ」
千影はフンと鼻を鳴らして鈴凛に向き直った。話の腰を折られたせいか、見つめる目が鋭い。
「一般人はともかく、占い師には欠かせない能力でね」
「あんまり自慢になんないと思うな、それ。でも、カウンセラーのほうが収入って安定するんじゃない?」
「余計なお世話だ。そしてきみは四葉くんの世話をするのが仕事だな。天職といってもいい」
「そっちこそ余計なお世話」
声を荒げた鈴凛と対照的に、くすくすと千影が笑う。
「何も笑うことないじゃない」
「悪かったよ。少し調子に乗った」
そうは言うものの、千影の口ぶりにはまるで誠意が感じられない。完全にふざけている。しばし、ふたりの間に緩んだ空気が漂う。
が、それも長続きはしない。黄昏時の廊下は、電気を点けるには明るく、そのままにしておくには暗い。まるで、今の心を映したかのように微妙な明るさ。
「でも、どうすればいいのかな、アタシ」
千影は目だけを動かす。身に纏ったドレスも手伝い、青い瞳の千影は人形そのものだ。
「白雪ちゃんがあんなこと思ってたなんて、全然気付かなかった。アタシのほうがお姉ちゃんなのに……」
「きみが気に病むことはない。いつも通りでいれば、それで構わない」
鈴凛は思わず千影を凝視した。視線の意味に気付いた千影は、鋭い一瞥をもってそれに応える。
「本人の問題だ。放っておけばそれでいい。そもそも、私たちが踏み込んでいい領域ではないからね」
あまりにキッパリと千影が言うので、さしもの鈴凛も顔色が変わる。
「で、でも……」
「本人の問題さ」
千影の口調は冷静そのものだ。
「私たちがどれだけ口出ししたところで、あの子の身長が伸びるわけでもない。それに、心がいらぬ希望を持ち続ける限りは、どれだけ身体が成長したところで満足はしないだろう」
「だからって、白雪ちゃんを放っておくの?」
「積極的に諦めることが必要なのさ。今の、ありのままの自分を受け入れるだけのね」
この人はどうしてこんなにも冷淡に振舞えるのだろうか。うまく言い返せない自分に苛立ち、鈴凛の頭が自然にうなだれる。
「でも、それは……千影ちゃんの場合でしょ? 諦めるなんて、そんなの――」
「鈴凛くん」
感情を押し殺した声に呼ばれ、鈴凛は顔を上げた。
視線が交錯し、残照を受けた千影の目が光る。
その刹那、背筋に電流が走り、鈴凛は思わずたたらを踏んだ。感電したときのように手が痺れている。
手を振って痺れを払う鈴凛をよそに、あらぬ方を向いた千影が囁き声で語る。
「私は鏡が怖かった。どうして私はこんな赤毛に生まれたのだろうと、いつも自分を呪っていた。だから、私は鏡が怖かった。これ以上、自分を嫌いになりたく……さっきから、きみは何をじたばたと?」
話の腰を折られたせいか、鈴凛を見る目は鋭い。
「んー、なんか、千影ちゃんと目が合ったら急にビリッて」
「痺れた……?」
「そう、そんな感じ。魔法でも使ったとか?」
「まさか」
即座に否定する千影だが、なぜか視線があちこちに飛んでいる。
不自然な沈黙の後に、千影がぼそっと呟いた。
「漏電でもしてるんだろう」
「漏電って、板張りの床でそれはないんじゃない」
「板だけに気のせい、ということにすればいい。……どうせ大したことないんだろう?」
「それはまあ、そうだけど……」
やはり何か変だ。朴念仁で無愛想な千影が駄洒落を口にするなんて。
「ねぇ、千影ちゃん。アタシに何か隠し事してない?」
「当然だ」
「それはどっちの意味?」
「している方だ」
千影は腕組みをして壁に寄り掛かる。深々と息を吐き出したところを見ると、単なる開き直りというわけでもなさそうだ。
「隠し事のない人間なんていないさ。今しがた見たばかりじゃないか、白雪くんの隠し事を。表裏は一体。裏のない表はないんだ」
「アタシが言いたいのはそういう意味じゃなくて――」
「今日のきみはやけに愚痴っぽいね。いらつく気持ちはわからなくもないが、かといって私をサンドバック代わりにしては困る。それとも、鈴凛くんもいいこいいこして欲しいのかい?」
腕を解いた千影は、軽く腕を広げて鈴凛に向き直った。ふざけているのかと思ったら至って真面目な顔だ。いつも甘えられる立場なので、少し心がぐらつく。
しかし、誘いに乗る鈴凛ではなかった。
「いいわよ、もう。どうせ亞里亞ちゃんにしかしないんでしょ?」
誰かに見られるのは嫌だし、何より、自分の甘えを見抜かれたのが嫌だった。白雪にあんなことを言われた後ではなおさらだ。
「さて、どうだろうね」
そう言って小首を傾げたところをみると、案外本気だったのかもしれない。
「きみには色々と頼み事をしているから、そのお礼にと思ったんだが」
「だったら、もう少し愚痴らせてよ」
「もう十分だろう? 私は亞里亞くん相手で疲れている。それ以上はチラシの裏にでも書いて捨てるんだね」
と、千影はにべもない。
「ケチ。お姉ちゃんなんだから、それぐらいいいでしょ」
「残念だが、きみの姉になった覚えはない。ただ、年上というだけだ」
千影はそれ以上の話を拒むように固く腕を組み、壁から身を剥がした。
「そんなに怖い顔しないでくれ。ほんの冗談だ」
夕日に千影の苦笑いが浮かぶ。
「正直、亞里亞くんひとりでも手に余るんだ。頼られ慣れしていない」
しかし鈴凛は、どうしても笑い飛ばす気になれなかった。
「わかってるけど……でも、そんな言い方ってないよ」
「そういう性格なんでね、私は」
鈴凛の隣をすり抜けて去ろうとする千影だったが、ふと足を止めて肩越しに鈴凛を見た。
「ところで……本当に大丈夫だろうね?」
人目を避けるように、千影の声がひそめられる。
「転送住所ならさっき合図したとおり。ロハでやってあげてるんだから、あんまり催促しないでよ?」
「そうじゃなくて、痺れた云々」
「ああ、それ? うん、何ともないけど」
鈴凛がひらひらと手を振ると、千影は満足そうに頷いた。
「そうか、それは何より」
「あんなこと言っといて、一応は気遣ってくれるんだ」
一瞬、千影の動きが止まった。視線を落とし、何かを探すようにうろつかせると、やがて曖昧な微笑みと共に口を開いた。
「きみに倒れられては困るからね」
あまり無理するな、と付け加えた千影は、音もなく静かに去って行った。
残された鈴凛の遠く背後から、包丁がまな板を叩く音がリズミカルに響く。
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