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 廊下の窓から覗き見る世界は、一面の夕日色に覆われていた。窓の形に切り取られた落陽が、白塗りの壁を規則正しく染め変えている。
 普段からせわしなく動き回る四葉だけあって、その出現場所は広い。家じゅう全てといっても過言ではない。空き部屋のいくつかを隠れ家として使っている上に、鈴凛のスペースも半ば当然のように我が物としている。四葉曰く「四葉のものは鈴凛ちゃんのもの、鈴凛ちゃんのものは四葉のもの」らしい。
 四葉の前にはプライバシーもへったくれもない鈴凛だが、ジャイアニズムを唱えられるよりはマシと思って諦めている。いざとなれば、先のように実力行使に出るまでのことだ。
 しかし、心当たりを全部探してみても四葉の姿はない。自分の部屋や“隠れ家”はもちろん、屋根裏から物置まで。玄関に靴が残っているので、外へ出たわけでもない。
「おっかしいなぁ、どこ行ったんだろ」
 今は怪盗クローバーに変身している時間なのかも。それなら、四葉が見つかるはずはない。
 一瞬、本気でそう思い掛けた鈴凛だが、慌てて頭を振ってその考えを追い出した。あれはただ着替えただけで、中身は全然変わっていない。ミカエルも含めて、皆が知っている秘密だ
 残るは一階、自分のラボだけだ。力ずくで追い出しただけに考えにくいが、そこは犬っぽい四葉のことだ。帰巣本能とやらで戻っているかもしれない。
 そんなバカなことを考えながら廊下の角を曲がると、果たしてラボの扉の前には人影が横たわっていた。
 思わず駆け出そうとする鈴凛だったが、その枕元からのそっと立ち上がるものに足を止めた。金色の体毛が夕日を受けて、いつもより一回りは大きく見える。
「――ミカエルじゃない。もしかして、相手してくれてたの?」
 ミカエルは鈴凛をじっと見返しながら、わふっ、と小さく吠えた。騒ぐな、という意味なのだろうか。現に、鈴凛の声を聞いても人影は起き上がろうとしない。
 鈴凛が足音の忍ばせながら近付くと、ミカエルのほうからもとてとてと歩いて来る。
「ありがとね、ミカエル」
 鈴凛の足を一回りして鼻を鳴らすと、ミカエルは尻尾を振りながら悠然と歩み去る。その後姿からは、どういたしまして、と聞こえるようだ。
 視線を足元に向けると、横たわっているのは確かに四葉だった。膝を折り曲げ、胸に例のペットボトルを抱えた格好で眠りこけている。涙の跡が残っているところを見ると、泣いてわめいているうちに疲れてしまったものらしい。
「ったく、ホントに子供なんだから」
 それでも、部屋へ入らずに待っていたあたりはちゃんと褒めてあげなくては。いかに一心同体少女隊でも、個人のプライバシーは守られてしかるべきなのだから。
 とはいえ、すぐ起こすのには躊躇いがある。どうせ四葉のことだ、目覚めたと同時に自らゴングを叩きまくって、泥沼の延長戦へ引きずり込むぐらいはしそうだ。肝心なことはすぐ忘れるくせに、どうでもいいことで執念深い。そんな図々しい性格に何度泣きを見てきたことか。
 姉の無邪気な寝顔を見ているうち、鈴凛は次第に腹が立ってきた。
 人が尻ぬぐいしてやっているのにこの寝顔。白雪になじられたのも、千影に絡まれたのも、元はといえば四葉のせいなのだ。それも、ミルクティーの淹れ方が原因で。頑固なのは白雪も同罪だが、さっきのはそれ以上に四葉が悪い。まったく、何をあんなにこだわっていたのやら。確か、ママに教わったやり方だとか――
「ママ、か……」
 ぽつりと呟いた鈴凛は、黙然と四葉を見下ろした。
 腕を引っ張られて、お風呂がいっしょ。
 勝手に潜り込んで、ベッドもいっしょ。
 どこまでもついて来て、時々トイレまでいっしょ。
 べたべたくっついて離れない。ずっといっしょにいたがる、知りたがる、教えたがるくせに、ママの話だけは聞いたことがない。スコットランドヤードの敏腕刑事だった(らしい)グランパの武勇伝は聞かせてくれても、ママとの思い出は聞かせてくれない。
 だから、四葉にママはいないと思っていた。自分と同じ、祖父に可愛がられたもの同士だと思ってきた。
 それなのに、四葉は「ママから教わった」と叫んだ。
 本当のママじゃないのかもしれない。自分と同じ、義理のママかもしれない。白雪のように、敬愛する師への尊称かもしれない。
 だが、四葉の態度を見る限りはどれも違うような気がする。自分がもし義母を貶されたとしても、ああまで激昂はしない。ここまで泣いたりはしない。となると、四葉にはやはり本当のママがいるのかもしれない。
 しかし、それを今までずっと隠してきたのはどうしてだろう。
 ――裏のない表はないんだ。
 凝視し続ける鈴凛の脳裏に、千影の言葉が蘇る。
 確かにその通りだ。今は認めざるを得ない。
 この子はずっと、表しか見せてこなかった。この顔の下に何が隠れているのだろう。アタシにも見せない、本当の顔。
 鈴凛の胸いっぱいにやるせなさが広がる。なぜか涙が出そうになり、手の甲で荒々しくぬぐった。
「痛っ……!」
 内側から燃え上がるような痛みに、鈴凛は思わずその場へしゃがみ込む。
 絆創膏が剥がしてあったせいで、火傷の跡を思い切り擦ってしまった。鎮まっていた疼きがぶり返す。
「何で、こんなこと」
 悔しさや情けなさがない交ぜになり、鈴凛の心をかき乱す。また涙が出そうになって、今度は指先で慎重に拭き取った。
「もう……何やってんだろ、アタシ」
 よれよれの涙声が惨めな気分をさらに増す。ひどく感傷的になっている自分がいる。こんな些細なことで泣くなんて、本当にどうにかしている。
 相変わらず四葉はぐっすりと眠ったままだ。よほどに深いのか、身じろぎひとつしない。
 だが、寝顔をじっと眺めているうちに不安が頭をもたげ始める。あまりに静か過ぎる。寝息ぐらいは立てて当たり前なのに、何も聞こえてこない。まるで、あのときのように。
 鈴凛は四葉の息を確かめようと手を伸ばした。
 なぜか指先が震えている。怖い。転んでもただでは起きない四葉のことだ。もちろん、そんなはずはない。
 だが、別れは唐突にやって来る。それが何よりも怖い。白雪に揶揄されるまでもなく、四葉は大切な存在だ。他の誰にも代えられない。例え、アニキであっても。
 鈴凛の指が四葉の頬に触れた瞬間。
「――わぁっ!」
 上体をバネのように跳ね上げながら四葉が飛び起きた。不意打ちに飛び退った鈴凛は、鈍い音を立てて壁に頭をぶつける。
 頭を抱えてうずくまる鈴凛を尻目に、得意げな表情で胸を反らす四葉。
「クフフゥ。どうですか鈴凛ちゃん、このカンペキな死にマネは? 息でバレないようにガマンするのは、なかなか大変なのデス。このナチュラルさを出せるようになるまでには四葉、すっごくがんばりマシタ。名探偵たるもの、これぐらいのヒッサツワザは必要デスからね」
 鈴凛はもはや突っ込む気にもなれなかった。必ず殺す技と書いて必殺技。死に真似が必殺技。
 笑えばいいのか怒ればいいのか、それすらもわからない。数瞬前までの自分が急に恥ずかしく思えてくる。こんなバカのために、どうしてあんなにもメソメソしてたんだか。
「ややっ? どうしたデスか、鈴凛ちゃん。さては四葉のハヤワザの前に、驚いて声も出ないデスね?」
「――呆れて声も出ない、の間違い」
 鈴凛は、壁から身を剥がしながら頭を振った。その途端、ずきんと痛みが走り、顔が歪む。
「ど、どうしたデスか、鈴凛ちゃん」
 苦しげな鈴凛に気付き、今度は不安そうな声。膝でにじり寄り、下から顔を覗き込む様はどこか子犬を思わせる。
「痛い。打った」
 突き放すようにわざと言い捨てると、たちまち四葉の顔に不満の色が浮かぶ。
「でも、痛いのは四葉のほうもデスよ? ほら、さっきのピッチングでこんなになってマス」
 と、四葉は前髪を掻き上げて額を露わにした。確かに赤くなっている場所がある。
 ちょこんと鈴凛が突付くなり、四葉がうなり声を漏らした。
「いっ、ててて……。だから、痛いって言ってるデス!」
「また大げさなこと言って。どうせ大したことないんでしょ」
「大したことありマスよ!」
 涙目の四葉が顔をぐいっと突き出して吠えた。
「鈴凛ちゃんは四葉のことが大事じゃないデスか? こんなイジワルするなんて、鈴凛ちゃんはぜんぜんやさしくないデス!」
 まったく、どの口がそれを言うのやら。
「はいはい、どうせアタシはやさしくなんかないですよーだ」
 鈴凛は顔に飛ばされた唾を拭いながら、ため息混じりにひとりごちた。
「そっ、そんなことないデスよ!」
 その途端、不安そうに顔を歪めた四葉が声を張り上げた。
 四葉は廊下にぺたんと女の子座りし、いつになく真剣な表情で擁護し始める。
「鈴凛ちゃんは、四葉にいつもやさしくしてくれマス。でも、さっきはいつもと違っていたから、だから四葉は怒ってるのデス」
 責めたと思ったら、手のひらを返したように持ち上げる。鈴凛にはそれがたまらなくおかしかった。とにかく今は自分の味方が欲しいのだろう。言い分を聞いてくれて、なおかつ決して逆らわない味方が。
 もっとも、それは今に限った話ではない。自己主張の強過ぎる四葉は、放っておくといつも孤立してしまう。先のお茶会はその最たる例だ。
 可能な限り四葉の味方をして来た鈴凛だが、その理由を自分に問うと答えに困ってしまう。そういえば、どうしていつもかばっているのだろう。
 黙ったままの鈴凛に焦れたのか、四葉がもぞもぞと身じろぎし始めた。口をへの字に曲げ、今にも泣き出しそうな顔でじっと鈴凛を見つめている。目がぱっちりと大きいので、余計に視線が強く感じられる。
 そう、何かに雰囲気が似ていると思ったら捨て犬の目だ。一度目を合わせたが最後、簡単に立ち去らせてくれない魔性の瞳。構ってくれなければ代わりに罪悪感をもたらす、実に厄介な代物。
 そんな顔をされたら、これ以上突き放すわけにもいかない。
 ――ったく、アタシも甘いなぁ。
「じゃあ、どうすれば許してくれるの?」
 果たして、四葉の顔がパッと輝いた。上目でちらちらと見て、何か言い出しにくそうにしている。
「えっとデスね……痛いの痛いの飛んでけーっていうのを、おデコにしてほしいデス」
「はぁ?」
 あまりの唐突さに思わず声が出た。
「痛いの痛いの飛んでけって、あの痛いの痛いの飛んでけ?」
「そうデス。その痛いの痛いの飛んでけデス。……もしかして、知らなかったりしマスか?」
「そんなわけないじゃない。でも、何でそんなこと」
「やっぱり、ダメ……デスか?」
 たちまち四葉の顔が曇る。
「そうじゃなくて、理由を訊いてるの」
 腕を組んだ鈴凛が上体を伸ばすと、対照的に四葉が背中を丸めた。何としても口を割らないつもりらしい。
「まあ、言いたくないんなら別にいいけどさ。誰かと違って、別にいじわるしようってわけじゃないし」
 鈴凛は四葉の前髪を掻き分けて、赤く腫れた額を露わにした。
「いい? やるよ?」
 指先を添えていざ始めようかというそのとき、四葉がハッと顔を上げて手を振り払った。
「あ、そうじゃなくって……鈴凛ちゃんのママみたいに、してクダサイ」
「――アタシのママみたいに?」
 そうは言われても、鈴凛には心当たりがない。
「ママが一体何やったっていうの? アタシ、そんなの知らないよ……」
 首を傾げる鈴凛に、四葉が膝を詰める。
「忘れちゃったデスか? 四葉と鈴凛ちゃんが初めてあったときのことデス。迷子になった四葉たちをグランパたちが見つけてくれて、うれしくなって走ったら、花穂ちゃんみたいに転んだの。痛くてわんわん泣いてたら、鈴凛ちゃんのママがすりむいた所にキスのおまじないしてくれて、それで痛くなくなったの。……鈴凛ちゃん、ホントに忘れちゃったデスか?」
「いや、ほら、アタシ、転ばなかったからさ……」
 それに、あの頃から手は傷だらけだった。いつもはジジが手当てをしてくれたし、自力で手当てする方法もすぐに覚えた。ママにしてもらったこともあるにはあるが、さすがにキスはない。ママのことだから、イギリス生まれの四葉に合わせたのかもしれない。
 しかし、ひとつ解せないことがある。
「でも、どうしてアタシのママなのよ。アンタにもママはいるんでしょ?」
 そう切り出した途端、四葉の顔色がさあっと変わる。どうやら核心に触れたようだ。
 鈴凛はチャンスとばかりにさらに攻め込む。
「アンタ確か、さっきも言ってたよね。ミルクティーの淹れ方、ママに教わったって」
 自然と語気の強まる鈴凛に、四葉はびくっと肩をわななかせて怯えの色を露わにした。
 鈴凛は問い詰め調になっている自分に気付き、深呼吸して間を置く。
 この怖がりようは何だろうか。何が四葉をそんなに追い詰めているのだろう。
 俯いた四葉はこちらを見ようともしない。
「――じゃあ、ちゃんとママのやり方でしたら教えてくれる?」
 そう鈴凛が呟くと、鼻声の四葉が「ふぇ?」と顔を上げた。
「訳ありなのはわかるけど、でも、少しずるくない? アタシやアニキのことはいっつも調べて回ってるのに」
「で、でも……」
 鈴凛は、口篭る四葉の手を取って上から押さえ込んだ。戸惑う四葉に顔を寄せて、耳元へこう囁く。
「別に、嫌だったら言わなくてもいいよ。アタシは四葉ちゃんの味方だから」
 ――本当は知りたくて仕方ないくせに。
 罪悪感を抑え、小刻みに震える髪を掻き分け、鈴凛は四葉の額にそっと唇をつけた。
 柔肌越しに触れる四葉は熱かった。赤く腫れた場所に熱が篭っている。
 投げるときに力を入れ過ぎたのかもしれない。唇を離さないまま、鈴凛は少しだけ反省した。
 不意に、四葉がしゃくりあげるような動きを見せる。栗色のおさげ髪がふわりと揺れた。
 しかし、一度では終わらない。二度、三度と繰り返しリズミカルに、少しずつ間隔を早めて、そして急かすようにひゅうひゅうと四葉の喉が鳴る。
 異変に気付き、がばっと身を離す鈴凛。
「ちょっと、何で泣いてるの……?」
 固く閉じられた四葉の瞼から、大粒の涙がとめどなくあふれ出ている。それを我慢しようとするほどにしゃくりあげ、その拍子に水滴がこぼれて、頬をなめらかに滑り降りた。
「ご、ごめん。痛かったの?」
「ち、がぅ……」
 四葉は涙を拭こうともせず、押し潰されてしわがれた声を絞り出した。唇が小刻みに震えている。
 そこに、やかましく泣き喚くいつもの四葉はなかった。心の底から悲しんでいる。いや、あるいは悲しみではないのかもしれない。何か、心の奥底から湧き上がるものを必死でこらえているのに、それでもなお抑え切れずにあふれ出ている、そんな涙。
「ねぇ、大丈夫?」
 それを合図としたように、四葉が鈴凛の胸にすがりついた。
 鈴凛が促すように背中をさすると、四葉の泣き声がわあっと一際大きくなる。
「泣きたいのはこっちよ……」
 小さく悪態をつく鈴凛だが、しかし、その手は止まることなく、泣きじゃくる姉をあやし続けた。


 *


 折れ曲がった廊下の先から複数の足音がバタバタと響く。誰かが帰ってきたらしい。
 鈴凛は、抱きついたままの四葉の手を取り、そっと引き剥がした。抵抗はなかった。
「どう、気は済んだ?」
 泣き腫らした目をこすりこすり、四葉がこくんと首を振る。その間にも、時折ひくっとしゃくりあげている。
「そっか」と素っ気無く返した鈴凛は、涙でベトベトに汚れたチャイナシャツを脱ぎ捨て、タンクトップ一枚になった。西日で満たされているとはいえ、影に入るとやはり肌寒い。
 名残惜しげにシャツを眺めた鈴凛は、そのポケットが異様に膨らんでいることに気がついた。
 鈴凛はそのポケットから紙ナプキンの包みを引っ張り出し、四葉の手に握らせた。四葉がぼんやりと鈴凛を見返す。
「これ、スコーンね。白雪ちゃんがアンタの分にって」
「白雪ちゃんが……?」
 自分の手元に目を落とした四葉は、包みをぎゅっと握り締めるだけで動こうとしない。また癇癪を起こして投げつけるのではないかと、鈴凛は一瞬不安に駆られる。
「白雪ちゃん、怒ってマシタか?」
「え?」
 四葉の声はむしろ、不安に怯えているようでもあった。
「白雪ちゃんは四葉のこと、怒ってマシタ?」
「んー、怒ってたっていうか、アタシが叱られた」
「どうして、デスか?」
 四葉が顔を上げた。
「どうして鈴凛ちゃんが謝るんですの、ってね」
「鈴凛ちゃん、白雪ちゃんに謝ったデスか?」
「どうせいつものことじゃない」
 四葉の頭をポンポン叩くと、うなだれるようにまた頭が下がった。二つ括りのおさげ髪が、叱られたミカエルの尻尾のようにしょげ返っている。
「――でも、鈴凛ちゃんはそれで平気デスか?」
 突然、四葉の尻尾が跳ね上がった。鈴凛を見上げる顔は辛そうに歪んでいる。
「鈴凛ちゃんはいつもいつもそうやって、四葉のフォローしてくれマス。ホントは、四葉は鈴凛ちゃんより年上なのに、まるで逆みたいデス。でも、だけど……鈴凛ちゃんは、それでいいの?」
「別に、いいってことはないけど……」
 変貌に困惑を隠し切れない鈴凛は、しどろもどろで返事をする。
「何て言うか……悪いことしたってわかってるんだったら、別にそれぐらいはいいかなって……。あー、だからって、今日みたいのをしょっちゅうやられたら困るけど」
「ゴメンナサイ、デス」
 四葉ががっくりと肩を落とした。この調子であの子にも謝ってくれればいいのに、と思わないでもない。
「ま、アタシの火傷も大したことないし、何か壊れたわけでもないし。次からは気をつけてよ?」
 こくんと頷いた四葉は、しばらく所在なげにスコーンの包みを弄っていたが、やがて意を決したように再び顔を上げた。
「鈴凛ちゃんは……鈴凛ちゃんは、どうして四葉にこんなにやさしくしてくれるデスか?」
「やっ、やさしい? アタシが?」
 思い掛けない言葉に、たちまち顔が赤くなった。おまけに全身がかゆい。何しろ、誉められるのは発明品ばかりで、自分自身は貶されることが圧倒的に多いのだ。
「だって、四葉が悪いことしても、いつも助けてくれマス。いつも最後に許してくれマス。だから――」
「ちょっと、もしかして風邪でも引いたんじゃないの?」
 遮るようにわめき立て、鈴凛は四葉の額に手を当てる。四葉が痛みに顔を顰めた。
「ほら、こんなに熱いじゃない。やっぱり風邪引いてるって」
「鈴凛ちゃん、それはペットボトルがぶつかったあとデスよ」
「あ、そうだっけ……って、そもそもはアタシが投げたんじゃないの」
「でも、その原因を作ったのは四葉デス!」
 四葉の手が鈴凛の手首を捕らえたかと思うと、そのまま勢いよく引き下げられた。火傷の痕が疼き、鈴凛は眉間に皺を寄せる。
 二人は、しばらくそのままの姿勢で見つめ合い、固まった。
 やがて、四葉のほうからするりと手が離れ、膝の間へ静かに落ちた。差し込む夕日はいよいよ角度を失い、床板は闇色に染まっている。
 俯いた四葉は、ほうっとひとつ息を吐き出してから口を開いた。
「鈴凛ちゃんは昔からずっとそうデス。いつも、いつでも四葉のお姉ちゃんみたいで……。あのときだって、鈴凛ちゃんがいなかったら四葉は迷子になってマシタ」
 鈴凛は無言で相槌を打った。
「だから、いつかはきっと鈴凛ちゃんを助けられるようにって、小さいときの四葉は思ってたの。あのときはまだ、鈴凛ちゃんとただの友達だってけど、でも、いつか必ずって」
「それなら、今すぐでもできるじゃない。悪いことは悪いってわかってるんだったら、あとは大丈夫。そんなに難しくない」
 しかし四葉は、妹の励ましに対して力なくかぶりを振った。
「でも、四葉はまだ変われないデス。こんなに大きくなってしまったから、きっと四葉のことがわからないの。だから、昔の、小さいときの四葉のままでいないとダメなの。だって、四葉が変わってしまったら、ママが四葉のこと見つけられなくなってしまうの」
「ママ……?」
 その途端、鈴凛の片眉がぴくりと跳ねた。
 まただ。またママが出てきた。
「それ、どういう意味……?」
 他に誰もいないというのに、その問いはごく小さかった。
 遠くから甲高い声がこだまする。廊下の先はいつもの夕暮れどきだ。
「アタシ、四葉ちゃんのママのこと……何も知らないよ……」
 鈴凛に頷き返す四葉。正面から鈴凛を見据えて離さない。
 しかし、一瞬その顔に迷いの色がよぎったのを、鈴凛は見逃さなかった。まだ躊躇っている。
 鈴凛が膝を詰めて身体を寄せると、四葉は引き攣るようにくうっと喉を鳴らし、ゆっくりと口を開いた。
「四葉のママ、行方不明なの。病院から突然いなくなってしまって……まだ、見つかってないデス」
 告白の内容に、鈴凛は一瞬目を剥いた。病院から行方不明などとは、まったく只事ではない。
 しかし、表面的には冷静さを装って続きを促す。
「病気だったの? 四葉ちゃんのママって」
 四葉は「ハイ」と小さく返事した。
「そっか……それで黙ってたのね」
「ママは四葉が生まれたときからずっと病気で、ほとんど家にいなかったの。少しよくなって帰ってきたと思ったら、またすぐに入院して……。だから、いつもグランパと二人だけデシタ」
 そこで言葉を区切り、四葉は目元をこすった。
「四葉が探偵になろうって思ったのも、自分でママを探すためなの。ホントはグランパみたいな刑事になりたかったケド、探偵なら大人も子供も関係ないから、ってグランパが言ったの」
「じゃあ、アニキをチェキしてまわってるのは――」
「兄チャマのことと、兄チャマのまわりの人のこと。フィフティ・フィフティ、デス。兄チャマはすごくやさしいけど同じぐらいミステリアスだから、もしかしたら、兄チャマの近くにいる人がママの居場所を知ってるかもしれないデス。……あ、今のは兄チャマにないしょデスよ?」
「わかってるって」
 一応、納得はできる。動機としてはもっともだし、辻褄は合っている。
 だが、何かがおかしい。行方不明なら警察なり何なりに任せてもいいはずだ。母を訪ねて三千里の時代に比べれば、捜査技術は格段の進歩を見せている。おまけに、引退したといえ刑事が身内にいるのだから、コネを使うことだってできる。
「――ねぇ、訊いていい?」
 囁き掛ける鈴凛に、四葉が顔を上げた。
「探すっていっても、何かアテはあるの? そう……重要な手掛かりとか」
「それは、兄チャマのまわりをチェキするのが一番の方法デス」
「でも、アタシだったら病院をしらみ潰しに尋ねて歩くけどな」
 そう、行方がわからなくなったのは病院だ。
「だって、ママは入院してたんでしょ? それぐらい重い病気だったら、その後も入院とか通院してるかもしれないじゃない」
 その指摘にハッと息を飲む四葉。
「それは、その通りデスね。さすがは鈴凛ちゃんデス」
 声を落とし、重々しく頷く。ひどく落ち着いている。
「もしかして、それぐらいはもう気づいてたとか」
 即座に首を縦へ振ったところを見ると、どうやら既出も既出だったらしい。
「それは、グランパが最初にやった方法なの。昔の部下さんたちをたくさん呼んで、あちこち探し回ったみたいデス」
「でも、見つからなかった……?」
「だってホントは、ぜんぜん入院するような病気じゃなかったから」
「何それ。仮病?」
 わざとらしく茶化して言うと、つられるように四葉も薄く笑った。
「そうデスね……。ホントにそうだったら、四葉はすごくうれしいのに……」
 唇の端だけを歪めた、あまりにらしくない笑顔。
 鈴凛は口をつぐみ、次の言葉を待った。
「四葉のママは、四葉のことがわからない病気なの」
 あまりにさり気なく言うので、最初は何のことかわからなかった。
「わからない……?」
 だが、何度も反芻するうちにある結論に突き当たる。
 その瞬間、全身に鳥肌が立った。
「わからない……わからないって、まさか……」
 言葉の端が震えている。自分で思う以上に動揺している。
「四葉はここにいるよってどれだけ呼んでも、ママはぜんぜん四葉を見てくれなかったの。お隣にいても、目の前にいても……ううん、四葉のことハグしてくれても、四葉のこと、ぜんぜん見てくれませんデシタ」
 対照的に、四葉の声はひどく落ち着き払っていた。淡々と、ひとりごとのように先を続ける。
「でもね……ときどき、ホントにときどきだけど、四葉ってわかってくれるときがあったの。そのときはちゃんと四葉のママになってくれて、いつもミルクティーを淹れてくれて……」
 四葉の視線は鈴凛の肩を越えて、ずっと遠くを見つめている。その瞳に映っているのは、楽しかったあのときの思い出だろうか。もう戻れはしない、幼い頃の記憶。
 脳裏にジジの顔が浮かび、急に目頭が熱くなった。鈴凛は全身をこわばらせて、流れ出ようとする感情を抑え込んだ。火傷の痕がずきんと痛む。
「だから、あんなにこだわってたのね。ミルクティー」
 白雪には何度となく淹れてもらっているはずなのだが、今それを指摘するのは野暮というものだろう。
 こんなときにも冷静に分析する自分の性癖が少し嫌になる。
「でも、ごめん。ちょっと待って」
 鈴凛が手を上げ、四葉を押し止めた。そういえば、四葉は帰国子女だったっけ。
「そのママとの思い出話って、向こうにいたときの話だよね」
 問いの意味がわからないのか、四葉はおずおずと首を縦に振った。
「だったら、どうしてここにいるのよ。イギリスのママが日本で見つかるはずないでしょ?」
「あ……そうデシタ。大切なことを忘れてマシタ」
 言葉の内容とは裏腹に、四葉の口調はどこかぼんやりとしている。事の重大性を理解しているのか実に疑わしい。違う一面が垣間見れたと思ったら、所詮、四葉は四葉ということか。
 たちまち、鈴凛の眉間に縦皺が生まれる。口をついて出たのはいつもの罵声だった。
「ちょっと、そんな基礎レベルで間違えててどうするのよ? ホントに自力で見つけようって思ってたの?」
「あー、そんなに言わないでクダサイよ。すっかり忘れてたの。今から説明しマスから」
「説明なんか後でいいから。ほら、早く荷造りしないと」
「鈴凛ちゃん、今からお出かけデスか?」
「何言ってるの。アンタの荷物でしょ? ほら、ママを探しに戻らないと。アニキはアタシがチェキっとくから」
「違うの、そうじゃないデス。だって、四葉のママは日本にいるから」
「――はぁ?」
 思わぬ一言に、鈴凛の口から腑抜けた声が漏れ出た。
「こっちにいるって、そんなバカなことあるはずないでしょ。っていうか、それを最初に言いなさいって」
「でも、ホントなのデス。イリーガルな方法でだけど、ママが日本に入ったことをグランパがチェキしたの。それで、二人で探しに来マシタ」
「それって、いつの話……って、まさか?」
 水を向けると四葉が頷き返し、即座に立ち上げた仮説へ裏付けを与える。
「鈴凛ちゃんと四葉が初めて会った、あのときデス」
「なるほど。だからジジが……」
 そういえば、ジジと四葉のグランパは自分たちを遠ざけてしきりに話し込んでいた。今思うと、あれは四葉のママを探す手立てを相談していたのかもしれない。
 鈴凛は腕組みをして壁に寄り掛かる。
「それで、今もまだこっちに?」
「出た記録はないって、グランパが――」
「他に手がかりは? どの辺に住んでるとか、そういうレベルのは全然ダメ?」
 鈴凛は好奇心の赴くまま、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
 しかし、不意に沈黙が続いた。
 返って来ない返事に顔を上げると、じっと凝視し続ける四葉と目が合った。
「――どうしたの?」
「鈴凛ちゃんこそ、どうしたデスか?」
 そう問い返す四葉の口調はどこかよそよそしい。不審と不満の入り混じった顔を軽く俯かせているせいで、ひどく恨めしそうに見える。
「そっちこそ、何でそんなこと聞くのよ」
「だから、四葉のママのことネホリハホリして、鈴凛ちゃんはどうするつもりデスか?」
 その答えで、ようやく四葉の不安に思い当たった。思わず顔がにやけてしまう。
「別に取ったりなんかしないから。ママのこと」
「そっ、そんなことない、デスぅ……」
 たちまちに赤く染まる顔で図星とわかった。
「わからないわけないでしょ。ママみたいにしてーって、わがまま言ったのは誰だっけ?」
「あれは、だから、その――」
「取ったりなんかしない。アタシにはアタシのママがちゃんといるんだから」
 念を押すように告げると、四葉は不承不承といった態でこくんと首を振った。
「でも、どうして今まで何も言わなかったの?」
「だって、四葉のママは四葉だけのママだもん。四葉のものは鈴凛ちゃんのもので、鈴凛ちゃんのものは四葉のものだけど、ママだけは四葉のものなの。だから……四葉ひとりだけで探さなきゃいけないの。鈴凛ちゃんに、取られたくないから」
 膨れっ面で拗ねる四葉は、年齢よりもはるかに幼く見える。変わっていないのか、変わろうとしていないのか。案外、後者の面が強いのかもしれない。
 自力でママを見つけ出すつもりらしいが、本心ではママに見つけてもらいたいと願っているはずだ。そうでもなければ、目立ちたがり屋の(自称)探偵という存在が説明できない。無意識か、あるいは意識してか。ターゲットを探すついでにターゲットに見つけてもらうなど、あまりに矛盾している。
 ともあれ、このままの四葉にママを探し出せるとは到底思えない。四葉が変わるか、さもなくば――
「でも、ひとりで大丈夫なの?」
 四葉は、返事をする代わりに鈴凛の顔を見つめ返した。何かを訴えかけるように上目を使って。
「手伝って……あげようか?」
 様子見に放った一言で、鈴凛を見上げる顔が小刻みに揺れた。
 ――なるほどなるほど、自分から助けを求めるのはイヤってことか。
「で、どうなの?」
「何が、デスか?」
「だから、お手伝い」
「鈴凛ちゃんはどうしたいデスか?」
「アンタ次第。手伝ってってお願いしてくれれば、手伝ってあげてもいいかなーって」
「それでキグウデスね。四葉も、鈴凛ちゃんがどうしても言うなら、特別に探させてあげてもいいって思ってマス」
 鈴凛の口から自動的にため息が漏れ出る。しかし、ここで意地を張り合っても意味がない。何より四葉自身の話だ。素直に顔を立てるのも悪くない。
「――わかった。仕方がないから一緒に探してあげる」
 横目にちらっと様子を窺うと、表情こそは落ち着いているが、小鼻がぴくぴくと動いている。喜色をあからさまにしないだけの自尊心は備えているらしい。
「わかりマシタ。鈴凛ちゃんがそう言うなら特別に……いいデスか、特別にデスよ? いっしょに探させてあげマス」
「ま、いいわ。そういうことにしといてあげる」
 こみあげる笑みを抑えようと、四葉は手で口元を覆っている。もしも四葉が犬だったら、尻尾を千切れんばかりにブン回しているところだろう。現に、小刻みに揺れる身体で床板がみしみし鳴っている。
 と、急に四葉が動きを止める。下ろされた手の下から現れたのは、固く引き結ばれた唇だった。
「でも、どうしてデスか」
「何が?」
 一転して、四葉の声は低く響く。
「四葉のママは四葉のママで、鈴凛ちゃんのママじゃないデス。いっしょに探してくれるのは嬉しいけど――」
「バカねぇ」
 鈴凛は四葉の額をこつんとつついた。
「姉妹なんだから、アンタのママはアタシのママでもあるの。……ま、友達だったときのほうが長いから、そこんとこはいつもうやむやになっちゃうんだけどね」
 姉妹と知らされたのはほんの数年前――ジジが生きていた頃の話だ。以前から何かと年上風を吹かせていたので、割にすんなりとその事実を受け入れることができた。
 それに、咲耶たちとは既に姉妹だった。今さら増えたところで何が変わるわけでもない。ラベルに書かれた『友達』の二文字を消して、新たに『姉妹』と書き直しただけのこと。どうして今になって、という疑問には蓋をした。なぜなら、鈴凛の周囲は平穏そのものだったから。
 だが、自分の生い立ちを疑問に思わないわけがない。
 メカ鈴凛を形作る部品たちは、その製造元を追い掛けることができる。生まれは確かだ。生み出したのはジジと自分だ。
 それなのに、自分自身の正体がわからない。どこで生まれたのかも、誰の意思が生み出させたのかもわからない。いわば、ジャンクパーツのようなものだ。
 そんな得体の知れない自分に裏書きをし、保証してくれたのは他ならぬジジだった。
 ここにいてもいいと、そう言ってくれた人を裏切るわけにはいかない。それが、己の出自を探ろうとしない最大の理由だった。
 しかし、本当にそれでよかったのだろうか。
 鈴凛は捨て犬や野良猫ではない。自力でジジの元に転がり込んできたのではない。誰かに連れて来られたかのか、あるいはジジが連れて来たのか。
 だから、ジジは知っていたはずだ。全てではないにしても、鈴凛がどこからやって来たのかを承知した上で引き取ったに違いない。あのジジのことだ。何の理由もなく、ただの気まぐれで養おうとは考えない。何か、よほどの事情があったはず。
 そうでもなければ、四葉のグランパが訪ねて来た理由が見当たらない。古くからの友人という関係を差し引いても、ジジは一介の発明好きな老人に過ぎない――少なくとも、鈴凛の視点からは。
 どちらにしても、人捜しで頼るにしてはあまり懸命な判断とは言い難い。となれば、考えうる理由は二つ。単に気が動転していただけか、さもなくばジジと何らかの繋がりがあったのか。その後に明かされた事実を見るに、恐らくは後者だったのだろう。それぞれ憧れていた『アニキ』と『兄チャマ』が同一人物だったことも含めて。
 ジジは何を知っていたのだろうか。何をしていたのだろうか。
 鈴凛は祖父という一面しか知らないし、知る必要もないと思っていた。
 外から見たジジは、どんな顔をしていたのだろうか。
 口をつぐむ鈴凛をよそに、四葉がうむうむと大きく首を振る。
「やややっ、そういえばそうデシタね。四葉と鈴凛ちゃんって普通におともだちって感じデスから。……ん? というより、四葉がもっとお姉ちゃんっぽくなればいいってことデスね?」
 湿っぽくなった心にいつもの明るい声が吹き込む。ともすれば考え過ぎて迷走する心に、能天気な四葉の存在は大きい。煩いと思うこともあるが、かけがえの無い親友だ。
 しかし、感謝の気持ちは言葉に出さない。言ったが最後、どこまでも調子に乗ってくる。それが四葉だ。
「そう思ったんなら、白雪ちゃんにもちゃんと謝っときなさい。あの子もアタシたちの妹なのよ」
 唇を尖らせて不満の意を表す四葉だったが、無言で睨む鈴凛に渋々「はーい」と返事をした。
 伸びをしながら立ち上がると、東の空は夜の青に染まっていた。濃紺の闇の中で、ダイニングから漏れ出る光だけが明るい。
「ま、今日の晩ご飯は白雪ちゃんの番だからねー。ひとりだけ抜きだったりして」
「えー、そんなぁ」
「自業自得でしょ。ほら、立った立った」
 しょんぼりと肩を落としていた四葉だが、鈴凛が差し伸べた手には素早く反応した。がっしり掴んだかと思うと、吊りロープの要領で鈴凛の腕をよじ登る。これしきのことでぐらつく鈴凛ではないが、こうも力いっぱい掴まれてはさすがに痛い。
「ちょっと、アタシを何だと思ってるのよ」
「何って、鈴凛ちゃんは鈴凛ちゃんデスよ」
「ったく、調子いいんだから。……ほら、行くわよ」
 絡んだままの手を振り解いてチャイナシャツを拾い上げた鈴凛は、すっかり暗くなった廊下をのしのしと進んだ。
 ところが、後が続かない。振り返ると、四葉は立ちすくんだままだった。
 鈴凛が声を掛けるよりも早く、四葉はぺこんと頭を下げた。
「ありがとう、デス」
「な、なによいきなり」
 廊下は薄暗く、少し離れただけなのに四葉の顔は闇に紛れて見えない。ぐすっ、と鼻をすする音が聞こえたので、鈴凛は黙って次の言葉を待った。
「鈴凛ちゃんが、いてくれて……四葉、すごくうれしい。それなのに四葉、いつも、鈴凛ちゃんの邪魔ばっかりしてて……」
 わかってるならどうして、という言葉を飲み込み、鈴凛はゆるゆるとかぶりを振った。
「いいじゃない、そんなこと。姉妹なんだから、気にしなくていいの。友達はギブアンドテイクの関係だけど、姉妹はそうじゃないでしょ」
 鈴凛は返事の代わりにぐずぐず鼻を鳴らす四葉に歩み寄り、取り出したハンカチを握らせた。が、その直後、自らの失態を悟った。
 四葉はハンカチを手に取るや否や、ティッシュペーパーの代わりにずびずびと鼻をかんだ。
「――ええと、また助けてもらいマシタ。メンボクないデス」
 鼻水まみれのハンカチを返され、鈴凛は思わず顔を顰める。ハンカチで鼻をかむのが向こうのスタイルと知っていても、あまりいい気分はしない。おまけにそのままポケットにねじ込んで繰り返し使うのだから、思わず衛生観念を疑ってしまう。
「あっ! 四葉、すぐにできるお手伝いを発見しマシタ!」
 出し抜けに四葉が叫ぶ。
「こ、今度は何よ……」
 嫌な予感しかしない。いかに腐れ縁でも四葉の先を読むのは難しい。自然と顔が引き攣るのがわかった。
 鈴凛の気も知らず、四葉は得意げな笑みを近づけてこう言った。
「鈴凛ちゃん、亞里亞ちゃんの秘密の住所をまだ調べてマスね?」
「なっ、どうしてそのこと――」
「クフフゥ、この四葉ちゃんの前には隠しても無駄無駄無駄ッ、なのデス。というワケで、四葉のママを捜してもらうお礼に、四葉が手伝ってあげマスね」
「あああああ、もう」
 比喩でもなく、鈴凛は本当に頭を抱え込んだ。隠せば穴を掘ってでも探し当てる性格を考え、できるだけ自然を装って隠し事をした――つまり、その辺へ適当に置いておいたのだが、それが裏目に出てしまったらしい。やはり、日々ポストイットを増やして行く地図帳を放置したのがまずかったのか。
「――いらない。手伝わなくてもいいってば」
「んもう、鈴凛ちゃんのイケズぅ。エンリョなんかしなくてもいいデスよ。それに、今回はとっておきの方法がありマス」
「一応聞いてあげるけど、どうせロクな方法じゃないんでしょ」
「そんなことないデスよ。……荷物の中に入って、いっしょに連れて行かれるだけ。シンプルにしてグレート。これならバッチリ追跡できマスよ!」
 ――やっぱりこいつバカだ。
 シリアスなエピソードの数々がこの一撃で全て台無しだ。余韻も何もない。鈴凛は違う意味で涙が出そうになった。
「あれあれ? もしかして、四葉のすばらしいプランに感動しちゃって声も出ないデスか?」
「……呆れて声も出ないの間違い」
「どうしてそんなこと言うデスか? カンペキにしてパーフェクトなプランなのに」
「重さでバレバレだってば。それに、あんな平べったい箱にどうやって入る気? 布団みたいに真空パック詰めになるっての?」
「箱はいつもより大きくなりマスよ。だって、千影ちゃんのもいっしょに送られマスから。そのために、四葉は千影ちゃんのドレスを引っ張りマシタから」
「いやいやいや、アンタそれ今思いついただけでしょ。そこまで計画的だったら怪盗クローバーももっと活躍できるのに」
「クローバーは関係ないデス! 今は四葉の話なの」
「っていうか、アンタのママの話。そもそも、ママを捜すのが先でしょ。こっちはひとりで十分なんだから」
「それはよくないデス。ひとりよりもふたり。ふたりはシスプリ、なのデス」
「……シスプリ?」
「……何デスかそれ?」
「いや、アンタが言ったんでしょうが」
「きっと気のせいデスよ。ソラミミ、ソラミミ。……それとも、もうモーロクしちゃったデスか?」
「誰が!」
 いつものように四葉の口をひねり上げたそのとき、パッと目の前が明るくなった。
 白熱灯が等間隔に光る廊下の角から、いつもの服に着替えた千影が音もなく滑り出た。
「食事の時間だ。きみたち漫才コンビが来ないと始まるものも始まらない」
 腰に手を当てて言い放つ声はどこか固い。
「よ、四葉の分はありマスか?」
 千影がフッと鼻で笑う。
「白雪くんの情けに感謝するんだね」
「やった、やりマシタ! 四葉に無罪ハンケツ!」
 と、バンザイして喜ぶ四葉に先ほどまでの陰は微塵も感じられない。鈴凛の全身にどっと疲れが押し寄せる。
「じゃあそういうことで、食べ終わったらさっそくヒミツ会議デスねっ」
 声を掛ける間もなく四葉はどたばたと走り出し、千影の脇を駆け抜けて消えた。
「大変だな」
 後ろ姿を見送る千影がぼそっと呟く。鈴凛はとぼとぼと歩み寄った。
「そうでもないよ。もう慣れちゃったから」
 ふたりの肩が並んだところで千影はかぶりを振った。
「違う。そういう意味ではない」
「じゃあ、何よ」
「盗み聞きするつもりはなかったが、聞こえてしまったものは仕方がない」
 たちまち鈴凛の顔が引き締まった。
「――どこまで?」
「ドレスからだ」
 千影は不機嫌そうに鼻を鳴らし、鋭い一瞥をくれた。
「恨むぞ」
「……ごめん」
 その途端、千影に思い切り背中を叩かれた。たちまちその痕が疼く。きっと、大きな紅葉が色付いていることだろう。
 横目に様子を窺うと、千影の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、ところでどっちなの?」
「何がだ」
「麻婆豆腐ハンバーグ」
 千影の唇がきゅっと引き上がった。
「それは、見てのお楽しみだな」
 ちょうどそのタイミングで、リビングから歓声が上がった。目を細めた千影が楽しそうに囁く。
「始まったな」
「え? 何それ?」
 千影は「見てのお楽しみだ」と繰り返し、鈴凛の背中を、今度はそっと叩いた。
「さ、行こうか。みんなが待っている」
 頷いて前を向くと、今度は四葉と白雪の言い争いが聞こえてきた。これで何度目だろうか。毎度毎度でもう聞き飽きた。少しだけ変わったのに、いつもと変わらない夕暮れ。
「ったく、ホントにしょうがない子なんだから」
 千影が背中を押して促し、ふたりは並んで歩き始める。
 シャツ越しに当たる千影の手は温かかった。





 Fin.